比良坂の巨岩 一 行方不明者と来訪者

 東の果ての国、極陽國きょくようこく。それは、怪異の手を取り栄えた異端の国家である。



 大照二十一年。季節は冬。睦月は過ぎ去り、一層冷え込む如月を迎えたばかりのある日。嶋根しまねのとある小さな山の山道を息を切らしながら歩き回る一人の少女が居た。昨夜降り積もった冷たい雪は日暮れの光で照らされて橙色に染まっている。


 少女の名は、東雲問志しののめといし常磐山ときわやまと呼ばれる小さな山の中腹で家族と暮らす、十六~十七歳前後の娘であった。動き易いよう丈を短くした袴の下には厚手のストッキングを履いており、更に厚手の羽織を着込んでいるものの吐く息は白い。二つのおさげを揺らす様は純朴な少女然とした風貌だが、そのあどけない容姿に似合わず、右目は黒革の眼帯と更にそれらを隠すように伸ばされた髪とで覆われていた。もう反対の眼は、夕焼けを転写したような朱色だ。


 一人雪山を登る少女の表情は険しく、足取りは重い。太陽は容赦なく西の空へと沈みつつあったが、問志は歩く度に雪の中へと沈む足を前後に動かすのがやっとで、とてもではないが歩く速度を上げるほどの体力は残っていなかった。

 それもその筈、彼女は朝から一日中 常磐山ときわやまとその麓に広がる町を歩き回っていたのだから。


 やっとのことで問志が自宅の手前に架かっている小さな橋まで辿り着いたときには既に日は落ちていた。辛うじてものの姿かたちを捉えることが出来る程度の明るさは保っていたものの、周囲は青暗く、冬の夜特有の静けさをたたえている。

 しばらく、自身が雪を踏みしめる音だけを聞きながら歩みを進めていた問志だったが、ふと山道の違和感に気づいた。この常盤山に、問志と彼女の家族以外の人間が踏み入ることは滅多に無い。にもかかわらず、今朝少女が自宅を出た時よりも、橋に積もった雪を踏み固めた足跡が格段に多くなっているのだ。


「もしかして……!!」

 問志の胸に、微かな希望の灯が灯る。そのか弱い希望に縋るべく、少女は自身の足取りを邪魔する分厚い雪を振り切って足跡の向かう方へと駆け出した。

 するとどうだろう、彼女と彼女の両親が住まう民家の玄関に二つの人影が見受けられた。


 問志は、最初こそ自身の探し人が帰ってきたのだと嬉々として人影に近づいたが、すぐにそれは思い違いだったのだと気づいてしまった。背丈が違う。髪の長さが違う。何より、まとう気配が違った。一時でも軽さを取り戻していた筈の身体は、当てが外れたことで先ほどよりもずっしりと重くなったようだった。

 二つの人影は、意気消沈しながらもざくざくと雪の道を拓きながら近づく問志の存在に早々に気づいたようで、影の片割れが問志に対して小さく頭を下げた。


「あの、どちら様でしょうか…」

 問志が見覚えのない二人組にそのまま近づき恐る恐る声を掛けた。

 少女に返事を返したのは二十代半ばの若い女性だった。雪の中に、芯の通った心地よい声が響く。


「お初にお目にかかります。アタシ、糸魚真朱いといしんしゅと申します。此処は、東雲羽鐘しののめはがねさんのお住まいで間違いありませんか?」


 自らを糸魚真朱と名乗ったその女性は、大層美しい人物だった。手入れの行き届いた深紫ふかむらさきの艶やかな髪を真紅の組紐で一つにまとめて背中に流していて、鼻筋はすっきりと通り、肌は陶磁器のように白い。唇に引かれた紅がその白さをより引き立てていた。紺色の着物の上からコルセットを巻いて、更にその上から丈の短いトレンチコートに似た外套を着込む様子は、活動写真の中で生きる女優のようだと、問志は思った。


 色のついた眼鏡越しに真朱の瞳と、問志の朱色の瞳とが合う。ゆったりと微笑む彼女の仕草は気品と色香に溢れ、問志は同性ながら思わずドキリと胸が高鳴るような心地を感じた。

 兎にも角にも、辺り一面白色で覆いつくされた雪景色の中で、彼女は強い存在感を放っていた。


「確かに、そうですが…もしかして、最近母と手紙のやり取りをしている方じゃあないですか?」

 問志は思い出した。彼女が名乗った名前は、ここ最近育ての母である東雲羽鐘しののめはがねと文のやり取りがあった人物の名前だった。毎朝山の麓に設置されている郵便受けを覗くことが日課だった問志は、それを覚えていたのだ。

「東雲さんのお嬢様でしたか。ええ、間違いなく私です。確かに私がやり取りをしていましたし、証拠に東雲さんからのお返事も持ってきています。あと、此れは身分証代わりに」


 そう言って真朱が問志に手渡したものは、手の平に納まる程の大きさの名刺だった。名刺には帝都の住所、それに”榴月堂りゅうげつどう店主 糸魚真朱”と彼女の名前が記されてあった。


「嗚呼、本当だ。これは母の字です。僕は東雲問志と言います。まさか遥々はるばる帝都からいらっしゃたんですか?!嶋根しまねの山奥まで⁉」

 問志は、突然の訪問者が帝都からの客人だったことに思わず面食らう。問志の住む常盤山ときわやまがある嶋根から帝都は、下手をすれば移動だけで丸一日掛かる。


「そうなんです。実は、東雲さんにどうしても作っていただきたいものがありまして。何度も手紙を差し上げたのですけれども、いいお返事を頂けなかったものですから、直談判に伺いました。ああそれと、隣にいるのは私の連れで、えんじゅといいます」

 槐と呼ばれたその存在は、真朱に促されてちらりと問志を見ると僅かに会釈をした。炭色すみいろのツナギの上から白い外套を羽織っていることは確認できたが、外套を頭から目深に被っている所為せいで、問志が容姿を確認することはほとんど出来なかった。唯、外套の隙間からちらりと覗く肌は死人のように血色が悪い。強い存在感を持つ真朱とは対照的に、周囲の雪に埋もれてそのまま呆気なく消えてしまうような不安定さを問志はどことなく感じた。


 問志は、来訪者である真朱と槐に少なからず同情した。何故なら、問志は二人の此処までの労力に報いる返答を用意できないのだから。

「…あの、折角来ていただいて申し訳ないのですが、母は今此処にはいないのでお引き取りください。」

「何処かに出掛けていらっしゃるんですか?それなら待たせていただきます」

「ええと、…いつ帰ってくるのかわかりませんし…」

「”帝都”から遥々嶋根まで来て、流石に手ぶらで帰る訳にはいきませんの」


 最初こそやんわりと真朱へ帰路へ着くように促していた問志だったが、一向に引く様子を見せないしぶとい真朱に観念して、事情を話すことにした。

「あの、正直に話しますと、昨日の夜から父と母は行方がわからないんです。連絡先はこうしていただきましたし、二人が帰ってきたら必ず連絡します。ですから、一度帝都にお帰りください」


「…行方不明?」

 真朱が眉をひそめて問志の言葉を反芻すると、懐から扇子を取り出した。閉じられたままのそれを手の中で弄びながら、真朱は問志に対して更に問いただす。

「警察に連絡は?」

「勿論しました!!ですが…」

「今の今まで進展はない、と思ってよろしいようですね」

 問志は無言で頷く。


「おひい様が来るってわかって隠れたんじゃネェの?」

 新種の隣に控えていた槐が真朱にだけ聞こえる程度の声で小さく呟いた。その声色は小声で会話を行っているためか、何故か酷く輪郭が不明瞭で聞き取りずらさを感じさせる声だった。

「それなら彼女も一緒に隠すでしょうよ」


 真朱はえんじゅの予想を即座に否定した。彼女は扇子を弄る手を止めると薄緑の硝子の嵌った眼鏡を外し、問志を見つめた。薄い虹彩の瞳は銀色に輝いている。

「東雲さん、警察が当てにならないのならば、私達を当てにしてみませんか?それなりに探し物は得意ですからお役に立ちますよ?」

 真朱の申し出に、問志は一も二もなく飛びついた。

「…本当ですか?!是非、お願いします!」

「あら即答」

 問志は大海で出会った浮木を逃すまいと、真朱の手を強く握った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





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