比良坂の巨岩 十四 見知らぬ窓辺

 かたん、かたん、かたん、かたん。

 規則的な振動音が遙か遠くに聴こえると、問志は思った。

「......ぅん...?」

 意識が徐々に鮮明になりつつある中で、問志の頭の端には疑問が浮かぶ。鍾乳洞の内部は手足がかじかむ程に冷え切った空気が充満している筈だというのにやけに身体が暖かい。暖房が効いた母屋に移動したにしては空気がこもったような感じもする。


「……あれ?」

 違和感に急かされるように重い瞼を持ち上げた問志の目の前には、折れた傘を一等大事そうに抱え込みながら、窓の外を眺める槐の姿がある。印象的だった白い外套は脱いでおり、血液で色の変わったツナギもどうやら着替えたらしく、血痕どころかシミひとつない。

「槐、さん?」


 槐の視線が窓の外から問志へと移る。

「おはよう。思ったより早かったナ。まダしばらく掛かるから寝ときな」

 ”暫く掛かる”とはどういうことなのか尋ねようとした問志の視界に、硝子窓がチラついた。窓の外の風景は、右から左へと急激に流れている。

「………え?」


 そう、急激に流れているのだ。

 慌てて問志が硝子窓の反対側を見ると、その空間はマホガニーと真鍮製の扉によって囲われていることがみてとれた。三畳程度の小部屋には厚手の布地で覆われた四脚のリクライニングチェアが二脚ずつ向かい合わせに並んでいる。床には絨毯じゅうたんが敷かれ、その下から僅かに振動を感じる。

 東雲問志は、鉄の線路の上を走る機関車の一席に何故か腰を下ろしていたのだ。


「……槐さん、此れは一体どういうことか、説明してください。お父さんとお母さんは何処ですか」

 困惑する問志と向き合う槐に敵意は感じられない。代わりに少しの憐憫が浮かんでいた。


御両所様ごりょうしょさまは此処にはイないが、無事だって事は保証する。詳しいことはうん、真朱に聞いてくれ」

「……糸魚さんは何方どこに?」

「機関車酔いシたから外の空気吸ってくるっつって四半刻くらい前に席を外してそれっきりだな。そろそろ戻ってくンだろ」

「えっ、それってかなり具合が悪いんじゃ」


 姿の見えない真朱を気にかける問志に対して、槐は特別心配する様子もなく淡々と答えた。

「よくある事だから気にすんナ。おひい様自身ももう慣れっこだカら、不肖らの出る幕はない。おひい様がか弱いのは今に始まっタことじゃないし、むしろ今回は遠出した割にはよく今まで保ったもんだよ」

「そう、ですか。……あの、僕機関車なんて初めて乗ったんですが、本で見たものと大分様子が違うような」


 一般的に機関車の座席といえば、細長い車体の中心を動線とし、その両端に二脚ずつ帆布はんぷの張られた椅子が均一に備え付けられたものである。それに対して、問志たちの座っている座席に張られた布は明らかに上等なものであったし、その他備え付けられたものをみても全体的に贅沢な作りをしている。


「個室を取ろうと思っタらどうしたって高い席を買わなきゃならないんだよ。おひい様曰く"体調崩したとき、普通の席だと周りの視線が煩わしいから嫌"なんダと。それに、」


 槐が言葉を続けるより先に、タイミングよく重たい扉が開く。其処そこには、青白い顔をした真朱が扉の縁に少しもたれるようにして立っていた。

「大事な話が沢山あるのに、聞き耳立てられたらたまったものじゃないもの」

「おひい様おかえり。何処から聞いテたんだい?」

「そうね、アナタが"詳しいことは真朱に聞いてくれ"って言ってた辺りかしら」

「殆ど最初から居たんじャねぇか」

「少し渡りの船を狙うくらい良いじゃないの。さて槐、席を代わって頂戴な」


 真朱に促された槐はするりと席を立つと、問志の隣へと音もなく座り直した。

 問志の向かいの席へ腰を下ろした真朱は、問志に向かって悠然と微笑む。薄い緑色をした硝子レンズ越しの瞳は優しげだが、見るものを魅了する蠱惑さを孕んでいる。


「あの、具合はもういいんですか」

「万全の状態、と言えば嘘にはなるけど、槐が話した通り慣れてるから気にしないで頂戴。といっても、気になるものは気になるでしょうけど」

 真朱の顔は未だ血の気が薄く人形めいている。


「本題に入りましょう。先ず、此処は嶋根しまねから岡海おかうみ経由で帝都の下野しものまで乗り継ぎなしで運行する蒸気機関車の中。貴方が此処にいるのは、アタシが貴方のご両親にそう依頼を受けたから。きちんと契約書もあるから、後でお見せするわ」


「依頼?僕を帝都に連れて行くことが、ですか?」

「間違ってはいないけど正確には少し違うわ。アタシが東雲羽鐘、貴方のお母様に依頼されたのは"貴方をあの山から連れ出すこと"」

「何故?理由を母は話していましたか」


「簡単にはね。あの鍾乳洞の底に空いていた大穴、羽鐘さんは"うろ"と呼んでいたけれど、それに貴方が落ちかけたからだそうよ。"あの子はアレに片足を突っ込まされた。近くに居ればきっと引き摺られてしまう"と。アタシもあまり詳しくは教えてもらえなかったけれど察するに、おそらくあの”うろ”が常磐山ときわやまを”忌み山”にしているのだと思うわ。兎に角、ろくでもないものとえんを結びかけている貴方を、遠ざけることで守りたいのでしょう。貴方のご両親は。そうそう、くだんの訪問者に関してはアタシのほうでも調べるつもりよ。アタシの依頼にまた茶々を入れられるようなことがあったらたまったものじゃないもの。二人にはかなり強力な護符も渡してもおいたから、安心していいわ」


「肝心の、二人の容体ようだいはどうなんですか?」

「貴方を見送る頃には、ミシェルさんの脚は元に戻っていたわ。羽鐘さんの義肢についても、修理の心得はミシェルさんも持っていると云っていたから心配ないでしょう」


 緊張していた問志の肩から、安堵によってやっと力が抜ける。

「行き先は帝都である理由わけは単純。アタシ達の店が帝都にあるから。貴方はうちの従業員である槐と契約をした。血液の供給が必要なのだから、槐は貴方から離れられない。だけど今の榴月堂には槐が居て貰わないと困るの。つまり、貴方を”うろ”から遠ざけたい東雲羽鐘と、槐を榴月堂に留まらせたいアタシで利害は一致しているのよね。彼女、暫くはアタシ達じゃない方の訪問者にめちゃくちゃにされた絡繰の修理なんかでせわしなくなるとも言っていたわ。そのおかげでアタシの依頼は後回し。ま、目的自体は達成したから、脆弱ぜいじゃくな身体をおして嶋根まで来た甲斐はあったけれど」


 満足そうに目を細める真朱を余所に、槐は小さく溜息を吐いた。

「そのお陰で不肖は胴に穴が開クわ傘が真っ二つになるわ散々だったけどナ」

「傘の修理代位、出してあげるわよ。それに貴方だって収穫は在ったでしょうに」

「それは否定しねェけどな」

「……下野に着いたら両親に連絡を取らせてください」


「勿論構わないけれど、通話機ならそこの扉を開けて左手に三両進んだ所にもあるわよ」

「……もう少し心の整理をしてから行ってきます」


 問志は事情を大方おおかた理解したものの、意識の無い自分を蒸気機関車に乗せることを了承した羽鐘と、それを実行した真朱に対して複雑な感情を持たざるを得なかった。真朱に関しては"そう依頼を受けた"のだと思えばまだ納得できたが、問題は羽鐘である。


 彼女が、自分でこうと決めたら多少強引にでもことを進める性質たちであることを長く生活を共にしてきた問志はよくわかっていた。わかっていた筈だった。

 しかし、それら”強引なやり方”というはもっぱら羽鐘自身に関することで、例えばミシェルに苦言をこぼされても徹夜で工房に籠るようなことが大半だったのだ。

 その気質が、まさかこのタイミングで自分に降りかかるとは。


「それにしたって、少し位僕に猶予をくれたってよかったのに……」

「そこはまあ、気の毒ダと不肖も思わんではない。だがお嬢さんがあの山に戻れなくても、御両所様に会いたいならあっちを帝都に呼び出せばイい。暫くしたら絡繰の修理とやらも落ち着クだろうさ」

 項垂れる問志を見かね、槐が呟く。


 多少の愚痴を吐いたことで問志の気持ちの整理は少しずつ進み、その代わりに現実的な問題が少女の思考に浮上し始めていた。

(話が進んでしまったものは仕方ないとして、住むところも働くところもどうしよう。まともに雇ってくれるところ、あるかなぁ)


 なんせ身体一つで両親に送り出されてしまったのだ。このままでは明日の食事さえ危うい。

 真朱に働き口の斡旋あっせんを頼む位の我儘は聞いてもらおうと考えた問志が、それを口に出すより先に、彼女の紅で色づく唇から発せられた言葉は少女の心配事を一瞬で拭ってしまうものだった。


「というわけで榴月堂新入社員の東雲問志さん、此れから宜しくね。住み込みだから衣食住もちゃぁんと担保するわよ」


「あっ…………はい。よろしく、おねがいします…?」

 真朱の弾けんばかりの笑顔は、屈託のない少女の顔だ。

 かくして東雲問志の就職先は、榴月堂りゅうげつどうったのであった。





 比良坂の巨岩 おしまい

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