比良坂の巨岩 五 白い腕と奈落
暗い暗い石階段を、問志はカンテラの灯り一つを頼りにして降りていく。最後の一段を下りきったその先で少女の目に映ったのは、地上に建てられている工房より一回り程広い洞窟だった。
粗削りではあるが地面も壁も
問志を此処まで導いた紙の蝶たちは洞窟内を旋回していたが、やがて
それは、一辺が九十センチ程の大きな
紙の蝶は、この箱を懐中時計の対となるものとして追いかけてしまったのだろうか。
幸い鍵はなく、上蓋を持ち上げてしまえば中身を確認することは
そうして。
「……お母さん…じゃ、ない、誰?」
匣の中で眠るその人物は、羽鐘にとてもよく似ていた。
彼女ないし彼がそもそも人ですらなく、漆塗りの棺桶に納めされた大層精巧な人形だと問志が気づいたのは、カンテラの灯で暴かれたその肢体の関節
それでも、
この人形が何のためのものかはわからないが、蝶たちが引き寄せられるだけの説得力はあった。
しかし、問志が探しているのは人間の羽鐘とミシェルだ。二人に直接繋がるような手掛かりがない以上、ここに長く留まる理由はない。
問志は社へと向かった真朱達の後を追うべく、石階段へと踵を返そうとした。
その時ふいに、背後から小さな、聴き逃してしまってもおかしくないほど小さな、鈴の音が聞こえた気がして問志の足が止まる。
振り向けば、上蓋が開いたままの匣の中に羽鐘と瓜二つの人形がいる。胎児のように身体を丸めた格好で瞼を閉じていたはずの人形。
それと問志の〝眼〟が合った。
あまりに仰天して、問志の喉は情けなくひゅっと空気を絞り出した。
水銀色の眼球はガラス球だと言い聞かせるには余りに強い光を放っており、その光で自身の内側を暴かれてしまうような心地になって身体が強張る。
指先一つ動かせないほどその瞳に魅せられた問志は、その視線から逃れる様に、抵抗するように、無理矢理に瞬きをひとつ。
瞼を押し上げた問志が再び人形の魔性に囚われることはなく、人形は瞼を閉じたまま、生気のない肢体を冷たい冷気に晒している。
「……なに、今の」
問志の動揺に応えるように、再び問志の耳を鈴の音が霞めた。今度は、はっきりと聴こえる大きさだ。
規則的なリズムを刻む金属音は少しずつ問志から遠ざかっている。まるで問志を洞窟の奥へと誘導するかのようだった。
「……こっちに来い、って言ってるんですか」
不思議と、恐ろしくはなかった。
問志は棚に収納されていた適当な工作用の小刀を懐に仕舞い込み、カンテラを高く持ち上げて周囲を照らしながら、透明な案内人を追いかけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こほっ…
「
東雲家からほど近い廃墟と化した木造の建物は、問志が話したとおりの惨状だった。辛うじて形を残す鳥居だけが、この場所がかつて大いなるものを奉る場であったことを訴えている。
問志に借り受けたカンテラで照らされた内部は外観よりも悲惨だった。天井には穴が開き、床板は腐り、雪の重みでいつ崩れ落ちてもおかしくないほどに
暫くすると、二人の前に現れた大きな扉が現れた。金色の装飾は
「……なァおひい様」
「なに」
扉を開けようと手を伸ばした真朱の手は、槐によって阻まれた。
「これ以上は身体に障る。止めタほうがいい」
「此処まできてアタシに引けと?」
「この奥は拝殿だ」
「……こふっ、咳き込むくらいなんともなっ、っぐ」
槐の制止を振り切って真朱が扉を僅かに開いた途端、彼女は大きく
「あーアー、そんなに咳き込んじまって。言わんこっちゃねェな」
「くっそ…、げほっ」
「
「だけど…」
槐は渋る真朱を立ち上がらせると、埃を被った彼女の衣服を叩く。
「それに、向コうの蝶が当たりを引いてなきゃそろそろあのお嬢さんがこっちに来る筈だ。来ていないなラ探しにいってやる役も要るだろう?」
「…確かにそれは、一理あるわ。…わかった。わかったわよ一旦引くわ。アナタが東雲羽鐘を見つけたらなるべく沢山恩を売っておいて頂戴」
「はいヨ。おひい様のお望み通りに」
槐は真朱が回廊の角に消えるまでその背をずっと見守っていたが、いよいよ揺れる深紫の髪の束が見えなくなると、彼女が先ほど開こうとして断念した
扉の内部は、拝殿とは名ばかりの空虚な
槐がぐるりと周囲を見渡せば天井から掛けられていたであろう御幕は千切れ、供物を捧げるための鳥居に似た形をした経机は真ん中で叩き折られているのが見て取れた。
それに応えるべく、聖域としての役割を果たさなくなって久しい廃墟の中を、槐は
「……
彼の
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
工房の地下に存在した洞窟は、問志が
通り道の入り口は大の大人が横に五人ほど並べる幅を持っていたが、問志が歩みを進める度に
暫くの間、問志が
「……こんな場所、あったんだ」
少女の口から思わず感嘆が漏れる。
問志の眼の前に広がっていたのは、先ほど少女が発見した洞窟とは比べられない程広い空間の中、鍾乳石で出来た無数の
問志は、先ほどまで鳴り続けていた鈴の音が消えているのことに気が付いた。どうやらここが目的地と考えていいようだ。
鍾乳洞の中はどこもかしこも白く滑らかな石で覆われていて、生き物の気配をまるで感じなかった。”度が過ぎて清浄な水の中で魚は生きられない”何処かで見聞きした言葉が、問志の頭を掠める。
鍾乳洞の中を進んでいくと、丁度進行方向の岩壁に映っていた細長い影の一つがゆらりと動くのが見えた。誰かがいるようだ。
問志が大きな柱状の石たちで身を隠しながら徐々にその影に近づいていくと、人の話し声が聞こえた。
羽鐘の声だ。それも、今まで問志が聞いたことのないような冷たく苛立ちに満ちた声である。
羽鐘の姿を確認するべく石柱から身を乗り出せば、鍾乳洞の奥で昨日から行方を眩ませていた少女の両親が縫い付けられたように硬い地面に座り込んでいた。二人は天井から床まで貫く一本の鍾乳石を挟んで背中同士を合わせており、後ろ手で拘束されている。
少女は思わず声を上げそうになり、咄嗟に自身の口を塞いで石柱の裏へ引っ込んだ。見覚えのない人影が二つ、両親の前に立っている。
幸い誰も問志には気づいていないようだった。再度石柱から顔を出し、様子を
「だから何度も言わせるな。素性も知れない目的もわからない、オマケに礼儀もない連中に説明してやることは何もない。第一、”それ”読んで自力で理解できないならオレが説明したところで程度が知れてる」
「そうとも限らないよ。君の知識と技術はこの國では唯一だ。例え君の言う通り欠片しか理解が出来ずとも、それだけで十分に価値はあるだろう」
羽鐘は疲労の浮き上がった顔を上げ、自身を見下ろす背の高い人物を睨みつけている。その人物は丁度問志の隠れる石柱に背中を向けていて、頭からつま先までを覆うように暗い色の外套を纏っていた。低く、それでいて空気を真っ直ぐ震わせる男性的な声の主の語り口は、妙に軽々しい。
「別に答えてくれるなら鬼の君でも構わないのですが」
「僕が彼女の意向に反することをするとでも?」
外套の人物の言葉を半ば遮る様に拒絶したのはもう一鬼の行方不明者、ミシェル・セルマンだった。
すっきりした輪郭をもつ端正な顔立ちの上には形式ばかりの笑顔が貼りつけられているが、吊り目気味の
そして鬼はもう一鬼。
問志に心当たりはなかったが、幸い外套の人物とは違いある程度の容姿を確認することが出来た。それは、遠目で見てもわかる程に、大層可憐な少女の姿をした鬼だった。
まだ見ぬ春を思わせる桜色の髪は膝下まで届く程長く、額の中心からは一角獣のごとく角ばった角が上へと伸びていた。目元は黒い布で隠さて表情を窺うことは出来ず、丸みを帯びた柔らかそうな肢体を、喪服めいた着物で包んでいる。
彼女は一言も話さず、外套の人物の傍に控えていた。
問志の注意を引いたものは、それだけではなかった。
石柱越しの視界の端、羽鐘達が拘束されている場所から少し離れたところに、何か大掛かりな機材が設置されているようだった。
問志が更に身を乗り出し機材の正体を探ろうとしたその時。
かしゃん
彼女のすぐ近くで金属特有の硬質な音が立った。地面に置いておいたカンテラと問志の身体とがぶつかり、倒れた音だった。どくり、と心臓が一鳴きして、自身の身体の中心から血の気が引いていくのがわかった。問志は急いでカンテラを掴んで胸に抱くと、息を殺し乳白色の盾の内側で身を縮こませた。
…小さい音だ。大丈夫、こっちに気づいたような声も、近づくような音も聞こえてこない。問志は自分にそう言い聞かせて跳ね上がる心臓を落ち着かせようとするが、動悸はなかなか治まらない。
「二人揃って辛抱強いね。長所だとは思うけれど、ずっとその体勢って辛くないかい?」
「お前がさっさと諦めて解放してくれればいい話なんだよぁ!!」
その間にも外套の人物は先と変わらない態度のまま羽鐘達に話しかけて続けていたが、ついに
「このままじゃあ埒が明かないですね、どうしようか。うん、取り敢えず……」
……問志の背中を嫌な予感と共に冷や汗が流れる。
外套の人物に”サクラ”と呼ばれ、名の通りの髪の色をした鬼が小さく反応した。
「”そこ”にいるから連れてきなさい」
声色を一切変えないまま、男が鬼に命令を下す。
____やっぱり気付かれていた!!
問志の肩がびくりと跳ね上がるのと、少女が身を隠していた筈の鍾乳石の柱から生白い腕が生えてきたのはほぼ同時だった。
咄嗟に逃げようとした問志の身体を、白い手が
「なに、これっ。重っ」
女人の如き滑らかな腕を引き剥がそうとした問志は、その重みと堅牢さに
「おいまさか、待てなんで問志が此処にいる!?」
娘がこの空間にいることに羽鐘とミシェルも気づいたようで、狼狽した羽鐘の声が広い空洞の中を跳ねていた。
問志の必死の抵抗
外套の男に近づくということは、皮肉にもその分羽鐘とミシェルに近づくと云うことになる。鬼の拘束から逃れることが無理だと悟った問志は、反撃の機を狙うべく二人の状態を確認することにした。
一つ目。二人の衣服は随分と土と泥で汚れていた。細かい切り傷や擦り傷は数えきれない程で、二人とも明らかに疲弊している。
二つ目。二人を拘束しているのは問志が捕まったものと同じあの鍾乳石の腕だった。細腕は二人の胴体まで絡みつき、
・・・・・・三つ目。二人の座り込む地面の近くに、鈍く光を反射する金属製の細長い円柱状のものと、それより二回りほど大きい薄橙色の円柱状のものが其々二本ずつ転がっている。その他にも細かい似たようなものが数本散乱していた。
見覚えがある。と、問志は思った。心当たりを記憶の底から引き揚げようとした少女は、すぐその正体に気が付いた。
知らない訳がなかった。
先ほどよりずっと激しく脈打つ心臓は、問志へ警告を鳴らすようだった。
外套の男は、問志のすぐ目の前まで迫っていた。それでも尚、その
「……あなた、父と母になにしたんですか」
問志の質問の意図を汲み取っている筈の男が、何でもないように言い放つ。
「ああ、アレか。逃げられると困るから、
「おっ、まえ!!!!このっ!!離せ!!!!!同じ目に遭わせてやる!!!!」
問志の左眼の赤は憤怒で燃え上がっていた。
拘束されたままの少女によって無茶苦茶に振り回されるカンテラは、外套の人物へは僅かに届かず、恐ろしく硬い鬼の身体にぶつかって真鍮の骨組みが悪戯に歪むだけだった。
激情に流される問志を余所に、男は至って変わりがない。
「ご息女でしたか。そんなに心配しなくても東雲羽鐘は義手を外しただけだし、ミシェル・セルマンも”童子石”には手をつけていませんよ」
「なぁにが、〝義手を外しただけだ 〟だ。神経接続してる腕だぞクソ痛いわ」
「命に別状はないでしょう?だからほら、そんなに暴れたら舌噛みますよ。少しお眠りなさい」
「
外套の男を射殺さん勢いで睨みつけていた筈の問志は自身の身体からガクンと急激に力が抜けていくのを感じた。瞼が重い。視界がぼやける。何より、思考の輪郭が濃霧に呑まれていくことに問志は焦った。冗談めいた睡魔が少女を襲ったのだ。
問志はまともに力の入らない手で、それでもカンテラを振り回す。
「…おや、意識がありますか。それなりに強い呪いを掛けたのですが、随分気丈なご息女だ。サクラ、彼女をうろの上へ」
外套の男が再度サクラへ指示を出すと、彼女は問志を抱えたまま大小様々な絡繰が設置された場所へと進んでいく。絡繰のいくつかは、強い力で握りつぶされたようにひしゃげていた。
その直ぐ傍に、直径が五メートル程の丸い
うろの周囲には幾つも照明があるにも関わらず、地表に近い部分でさえも一切の光の干渉を拒絶するように真っ黒だった。それらの
「おい!!お前何する気だ!!」
吠えたのはミシェルだった。
「何って恐喝だよ」
その言葉が合図とでもいうように、鬼の足元から僅かな地鳴りを伴って、寺院にでもあれば大層参拝者を集められるであろう巨大な掌が削り出された。自力ではもはや動くこともままならなくなってしまった問志は、簡単に巨人の掌の上へと転がされてしまう。
そのまま文字通り岩肌を持つ掌は手首から肘まで削り出され、それに伴って少女はうろの真上へと運ばれていく。
「…今このうろは、水が並々と注がれた水盤に等しい。一滴でも雫が落ちれば貴方の恐れるものが溢れるでしょう。さあ、どうします」
「そうなればお前諸共だ」
「残念ですが、そう上手くはいきませんよ」
「……わかった。オレの負けだ。お前の言う通りにしよう」
羽鐘の喉から、ついに怨嗟と諦念の混じった言葉が紡がれる。その声は、問志の朦朧とする意識の中にもはっきりと届いた。
…駄目だ。それは駄目。
羽鐘が守ろうとしていたものが何か、問志は知らない。
しかし、彼女の矜持を何処の誰ともしれない男に台無しにされるのは、我慢ならなかった。
自分がこの
しかし、急激に動こうとしたために脚は
……崩れ込んだ先は不運にも、お釈迦様の指の隙間。
支えをなくした細い体は、呆気なく岩の手から解放された。
再び、問志の意識と視野が霞んでいく。問志の眼が完全に閉ざされる直前に捉えたのは、天井の
そうして東雲問志は重力に引き
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