比良坂の巨岩 十一 幽鬼の夢


 硬い骨が砕ける音に、問志は息をのんだ。

 槐の腕は糸が切れたように動かなくなり、巨大な指の隙間から漏れ出していた焔もほとんど消えてしまった。


 桜色の鬼は自身の産み出した黒い巨大な手の中で槐が指先一つ動かさないことを確認すると、また直ぐに問志へと向き直り、近づこうと歩みを進めてくる。

 対する問志の視線は、瓦礫と化した鳥居も、自身を捕えんとする鬼の姿もすり抜けて、未だに槐へと注がれている。


「       」


 問志が槐へ向けて放った言葉は、再び何かが砕け折れる大きな音で掻き消され誰の元にも届かなかった。

 その音にハッとした問志が周囲を見れば、岩を削って作られた参道の四方八方から土色の腕が伸びてきて、鬼が問志に近づくために邪魔になった鳥居の残骸を更に乱雑に壊し始めていた。厳かな気配を生み出していた鳥居の面影は消え、ただ無残な信仰のあとと化した木片もくへんが通路の隅へけられていく。


 つい先ほどまで自身を邪魔する槐には眼もくれず、愚直に問志だけを狙っていたのは槐を油断させる為の意図的な行動だったのか。それとも、今になって漸く問志を捕まえるためには槐を先に始末する必要があると、気付いた故の行動であったのか問志にはわからない。


 ただ、彼女の挙動は僅かな仕草でさえもひどく機械的で無機質だ。自我と呼んでいいものが在るのかさえ疑わしいそのそのようは動く死体めいており、本能的な恐怖心が問志を襲う。


 問志の身体は、今すぐ此処から逃げるべきだと自身の頭に訴えかけていた。しかし、少女はその衝動を意地になって抑え込み、かわいてひりつく喉から精いっぱいの虚勢を叫ぶ。


「あの‼︎ええと、言いたいことがっあるのですが‼︎こんなに沢山鳥居を壊したりして‼︎罰当たりだとか思わないんですか‼︎」

 洞窟内を反響するその主張はいやに的外れはであるが、それを指摘するものはこの場にらず、問志は叫び続ける。


「お母さんたちが居なくなって見つけたと思ったら知らない人いるし!!二人が殺されるかもしれないなんて言われるし実際酷い目に遭わされてたし!!貴方の連れは凄い、神経を逆撫でしてくるし!!なんですか煽ってるんですか⁉槐さんには初めて会ったのに、あんな、そのっ、不埒なことっ!!もっとやり方在ったんじゃあないですか!!此処の通路もめちゃくちゃ長くて走っても走っても全然外に出られないし!!」


 鬼は何の返事も寄越さなかったが、半日余りで溜まりに溜まった鬱憤うっぷんを全て吐き出す勢いの問志は止まらない。

 やがて問志と桜色の鬼とを隔てていた鳥居の残骸は完全に取り除かれ、一歩また一歩と鬼が問志に近づいてくる。その頃には問志の足首に地面から生えてきた細い腕がいくつも巻きつき、どちらにせよ少女が鬼の手から逃れる術は失われてしまっていた。


 それでも尚、東雲問志は自身を再び地の底へ連れていこうとする鬼を劫火ごうかくすぶる眼で睨むことを止めない。

「……僕はね、とても怒っているんです。だから貴方と貴方の連れには、貴方方あなたがたがしたこと相応の対価をきちんと払って貰います」

 

 その瞬間、鬼の視界の隅に白い影が写り込んだ。


 振り返った鬼の視界を埋め尽くしたのは、ぶわりと空気を孕んで広がる白い外套がいとう、その後ろでくすぶる焔と崩れた自身の腕の残骸ざんがい。そして、自身を見つめ返す黄金の眼であった。


「油断大敵ッて、なぁ‼︎」

 槐は左脚を軸にして身体を捻ると、上がった右脚を容赦無く鬼の胴体へと叩き込んだ。彼女の身体が真横に飛ぶ。岩壁に強く叩きつけられた桜色の鬼は、バランスを崩して呆気なく転倒した。


 回し蹴りそのものの損傷そんしょうはもちろん、今まで散々彼女が出現させてきた岩の腕を燃やし続けた事がこうそうしてかなり消耗させられていたらしく、新たな岩の腕を産みだす様子もみられない。

 両腕を槐によって切断された所為で上手く起き上がれない岩鬼は、陸に上がった瀕死の魚の如くひどく緩慢に藻搔もがいている。


「ちゃぁんと止まってくれテ助かったぜ。お蔭様で奇襲は大成功。もしあのままお嬢さんだけ地上うえに上ガってたら、直ぐやっこさんに捕まるオチが待ってたよ」


 問志を拘束していた足元の岩の腕にも槐の白い焔が灯り、直ぐに脆く崩れ去る。槐の無事を確認した問志はほっと息を吐いた。

「やっぱりあれ、"うごくな"って言ってたんですね。あの音なんだったんですか?背骨でも折られたみたいな」


「其れはこれの音。大事な大事な不肖の傘がアの鬼のお陰で真っ二つだ。一発喰らわせなきゃあ腹の虫も治らなかっタってものさ」

 忌々しそうな顔をする槐の手には、柄竹が真ん中で折れた傘が抱えられている。問志が聴いた音はこの傘が折れた音だったのだ。


 槐が黒曜石の巨大な手に捕まり、骨のような硬いものが折れる乾いた音を聞いた時、問志は本気で槐の生死を疑った。

 しかし、岩遣いの鬼が問志に向き直った直後に槐はけろりと顔を上げ、彼女越しに問志へと呼びかけたのだ。

 ”うごくな”と。


 勿論、槐が声などあげれば即座に鬼へと気づかれてしまう。槐は口の動きだけでどうにか自身の意思が問志に伝わるよう努めた。其れを運良く、問志が正しく形で受け取る事が出来たため、わざと逃げずにその場へ留まったのだ。

 槐の糸によって拘束された件の鬼は、少しの間だけ芋虫の様にのたうち回っていたが直ぐに限界を迎えたらしく、ぐったりとした様子で地面に伏してしまっていた。


 伏している、筈だった。


 問志と槐が再び鍾乳洞の最奥へと舞い戻る算段の打ち合わせを早々に終わらせ、いざ動こうとしたその時、狭い参道内に呻き声のような、赤子の泣き声のような声が響いた。


 問志と槐は思わず面食らう。声の持ち主は、先程まで何があっても一息さえ漏らさなかったあの岩遣いの鬼だったのだ。幼い童女が愚図るような響きは、少しずつ理性と知性を積み重ねていき、やがて失われているかに思われた確かな自我を感じるとれるまでになる。


「……なぁんだ、結局さいごは夢からさめてしまうのね」

 薄紅の花弁が揺れるような柔らかく甘やかな声が、2人の鼓膜を震わせた。


 先程まで地面の上で藻搔もがいていたのが嘘のように、鬼は両腕がない身体を苦にする様子もなく上半身を起こし、側にあった鳥居の残骸へともたれ掛かった。

 いつの間にか目元を覆っていた黒い布は外れており、半分隠されていたかんばせが露になる。

 丸い頬、桜貝を合わせたような小さな唇、春の若葉色をした猫の眼とそれを縁取る薄紅のまつげ。焦点の定まらないその顔は、水底に沈む直前のオフィーリアによく似ていた。


「私、どこで眠っていたの?」

 鬼の問いかけに、問志は恐る恐る返事を返した。

「……此処は西出雲町の常磐山です。サクラさん、でいいんですかね。今までのこと、覚えてますか?」

「そう、あの子は確かに満開の桜を閉じ込めているの」

「あの子……?えっと、なんのことですか」

「だから私は……わたしを?…………」


 どうにも噛み合わない問志と岩遣いの鬼の会話の最中、槐は用心深く今まで散々自分達を害してきた鬼を観察していたが、何かに気づいたように小さく息を飲んだ。

「待て、アンタまさか」

 槐のつぶやきに応えるように微睡む鬼の皮膚の下で何かが割れる音がした。

 黒曜石ではない。もっと薄く軽いものが砕ける音だった。


 途端に、鬼の首回りを中心として可憐な顔や外気に晒された素足にひびが入る。亀裂は瞬く間に身体中に広がり、やがてぽろぽろと黒曜石の欠片が地面に積もっていった。

「あの、え?何が起こって?」

 動揺する問志とは対照的に、槐はひどく冷静だった。


「...悪いなお嬢さん、理由はわからんが計算が狂った。この鬼を生捕りにすンのは失敗だ。さっきの音、聴いたロう?あれは不肖達鬼の核、童子石が割れた音だよ」

「そ、れって」

 問志は、震える喉から声を絞り出す。

「死ぬってコと」


 誰かに操られていたかもしれない鬼が、自分達と対峙したことで命を落とそうとしている。その事実が少女の心に重く圧し掛かった。

「直前まで散々怪異を使って暴れてた奴が、一度蹴り転がされたくらいじゃア普通こうはならねぇんだガ、なぁ?」


 槐は小さく首を傾げながら、死にゆく鬼を見つめていた。黄金の目には僅かに憐憫が浮かんでいる。


「……ねぇ、貴方。ざくろのめのひと」

 ふと、淀んでいた鬼の眼の中に僅かな光が戻ってきた。その焦点は赤鬼の背中に庇われていた問志へと定まっている。

 槐は問志と眼を合わせると、何も言わずに鬼と問志の間から身体を退かした。


 問志が鬼の目の前まで近づき膝を折っても、彼女はいっとう穏やかな微笑みを少女へ向けるだけだった。その間にも、彼女の皮膚は古い石膏が剥がれるように地面へ落ちていく。

「もし、あなたがの子と縁を繋ぐことが有ったら、伝えておいてほしいの。最期まで私の気性きしょうに付き合わせて、ごめんねって」

 ばきっと一際大きな音が鳴った。


「……あっ」

 誰に、と問志が訊ねるいとまはなく、鬼の身体は瓦礫がれきへと還る。後に残ったものは、卵の殻のような、プレパラートの破片のような、極薄い暗褐色の残骸だった。

 槐はなす術なく童子石どうじいしの欠片を見つめる問志の側にしゃがみ込むと、小さく手を合わせた。問志も槐になかば引き摺られるようにそろりと両手を合わせる。


 時間にして数秒。槐が用意した僅かな沈黙は、彼にとって問志の為のものだった。

「……さて、お嬢さん。弔イは終いだ。最終目的、まだ残ってんだから」

 少しだけ少女の息が詰まる。問志は小さく頷き、大きく息を吸って、吐いた。そのまま、勢いよく顔を上げて立ち上がる。


 その様子を、槐は少なからず好ましく思った。

「っ、槐さん、お母さん達が居る場所への最短の道筋、わかりますか」

「勿論。お望み通りに、案内シてやるさ」


 小さな乾いた発砲音が槐と問志の耳まで確かに届いたのは、その時だ。

「これっ、まさか銃声じゃっ⁉」

「察しがいいなお嬢さん‼︎どうヤら目的地からだ‼︎急ぎな‼︎」

 うず心傷しんしょうを抱えたまま、二人は薄暗い闇の奥へと駆け出していっ た。



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