比良坂の巨岩 五 白い腕と奈落

 暗い暗い石階段を、問志はカンテラの灯り一つを頼りにして降りていく。最後の一段を下りきったその先で少女の目に映ったのは、地上に建てられている工房より一回り程広い洞窟だった。


 粗削りではあるが地面も壁もされていて、一目見て人の手が加わって出来た空間だとわかった。壁沿いに設えられた棚には、ぎっしりと何処か見覚えのある絡繰からくりの他に、問志の持つ灯を反射して自身の存在を主張する、鉱物のようなものもいくつも収納されている。

 問志を此処まで導いた紙の蝶たちは洞窟内を旋回していたが、やがて皆一様みないちようにあるものの上に止まると、そのまま力尽きてしまったかの如く動かなくなってしまった。


 それは、一辺が九十センチ程の大きなはこだった。表面は黒く艶めく漆で塗装されていて、真鍮で出来た装飾があしらわれている。その装飾に、問志は心当たりがあった。問志が懐に仕舞い込んでいた羽鐘の懐中時計を取り出して二つを見比べてみれば、大きさこそ違うもののどちらにも同じ図案から産み出されたのだとわかる黄昏色の鈴蘭が咲いている。

 紙の蝶は、この箱を懐中時計の対となるものとして追いかけてしまったのだろうか。


 幸い鍵はなく、上蓋を持ち上げてしまえば中身を確認することは容易たやすくできる。問志は、念押しをするべく重たい上蓋に手を掛けた。

 そうして。

「……お母さん…じゃ、ない、誰?」




 匣の中で眠るその人物は、羽鐘にとてもよく似ていた。


 


 彼女ないし彼がそもそも人ですらなく、漆塗りの棺桶に納めされた大層精巧な人形だと問志が気づいたのは、カンテラの灯で暴かれたその肢体の関節 其々それぞれに生身の人間には存在しない球体が組み込まれていたからであった。


 それでも、の人形が母親そっくりであることに変わりはなかった。毎日の様に顔を合わせている母親よりもその頬は丸みを帯びて幼く、黒く重たい髪は肩口あたりで切り揃えられいる。本物の羽鐘は両腕とも義手の為、袖の下から覗く色はいつもくすんだ金色だ。その為か、膝を抱く腕の色は人間の羽鐘の腕よりずっと生々しく感じられた。


 この人形が何のためのものかはわからないが、蝶たちが引き寄せられるだけの説得力はあった。

 しかし、問志が探しているのは人間の羽鐘とミシェルだ。二人に直接繋がるような手掛かりがない以上、ここに長く留まる理由はない。

 問志は社へと向かった真朱達の後を追うべく、石階段へと踵を返そうとした。



 その時ふいに、背後から小さな、聴き逃してしまってもおかしくないほど小さな、鈴の音が聞こえた気がして問志の足が止まる。

 振り向けば、上蓋が開いたままの匣の中に羽鐘と瓜二つの人形がいる。胎児のように身体を丸めた格好で瞼を閉じていたはずの人形。

 それと問志の〝眼〟が合った。


 あまりに仰天して、問志の喉は情けなくひゅっと空気を絞り出した。

 水銀色の眼球はガラス球だと言い聞かせるには余りに強い光を放っており、その光で自身の内側を暴かれてしまうような心地になって身体が強張る。

 指先一つ動かせないほどその瞳に魅せられた問志は、その視線から逃れる様に、抵抗するように、無理矢理に瞬きをひとつ。


 瞼を押し上げた問志が再び人形の魔性に囚われることはなく、人形は瞼を閉じたまま、生気のない肢体を冷たい冷気に晒している。

「……なに、今の」


 問志の動揺に応えるように、再び問志の耳を鈴の音が霞めた。今度は、はっきりと聴こえる大きさだ。

 規則的なリズムを刻む金属音は少しずつ問志から遠ざかっている。まるで問志を洞窟の奥へと誘導するかのようだった。


「……こっちに来い、って言ってるんですか」

 不思議と、恐ろしくはなかった。

 問志は棚に収納されていた適当な工作用の小刀を懐に仕舞い込み、カンテラを高く持ち上げて周囲を照らしながら、透明な案内人を追いかけた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「こほっ…ろくなものがなさそうね、こんなモノの近くに態々わざわざ住むなんて、あの人は何を考えてるのかしら」

同感どうかんダナ。全くもって酔狂すいきょうなお人だよ」

 たちの悪い陰欝な気配に肌を撫でられた真朱は、忌々しそうに眉根を寄せて愚痴を吐く。


 東雲家からほど近い廃墟と化した木造の建物は、問志が話したとおりの惨状だった。辛うじて形を残す鳥居だけが、この場所がかつて大いなるものを奉る場であったことを訴えている。


 問志に借り受けたカンテラで照らされた内部は外観よりも悲惨だった。天井には穴が開き、床板は腐り、雪の重みでいつ崩れ落ちてもおかしくないほどにあやうい。ただ、真朱が見た限り火事があったという話の筈が内部に焼けたような痕跡は見当たらない。不審に思いながらも、真朱は自身の産み出した蝶に先導されて槐と共に内部の崩れた回廊をどうにか進んでいく。


 暫くすると、二人の前に現れた大きな扉が現れた。金色の装飾はさびびついて、むしに内部から喰われていたが、人が居た頃であればさぞ丁寧に手入れがされていたのだろう豪奢な扉であった。白い蝶は扉の僅かな隙間から内部へと入り込んでいく。


「……なァおひい様」

「なに」

 扉を開けようと手を伸ばした真朱の手は、槐によって阻まれた。

「これ以上は身体に障る。止めタほうがいい」

「此処まできてアタシに引けと?」

「この奥は拝殿だ」

「……こふっ、咳き込むくらいなんともなっ、っぐ」


 槐の制止を振り切って真朱が扉を僅かに開いた途端、彼女は大きくき上げその場にしゃがみ込んでしまった。痙攣する真朱の背中を、槐は慣れた手つきでさする。

「あーアー、そんなに咳き込んじまって。言わんこっちゃねェな」

「くっそ…、げほっ」

此処ここにいたって、おひい様は消耗するだけだ。後は不肖が探しテやるよ」

「だけど…」

 槐は渋る真朱を立ち上がらせると、埃を被った彼女の衣服を叩く。


「それに、向コうの蝶が当たりを引いてなきゃそろそろあのお嬢さんがこっちに来る筈だ。来ていないなラ探しにいってやる役も要るだろう?」

「…確かにそれは、一理あるわ。…わかった。わかったわよ一旦引くわ。アナタが東雲羽鐘を見つけたらなるべく沢山恩を売っておいて頂戴」

「はいヨ。おひい様のお望み通りに」


 槐は真朱が回廊の角に消えるまでその背をずっと見守っていたが、いよいよ揺れる深紫の髪の束が見えなくなると、彼女が先ほど開こうとして断念したくだんの扉を開け放った。


 扉の内部は、拝殿とは名ばかりの空虚なはこであった。屋根に空いた大穴から外光が差し込んでいるお蔭で、薄暗くはあるが視界は思いのほか確保できていた。

 槐がぐるりと周囲を見渡せば天井から掛けられていたであろう御幕は千切れ、供物を捧げるための鳥居に似た形をした経机は真ん中で叩き折られているのが見て取れた。


 かびが生え、腐った畳と壁には人が焼き付いたような不気味な形の染みがいくつもこびり付いており、肝心の紙の蝶は拝殿の更に奥へと羽を重たそうに上下させながら彼を誘導している。


 それに応えるべく、聖域としての役割を果たさなくなって久しい廃墟の中を、槐は躊躇ちゅうちょすることなく土足のまま突っ切っていく。槐の白い外套が翻る様は、幽鬼によく似ていた。



「……みじメなもんだ」

 彼のつぶやきに応えるものは、誰もいない。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 工房の地下に存在した洞窟は、問志がくだってきた石の階段の他にもう一つ人が通れる道があった。紙の蝶と入れ違うように鳴り出した鈴の音は、暗がりの奥へ奥へと問志を誘導していく。


 通り道の入り口は大の大人が横に五人ほど並べる幅を持っていたが、問志が歩みを進める度にせばまり、遂には華奢な少女の身体でも通り抜けることに苦心するほどの道幅まで収縮してしまう。それでも、鈴の音は更に奥へと進むよう問志をせっついていく。


 暫くの間、問志がなかば岩と岩に挟まれるようになりながら鈴の音の後を追っていると、突然少女の身体を圧迫していた岩肌が離れ、目の前が拓けた。

「……こんな場所、あったんだ」

 少女の口から思わず感嘆が漏れる。


 問志の眼の前に広がっていたのは、先ほど少女が発見した洞窟とは比べられない程広い空間の中、鍾乳石で出来た無数の氷柱つららが天井から地面へと伸びている巨大な鍾乳洞だった。周囲は人工的な白色の照明で明るく照らされ、ずっと暗闇の中を歩き続けていた問志はほっと胸を撫で下ろした。カンテラがあったとはいえ小さな灯一つと空間全体を照らす灯では、やはり心持ちは変わる。


 問志は、先ほどまで鳴り続けていた鈴の音が消えているのことに気が付いた。どうやらここが目的地と考えていいようだ。

 鍾乳洞の中はどこもかしこも白く滑らかな石で覆われていて、生き物の気配をまるで感じなかった。”度が過ぎて清浄な水の中で魚は生きられない”何処かで見聞きした言葉が、問志の頭を掠める。


 鍾乳洞の中を進んでいくと、丁度進行方向の岩壁に映っていた細長い影の一つがゆらりと動くのが見えた。誰かがいるようだ。


 問志が大きな柱状の石たちで身を隠しながら徐々にその影に近づいていくと、人の話し声が聞こえた。

 羽鐘の声だ。それも、今まで問志が聞いたことのないような冷たく苛立ちに満ちた声である。

 羽鐘の姿を確認するべく石柱から身を乗り出せば、鍾乳洞の奥で昨日から行方を眩ませていた少女の両親が縫い付けられたように硬い地面に座り込んでいた。二人は天井から床まで貫く一本の鍾乳石を挟んで背中同士を合わせており、後ろ手で拘束されている。


 少女は思わず声を上げそうになり、咄嗟に自身の口を塞いで石柱の裏へ引っ込んだ。見覚えのない人影が二つ、両親の前に立っている。

 幸い誰も問志には気づいていないようだった。再度石柱から顔を出し、様子をうかがうために目を凝らし、耳を澄ませる。


「だから何度も言わせるな。素性も知れない目的もわからない、オマケに礼儀もない連中に説明してやることは何もない。第一、”それ”読んで自力で理解できないならオレが説明したところで程度が知れてる」

「そうとも限らないよ。君の知識と技術はこの國では唯一だ。例え君の言う通り欠片しか理解が出来ずとも、それだけで十分に価値はあるだろう」


 羽鐘は疲労の浮き上がった顔を上げ、自身を見下ろす背の高い人物を睨みつけている。その人物は丁度問志の隠れる石柱に背中を向けていて、頭からつま先までを覆うように暗い色の外套を纏っていた。低く、それでいて空気を真っ直ぐ震わせる男性的な声の主の語り口は、妙に軽々しい。


「別に答えてくれるなら鬼の君でも構わないのですが」

「僕が彼女の意向に反することをするとでも?」

 外套の人物の言葉を半ば遮る様に拒絶したのはもう一鬼の行方不明者、ミシェル・セルマンだった。


 すっきりした輪郭をもつ端正な顔立ちの上には形式ばかりの笑顔が貼りつけられているが、吊り目気味の眼窩がんかに嵌め込まれた鮮やかな青い硫酸銅は決して笑っていない。肩下まである柔らかく波打つ黒髪は耳下で一つにくくられており、頭部の右と左から一本ずつ突き出ている角は弧を描くように歪曲し、山羊のそれに酷似していた。身に着けているものは、真冬の装いとしては防寒能力に疑問の残る簡素な白い縦襟のシャツと黒のスラックスだけである。


 そして鬼はもう一鬼。

 問志に心当たりはなかったが、幸い外套の人物とは違いある程度の容姿を確認することが出来た。それは、遠目で見てもわかる程に、大層可憐な少女の姿をした鬼だった。


 まだ見ぬ春を思わせる桜色の髪は膝下まで届く程長く、額の中心からは一角獣のごとく角ばった角が上へと伸びていた。目元は黒い布で隠さて表情を窺うことは出来ず、丸みを帯びた柔らかそうな肢体を、喪服めいた着物で包んでいる。

 彼女は一言も話さず、外套の人物の傍に控えていた。


 問志の注意を引いたものは、それだけではなかった。

 石柱越しの視界の端、羽鐘達が拘束されている場所から少し離れたところに、何か大掛かりな機材が設置されているようだった。

 問志が更に身を乗り出し機材の正体を探ろうとしたその時。


 かしゃん


 彼女のすぐ近くで金属特有の硬質な音が立った。地面に置いておいたカンテラと問志の身体とがぶつかり、倒れた音だった。どくり、と心臓が一鳴きして、自身の身体の中心から血の気が引いていくのがわかった。問志は急いでカンテラを掴んで胸に抱くと、息を殺し乳白色の盾の内側で身を縮こませた。


 …小さい音だ。大丈夫、こっちに気づいたような声も、近づくような音も聞こえてこない。問志は自分にそう言い聞かせて跳ね上がる心臓を落ち着かせようとするが、動悸はなかなか治まらない。


「二人揃って辛抱強いね。長所だとは思うけれど、ずっとその体勢って辛くないかい?」

「お前がさっさと諦めて解放してくれればいい話なんだよぁ!!」

 その間にも外套の人物は先と変わらない態度のまま羽鐘達に話しかけて続けていたが、ついに草臥くたびれたように深く息を吐いた。


「このままじゃあ埒が明かないですね、どうしようか。うん、取り敢えず……」

 ……問志の背中を嫌な予感と共に冷や汗が流れる。

 外套の人物に”サクラ”と呼ばれ、名の通りの髪の色をした鬼が小さく反応した。

「”そこ”にいるから連れてきなさい」

 声色を一切変えないまま、男が鬼に命令を下す。


 ____やっぱり気付かれていた!!

 問志の肩がびくりと跳ね上がるのと、少女が身を隠していた筈の鍾乳石の柱から生白い腕が生えてきたのはほぼ同時だった。

 咄嗟に逃げようとした問志の身体を、白い手がはばみ捕まえる。水に濡れた腕は酷く冷たい。


「なに、これっ。重っ」

 女人の如き滑らかな腕を引き剥がそうとした問志は、その重みと堅牢さにおののき気づいた。この腕は、自身が隠れていた鍾乳石そのもので出来ている。そうこうしている内にサクラと呼ばれた鬼は、問志の眼の前まで近づいていた。


「おいまさか、待てなんで問志が此処にいる!?」

 娘がこの空間にいることに羽鐘とミシェルも気づいたようで、狼狽した羽鐘の声が広い空洞の中を跳ねていた。

 問志の必死の抵抗 むなしく、鬼は自身よりもいくらか背の高い少女を難なく抱え上げると、再び男の前へと向かうべく歩き出す。


 外套の男に近づくということは、皮肉にもその分羽鐘とミシェルに近づくと云うことになる。鬼の拘束から逃れることが無理だと悟った問志は、反撃の機を狙うべく二人の状態を確認することにした。


 一つ目。二人の衣服は随分と土と泥で汚れていた。細かい切り傷や擦り傷は数えきれない程で、二人とも明らかに疲弊している。

 二つ目。二人を拘束しているのは問志が捕まったものと同じあの鍾乳石の腕だった。細腕は二人の胴体まで絡みつき、金槌かなづちでも無ければ砕くことは厳しいだろう。


 ・・・・・・三つ目。二人の座り込む地面の近くに、鈍く光を反射する金属製の細長い円柱状のものと、それより二回りほど大きい薄橙色の円柱状のものが其々二本ずつ転がっている。その他にも細かい似たようなものが数本散乱していた。

 見覚えがある。と、問志は思った。心当たりを記憶の底から引き揚げようとした少女は、すぐその正体に気が付いた。

 知らない訳がなかった。


 先ほどよりずっと激しく脈打つ心臓は、問志へ警告を鳴らすようだった。

 外套の男は、問志のすぐ目の前まで迫っていた。それでも尚、そのかんばせを拝むことは出来なかったが、最早問志にとっては至極どうでもよかった。

「……あなた、父と母になにしたんですか」

 問志の質問の意図を汲み取っている筈の男が、何でもないように言い放つ。

「ああ、アレか。逃げられると困るから、拷問ごうもんを兼ねて四肢をちょっと。……ん?それより君…ああ、それならうん。こっちにしよう」


 分解ばらされていたのは、羽鐘の両腕とミシェルの両脚だった。


「おっ、まえ!!!!このっ!!離せ!!!!!同じ目に遭わせてやる!!!!」

 問志の左眼の赤は憤怒で燃え上がっていた。

 拘束されたままの少女によって無茶苦茶に振り回されるカンテラは、外套の人物へは僅かに届かず、恐ろしく硬い鬼の身体にぶつかって真鍮の骨組みが悪戯に歪むだけだった。


 激情に流される問志を余所に、男は至って変わりがない。

「ご息女でしたか。そんなに心配しなくても東雲羽鐘は義手を外しただけだし、ミシェル・セルマンも”童子石”には手をつけていませんよ」

「なぁにが、〝義手を外しただけだ 〟だ。神経接続してる腕だぞクソ痛いわ」

「命に別状はないでしょう?だからほら、そんなに暴れたら舌噛みますよ。少しお眠りなさい」

戯言ざれごともいい加減にっ、ぅっ…あ…?」


 外套の男を射殺さん勢いで睨みつけていた筈の問志は自身の身体からガクンと急激に力が抜けていくのを感じた。瞼が重い。視界がぼやける。何より、思考の輪郭が濃霧に呑まれていくことに問志は焦った。冗談めいた睡魔が少女を襲ったのだ。

 問志はまともに力の入らない手で、それでもカンテラを振り回す。

「…おや、意識がありますか。それなりに強い呪いを掛けたのですが、随分気丈なご息女だ。サクラ、彼女をうろの上へ」


 外套の男が再度サクラへ指示を出すと、彼女は問志を抱えたまま大小様々な絡繰が設置された場所へと進んでいく。絡繰のいくつかは、強い力で握りつぶされたようにひしゃげていた。


 その直ぐ傍に、直径が五メートル程の丸いうろが口を開けていた。

 うろの周囲には幾つも照明があるにも関わらず、地表に近い部分でさえも一切の光の干渉を拒絶するように真っ黒だった。それらのふちが真鍮の分厚い障壁しょうへきで囲われたさまは巨大な井戸にも見立てられた。


「おい!!お前何する気だ!!」

 吠えたのはミシェルだった。

「何って恐喝だよ」


 その言葉が合図とでもいうように、鬼の足元から僅かな地鳴りを伴って、寺院にでもあれば大層参拝者を集められるであろう巨大な掌が削り出された。自力ではもはや動くこともままならなくなってしまった問志は、簡単に巨人の掌の上へと転がされてしまう。


 そのまま文字通り岩肌を持つ掌は手首から肘まで削り出され、それに伴って少女はうろの真上へと運ばれていく。

「…今このうろは、水が並々と注がれた水盤に等しい。一滴でも雫が落ちれば貴方の恐れるものが溢れるでしょう。さあ、どうします」

「そうなればお前諸共だ」

「残念ですが、そう上手くはいきませんよ」

「……わかった。オレの負けだ。お前の言う通りにしよう」


 羽鐘の喉から、ついに怨嗟と諦念の混じった言葉が紡がれる。その声は、問志の朦朧とする意識の中にもはっきりと届いた。

 …駄目だ。それは駄目。


 羽鐘が守ろうとしていたものが何か、問志は知らない。

 しかし、彼女の矜持を何処の誰ともしれない男に台無しにされるのは、我慢ならなかった。


 自分がこのてのひらの上から降りることが出来れば、母はあの男の望みを叶えなくて済む。僅かに意識を立て直して身動きの取れる様になった問志は、巨人の掌で藻掻もがくべく身体を起こそうと腕に力を込めた。

 しかし、急激に動こうとしたために脚はもつれ、バランスを崩した少女は再度倒れ込んでしまった。


 ……崩れ込んだ先は不運にも、お釈迦様の指の隙間。

 支えをなくした細い体は、呆気なく岩の手から解放された。

 再び、問志の意識と視野が霞んでいく。問志の眼が完全に閉ざされる直前に捉えたのは、天井の石氷柱いしつららの間に掛かったとても大きな蜘蛛のあみ


 そうして東雲問志は重力に引きり下ろされるまま、暗い暗い深淵へと墜ちていった。

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