比良坂の巨岩 八 逃亡劇の結末
外套の男から”サクラ”と呼ばれていた鬼は常磐山の最下層に広がっていた大空洞を離れ、そこから派生する迷路めいた地下道をひとりきりで歩いていた。
彼女が進む道を先導するのは、空中を泳ぐ数匹の魚と人の混じり物。青い光を集めて形作られた
人魚たちの光によって明らかにされた地下の道はとても坑道と呼べる
道幅は大人二人がぶつかることなく並んで歩ける程度には広く、地面から天井までの高さは三メートル程。その中を、一定の間隔で鳥居が無数に並んでいるのだ。所々朱が剥がれている鳥居もあるが、雨風に晒されることがなかったためか地上で廃墟と化している社の鳥居などよりは随分と痛みは少ない。青い光に照らされる様は海の底に沈んでいるようで、場違いなのは尾びれをもつ人魚ではなく、脚をもつ鬼のほうにも見える。
鬼が桜色の髪を揺らしながら淡々と歩みを進める度に、着物の
外套の男と桜色の鬼によって重傷を負わされた槐であったが、なにも辛酸を舐めさせられただけではなかったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……嘘だ、なんで?といし……?」
羽鐘が暗いうろへ真っ逆さまに落ちていった娘の名を呼ぶ。その声は先程まで手酷い拷問を受けても尚虚勢を張り続け抵抗していた女のものとは思えない程に弱々しく、震えている。
ミシェルは今にも瓦解しそうな羽鐘の精神を引き戻すべく、必死で彼女を鼓舞した。
「東雲羽鐘っ!!しっかりしろ、君が壊れちゃあ駄目だろう!!」
「お言葉だけどミシェル・セルマン、もう君も彼女も彼岸に呑まれてしまうのだから、正気であってもなくても大して変わらないと思うんですよね。そっとしておいてあげた方がいいんじゃないかい?」
「……五月蠅いなぁお前に僕の羽鐘の何がわかる?」
「いやうん、君ほどは知らないかな」
外套の男に向けられたミシェルの聲は、地を這う呪いめいていた。外套の男は少しだけ後ずさると、息を小さく吐き出した。
「……それにしたって本当にあと半歩くらいだったのに、我ながら星周りが悪くて参ってしまうなぁ。どっちに転んでもよかったとはいえ、こうも惜しいと流石に堪えるのだけれ……ど…?」
懲りずにつらつらと独り言を紡いでいた男であったが、問志が落ちていった筈の
「……どうして何も起こらない?おかしい。こんな状態の
うろのすぐ近くに待機していた桜色の鬼は、男に請われると再び地面からいくつかの腕を伸ばした。それらは大穴を囲っていた真鍮の障壁を掴むと、圧縮でもするかのように地面へと押し付けて潰していった。その度に中に詰まっていたのであろう歯車や銅線等の部品が吐き出されていく。金属がひしゃげる鈍い音がいくつも重なって出来た騒音は、ガラクタになっていくものたちの悲鳴そのものだ。
「っこの、人が苦労して作ったものをなんだと思ってるんだ……」と、ミシェルの叱咤によってなんとか持ち直した羽鐘は、外套の男に弱々しいながらも悪態をついた。
「だから恐ろしいんじゃないですか。いくら才気のある君だとしても流石にアレに干渉出来るものは作れない、と今の今まで思っていたんだ。けれど現に
「……貴方、さっきからなんなんだ。コレがどういうものか知っているような癖に、どうして態々火に油を注ぐような真似を平気で出来る?」
「別に、悪あがきの一種ですよ。君達と同じでね。……あ、あとはその辺りのやつを動かしてくれればいいや」
ミシェルが投げかけた疑問への返答もそこそこに、男はうろの淵に設置されている障壁の一部を指差した。すると件の鬼は男の指示に従って移動すると、自分自身の細く白い左腕を真鍮の壁面へと伸ばす。
その時、障壁の内側から”何か”が鬼の目の前に飛び出してきた。
手に握られているのは銀色の刀。間髪入れずに、硝子の割れるような甲高く鋭い音が大空洞の中に響く。鬼の左腕が胴から離れ宙を舞い、そのまま灰色の地面に転がった。切断された鬼の腕の断面から血液一滴流れることはなく、代わりに黒曜石によく似た鋭い破断面が晒されている。
対する”何か”は、飛び出した際の勢いのまま鬼の横をすり抜けて距離を取りつつ、身体を反転させ彼女に対して再び刃を向ける。しかし、肝心の桜色の鬼は何事もなかったかのように残った右手で真鍮の壁を壊し始めた。
「……なんだコイツ」
”何か”もとい、槐は仕込み刀を傘の
この場の誰の知り合いでもないものが突如現れたことも勿論要因ではあったが、一番の理由は彼の背中に白い糸の束で括りつけられるようにして背負われた少女の存在である。うろの底に落ちた筈の問志は、槐の背中で眠っていた。
「其れは此方の台詞なのだけれど、……まあいいや。道理でうろに何も起きてくれない訳だ。ねえ君、背負っている彼女、僕らに返してくれませんか」
「ヤなこった。不肖が恩を売らなきゃなラないのはアンタらじゃあ無い」
槐は男の申し出を一蹴して、首だけを羽鐘とミシェルへと向けた。
「と云う訳で、お初にお目にカかります。不肖は
「……そいつ等と同類か」
羽鐘は強い眼光でじろりと槐を睨んだ。例えそれが虚勢であったとしても、羽鐘の瞳に再び光が灯ったことにミシェルは安堵した。
「あんな野蛮な連中と一緒にシて貰っちゃ困るな。不肖たちはお宅らに危害を加えるつもりはない。疑うのは結構だが、ご息女を引っ張り上げてヤったのは不肖だ。其処の奴らよリかハ信用出来るだろう?」
「……一旦は信用しておいてやる。オレに恩を売りたいなら、その子を連れてさっさと逃げろ」
「云わレなくても逃げるさ。とてもじゃないが今の不肖じゃあアれには太刀打ちできない」
「だったらなんで態々表に出てきた馬鹿かお前!!」
「不肖だって出てきたくて出てきた訳じゃアないんだわ!!」
槐は羽鐘に顔を向けたまま、少しずつ下がって鬼との距離を開け始める。しかし、此処で容易に逃走を許すような襲撃者であれば、羽鐘とミシェルは此処まで追い詰められなどしていない。
「それは困るな。折角人質が戻ってきたんですから、今度こそ役目を果てして貰わなきゃ」
元凶が、槐と羽鐘の駆け引きに水を差す。
「サクラ、今度こそ彼女を僕らの糧に。……赤鬼の方は、どうでもいいや」
喪服のような黒い着物に身を包んだ可憐な鬼が、男に乞われてやっと振り返った。
途端、冷たい乳白色の地面から怪異によってぞろぞろと岩の腕が
「ッこの、しつけぇなァ!!」
槐は人間一人を背負いながら、紙一重で岩の腕を回避していた。しかし、その顔には苛立ちが浮かんでおり、彼が劣勢を強いられていることを如実に表している。それでも確実に、槐は少しずつ
「おい上から来てるぞ!!」
「岩壁からも生えてきているからね!!」
羽鐘とミシェルも、見える限りの岩の腕の位置を槐に向かって叫んでいる。
「一体感が出てますねぇ。仲がいいのは結構ですけど、……ちょっとこれは不味いな。さて
腕を組んで悩むような仕草をする外套の男の視線の先では、岩の腕が槐を取り囲むようにして伸び上がっていた。槐はそれらを跳び越すように一等早く
その隙を、男は見逃さなかった。
外套の男が組んでいた腕を解く。その手に握られていたのは、刃を黒曜石で作られた数本のナイフだった。男はダーツにでも興じるかのように、槐の背中目掛けてそれらを放つ。
ミシェルがそのことに気づいたのは、既に刃物が投げられた後だった。
「問志っ!!」
背負っている筈の少女の名前を呼ばれた槐が振り向けば、嫌でも視界に映り込む数本の
「ぁ゛!?」
逃げ場のない空中で、槐は咄嗟に問志を庇って身体を
焼けるような鋭い痛みに耐えかね地面に着地した途端に膝をついた槐の身体には、手負いの獲物を逃がさんと白い腕が一斉に絡みつきだす。槐の腹に空いた傷口から鍾乳石の腕を伝って、赤黒い血液が地面へと滴り落ちていく。
「っ、この止まれックソッ」
腹部を手で押さえる槐の顔には脂汗が
ふと、槐に
「まさかこんな
いつの間にか、鬼の隣には外套の男が陣取っている。男は槐の腹部に手を伸ばすと、躊躇なく彼の身体に埋まったままの凶器を引き抜いた。
槐の喉から圧し潰された
「もう面倒だからこの鬼ごと舞台に上げてしまいたいけれど、多分君には僕の
赤鬼の首にかけられた細くて小さい手によって、彼の喉が少しずつ締め上げられていく。
……槐は自身の血に
彼の顔から脂汗は引いておらず、更には大量の血液を失ったことで青ざめている。それでも槐は口元を歪ませ、不敵に嗤った。
「……流れチまったもんは使わなきゃあな?」
赤い鬼の腕と衣服、そして灰色の地面。それらを汚す槐の血液を焚き物にして、白い焔が噴き上がった。
その焔は白い半紙を千切って作られた絵のようだった。立体感のない、やけに平面的な白い焔はぶわりと一気に大きく膨らむと、巨大な鍾乳洞に在るもの全てを呑み込んでいく。
眼球に痛みを伴うほどの白く明るい焔に耐えかね羽鐘は瞼を閉じた。自身に襲い掛かるであろう熱を予期して反射的に身構えたが、羽鐘の身体は髪の毛一本焦げることさえなかった。
白い焔がその場を支配することができたのは、僅かな時間であった。周囲を白く塗りつぶした焔は幻のように霧散していく。
しかし大空洞に元の色彩が戻ってもそこに問志と槐の姿はなく、代わりに残されたのは
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらく鬼が人魚の亡霊たちと共に地下参道を進んでいると、奥から白いぼんやりとした光が見えた。それは鬼が後を追っても逃げる様子もなく、誘うように揺らいでいる。
吸い寄せられるように、淡い光を追いかける桜色の鬼と数匹の人魚。あと僅かで光の正体を暴けるところまで近づいたその時、突如として人魚たちの青い身体が一斉に音もなく白い焔に包まれた。雪のような、紙細工のような異形の焔によって、鬼の側使えたちは一瞬で塵も残さずに消えていく。鬼は消えた人魚たちに
そうして岩の腕を操る鬼は、光の正体と対峙する。
揺らぎ光を放っていたのは、金属製のカンテラに収まった人魚を燃やしたものと同じ白い焔だった。カンテラを持つのは、おさげにした黒炭の髪の隙間から赤い焔の眼を覗かせる一人の少女。東雲問志がひとりきりで、参道の途中に立っていた。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ。なぁんて、この歳で云うことがあるとは思いませんでしたよ」
自嘲めいた呟きが会話へ転化することはなく、独り言のまま暗い闇に溶けていく。
問志は桜色の鬼との距離を一定に保つかのように、彼女が一歩近付く毎に一歩後ずさる。暫くの間、静かな参道の中を鬼と少女の履物が地面の砂を踏みしめる音だけが響いていた。
しかし、静寂が参道を支配していたのは僅かな時間だった。鬼の背後に何かが落ちてくる音がしたと同時に、問志は岩遣いの鬼に背を向けて走り出したのだ。
途端、問志の行く手を阻む岩色の腕が、荒い岩壁や天井、地面から次々と少女に向けて伸びてくる。
「っ来ましたよ!!」
問志の足を掴もうとしていた岩の腕が卯の花色の炎に包まれた。それでも腕は問志を捕まえようと蠢いていたが、結局指先一つ触れる前に跡形もなく灰になって消えていく。
「そこは左に行ケ!!」
問志が突き当りに差し掛かったところで、問志を追いかける鬼の更に後ろから声がした。僅かに籠る様な響きを持つ声の持ち主は槐だった。その声に従って、少女は参道を左に曲がっていく。先程問志が走る合図になっていたのは、彼が鬼の背後を陣取る音だったのだ。
問志は、自分を捕まえようとする大小様々な岩の腕を視界の端々に捉えながら走った。槐が自身を見失わないように、自身が岩の腕に捕まらないように。その瀬戸際を調整しながら。
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