比良坂の巨岩 十三 焔

「っおい待てっ‼︎マだやっこさんんだぞ‼︎」

 そのまま勢いよく二人の前へ駆け出さんとする問志の身体を、槐は咄嗟に羽交い絞めにして抑え込んだ。

「だっ、だって‼︎」


 槐の腕から逃れようと藻掻く問志と、そんな彼女を必死で引き留める槐。一人と一鬼の言い合いを遠巻きに見ていた真朱は、取り乱す問志を落ち着かせべく彼女へ声を掛ける。


「問志さん、ご両親は無事ですから少し深呼吸でもなさって。槐アナタもよ」

「……あ、れ?糸魚さん?なんで此処に?あの男の人は?」

 問志は、声を掛けられてはじめて両親の傍に立っている人物がくだんの男ではなく糸魚真朱だと気づいた。


 僅かに冷静さを取り戻した問志が周囲を見渡せば、腰かけ代わりに出来そうな鍾乳石の傍で、外套をまとったまま力なく地面に転がる人型の抜け殻がある。

 事態を上手く吞み込めずに目を白黒させる問志とは違い、槐はそれを見て大まかな顛末を察したようだった。


「おひいさま、ったナ?」

ってないわよ、壊しはしたけど。近づいてよく御覧ごらんなさい、れは只のお人形。術で生きている様に見せていただけよ」

「なんだァ?それじゃあ傀儡くぐつ傀儡くぐつヲ操ってたってことかぁ?」

「……どういう事?」

「後で詳しく話す。それヨりお嬢さん、悪かったな引き留めて」

 槐の腕から解放された問志は、今度こそ両親の側に駆け寄った。


「あっあっ、腕っ、あし、病院っ、病院でいいの??」

 両親の惨状を間近で見てしまったために再び錯乱しかける問志に応えたのは、話すことすらままならなくなるほど疲弊している筈の羽鐘だった。


「……問志落ち着きなさい。オレは義手を外されだけだし、ミシェルの脚もオレの血を飲めばすぐ生えてくる。トカゲのしっぽみたいに」

「合ってるけどその表現はなんとかならないの」

「最適解だろ。それより、オレは問志が無事で安心しているよ。散々な目に遭わされて怖かったろうに......おい、ミシェル」

「はいはい」


 羽鐘は座り込む問志の身体をさすってやろうとしたが、直ぐに自身の二の腕から下が地面に散らばっている状態であることを思い出し、小さくため息を吐く。羽鐘に目配せされたミシェルは、それだけで彼女の意図を汲み取ったらしい。


 ミシェルの手が、強張ったままの問志の手に触れる。

 彼の手は長時間冬の外気に晒された為に冷たくなっていたが、少女にとってそんなことはどうでもよかった。いたわりに満ちたその手によって、心配と緊張と恐怖とで凍り付いていた問志の意識はいとも簡単に融解していく。


 緊張の糸が解けて、目の奥が熱を持つ。一言でも声を出せば泣き出してしまいそうで、問志は震える口を強くつぐんだ。

「心配かけちゃってごめんね、もう大丈夫だよ」

 ミシェルが眉を八の字にして微笑む。


「……よかっ…ふっ、う゛」

 ついに耐えきれず、問志の瞳からポロリと一粒雫がこぼれた。問志は慌てて瞼に力を入れて強く閉じ、両の手で顔を押さえつけるようにして俯く。


 深く息を吸って、吐く。それをいくらか繰り返して問志は自身の心を落ち着かせようとした。泣いている暇があれば、その間に一刻でも早く満身創痍の二人を暖かい母屋へ連れていき休ませてあげたい。沈黙する自分へ二人が話しかけてこないことを、ありがたいと思った。


 ほんの少しの間そうやって動かないでいると、問志の瞼の裏から感情の波が引いていく。そのことに、少女はひどく安堵した。

 両親をなるべく早急に自宅まで移動させる為には、真朱と槐にも手を貸して貰わなければならない。一人と一鬼に声を掛けるべく、問志は顔を上げて立ち上がった。



 ただし、問志の喉から発せられた音は二人を呼びかける声ではなく、気道から空気の漏れるような悲鳴にもならない音だった。

 

 問志の視線の先には、”影”が在った。


 丸い頭部と細長い胴体、胴体の上部から左右に伸びる二本の腕。輪郭こそ煙のように明瞭としていないが、明らかに人の形をしていた。羽鐘とミシェルの背後にそびえる鍾乳石の壁を投影機とうえいき代わりにしているとでも云うような巨躯を持ったそれは、影の巨人と呼ぶに相応しいものだった。


 ……影はあくまで物質の輪郭のみをなぞる姿見である。影と影同士の視線が交差することはあっても、生身の人間と影の人間の視線が交差することはない。

 ところが問志は、影の巨人と”眼が合った”と根拠なく確信出来てしまった。少女がそう認識した途端、最初に外套の男と向き合った際に味あわされた抵抗できない程の強い睡魔が再び問志に襲い掛かる。


 問志の沈みゆく視界には、問志の異変に気付いた母。そしてその母へと伸びる影の巨人の手指が映った。

 ……あれを母に触れされてはいけない。あれは、とてもよくないものだ。洞窟内を散々走り回って火照った自身の身体が、急激に冷えていくのを問志は感じた。少女の瞼は、彼女の意思と反して刻一刻と閉じていく。


 その時、冷たい鈴の音が問志の脳を揺さぶった。

 意識がはっきりした状態で聞けば、苦痛を感じてしまうのではないかと思うほどの甲高く強く、美しい音。しかし、問志はその鈴の音の恩恵を確かに受け取った。ぼやけた視界は鮮明さを取り戻し、覚束おぼつかなかった意識は覚醒する。朝焼け色の眼球が捉えているのは、あと一寸程で羽鐘へと触れる影の指。

 問志は、きつけられた感情のままに叫んだ。



「その人に、触らないで!!!!!!!」



 問志の拒絶の意思に応えるように、少女の足元から黒い焔が溢れ出した。

 それは一瞬で鍾乳洞の天井まで到達し、影の巨人へと襲い掛かる。巨人は羽鐘に触れかけていた手をぴたりと止め、呆気に取られた様子で黒い焔が絡みつく自身の身体を眺めていた。やがて巨人の肩が細かく震えだす。その影は笑っている様にも、泣いている様にも見えた。


 問志の怒号どごうへ最初に反応したのは、槐だった。

「おいお嬢サん!!急に何してんだ!!」

「何って、あの影!!お母さんに何かしようとしてたんですよ!?!?」

「影だァ?」

「……待って問志さん、貴方何か視えているの?」


 真朱達は困惑に満ちた表情で少女を見ている。それでやっと、問志は影の巨人が自分にしか知覚できていないことに気が付いた。問志以外には、彼女が突如 錯乱さくらんしたようにしか視えていなかったのだ。

「あのっ、此処にっ!!…あっ」


 気が付けば、影の巨人は背丈が槐と変わらない程度までに小さくなっていた。それでも尚、黒い焔の海は巨人だったものを食い尽くさんと身体中を這い回っていく。

 一際大きな焔が燃え上がり、彼の首にあたる部分が落ちた。それが合図だったとでもいうように、胴体部分も随分呆気なく崩壊していく。

 そうして影の虚人が朽ちた跡には、塵一つ遺っていなかった。


「今度は如何どうしたっテんだ?」

 問志の訴えと真朱の様子から只事ではない気配を感じ臨戦態勢を取っていた槐が訊ねる。

「....影が、消えました。此処にいたんです。天井に頭が届くくらい大きかったんですけど、急にしぼんだみたいになって、頭が落っこちて……。あれ、この焔、槐さんが気付いて出したんじゃあないんですか?」


 脅威が去ったことで徐々に冷静さを取り戻してきた問志が、槐に尋ねかえす。槐は即座に首を横に振った。

「お嬢さんから"此処に影がある"と言われルまで、不肖は認識さえ出来てなかったんダ。その焔を出したのはお嬢さんだろうさ。」

 槐はそのまま面白がるように、感心したように話を続ける。

「それにしても、不肖ふしょうと契約したてでよくそこまで景気良く不肖の怪異を扱えタもんだ」


 黒い焔は問志の敵意の対象が消えた為だろうか、徐々に下火にこそなってはいるものの、何もない空間を焦がすように未だくすぶっている。

「槐さん、これ、ど、う...ぅ」

 "どうやって消すんですか"と、未だに消えない焔の扱いを槐に聞こうとした問志の声は、そのまま音として吐き出されることはなかった。


「おっとっ?!おイ、しっかりしろっ」

 安堵と疲労に引き金を引かれ、急激な睡魔が問志を襲う。体の力が抜け、倒れこむ問志を咄嗟に支えたのは槐だった。


 三度目の鈴の音が鳴り響くことはなく、東雲問志の意識は今度こそ夢の沼底へと沈み込んで行った。

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