比良坂の巨岩 七 血の取引

 鬼の主たる糧は血液である。


 もっと正確に言えば、彼らは血液を媒介にしてはくと呼ばれる精気の一種を喰らっている。人間以外の血液でも糧にはなるが、人の血よりも生命活動に必要とする血液量は格段に増えた。


 更に、鬼は人間とは比べられない程に高い回復力を持っている。腕をがれようが、頭部を吹き飛ばされようが、唯一の急所 童子石どうじいしと呼ばれる鉱物に酷似した核さえ無事であればどうとでもなる。


 しかし核と器とを繋ぐ役割を持つ魄が枯渇すれば、動くことは勿論、器を保つことすら難しくなるのである。怪異を使用する以前の問題だ。

 鬼は怪異を使用するにも、体内の血液もといはくを消費するのだ。

 

 槐もそれらの理の例外ではない。数刻前に行った逃走劇の代償として、槐は大量の血液を失っていた。表面上は未だ飄々とした態度を崩していないが、肉体は満身創痍そのものである。


「…人間一人分の血液を飲むのってかなり時間が掛かりそうな気もしますけど、いけるものなんですか?」

 問志は、怯えるでも怒るでもなく、槐の脅しにも似た打開策にそう返事を返した。予想外の反応に、槐は思わず顔を曇らせる。

「あ、よかった。落っことしてなかった」


 怪訝な顔をした槐に気づかない問志が自身の懐を探って取り出したのは、地下工房で手に入れた工作用の小刀だった。

 問志はまともに動けない状態の槐のすぐ傍まで近づくと、銀色のそれを自らの手首に押し当てた。


 そのまま、微塵の躊躇もせず少女は自身の皮膚を切り開いてみせた。途端に真っ赤な血が溢れて彼女の肘まで伝い、雫は地面に色をつけながら吸い込まれていく。

 問志は血の流れる手首を槐に差し出すと、彼を真っ直ぐに見つめて懇願した。

「僕の血が必要なら、全部貴方に差し上げますよ。だからどうか、僕の家族を助けてください」



「待て待て待て‼︎何躊躇なく腕掻っ捌いてンだ⁈⁉︎」

 我に返った槐は血が滴る問志の左手首を掴んで怒鳴った。血液が足りていない所為なのか、掴む力は驚くほど弱い。

「なんでって、貴方が血が必要だって言ったじゃないですか」

 槐に怒鳴られた問志は心底困惑している様子で言い返す。

「言ったけど!そうじゃねェんだわ‼︎」


 どうしてこの鬼がこんなに慌てているのか、問志は不思議で仕方なかった。

 槐の出血量は、衣服を満遍まんべんなく染め上げてしまうほどに多い。

 怪異を使用する為に人間一人分の血液が必要だと槐が言ったのは、きっと嘘ではないだろう。ならば、未だ家族が囚われの身である自分が取るべき選択は一つしかない。槐だってそのつもりだったろうに。それなのに、どうしてこの鬼はこうも怒っているのか。


「...お嬢さン、本当に他にはなぁんにも思いつかねぇか?御母堂さまが"鬼憑き"なんだから、流石にその手の知識が皆無って訳ジゃあないだろ?」

 槐のたしなめるような物言いが多少気にはなったが、大人しく問志は自身の知識と記録を頭の中で漁った。

「...あ」

 そうしてやっと、少女はなぜ目の前の鬼が母を”鬼憑き”と呼んだのか思い出す。


 それは鬼ととある契りを交わした人間の、俗称ぞくしょうである。



 鬼には少量の血液で自身の器を十分に保ち、不安定で危うい自身を此岸しがんに留まらせる方法があった。

 人には鬼の持つ怪異の力を自身の意思で自由に扱う方法があった。

 それが所謂いわゆる、"憑き鬼"と"鬼憑き"と呼ばれる存在ものである。


 憑き鬼となった鬼は、鬼憑きとなった人間の血液しか受け付けなくなってしまう。しかしその対価として、少量の血液の摂取で器を保つことができ、更には自身の操る怪異の威力も向上するのだ。


 仮に契約をしていない問志の身体の血液を全て抜いたとして、れは槐にとって怪異を使用する必要最低限の血液量にしかならない。槐と問志だけ逃げることすら危うい、と槐は考えていた。


 しかし契約を交わせば、槐の器を修復し更に怪異を充分に扱う為の血液を摂取したとしても、その必要量は問志が貧血を起こす程にもならない。そうすればいざという時でも補填が効くというものである。


「まっ、"成功すれば"の話だケどなぁ?上手くいけば此処でお嬢さんが木乃伊みいらになる必要はなくなるんだかラ、悪かぁないだろ?というか不肖にもお嬢さんにも、残念ながら契る相手を選べる猶予はねェなぁ?」

 槐が笑い、黒い強膜に浮かぶ金の満月が、上弦の月に形を変える。


 緊張と不安で問志の喉は乾き、ヒリつくようだった。

「…わかりました。貴方と契約します。これから僕の血は全て貴方のものです。それで、具体的には何をすればいいんですか」

 問志の腹が決まるのに、さほど時間はかからなかった。

「うん、一番手っ取り早いのは、そウだな。お嬢さん、届かねぇから座って」


 問志がうながされるままその場に座り込むのを確認すると、槐は自らの舌の先を強く噛み切り、そうして、少女の口を自身のそれで上から塞いだ。

 二人の唇の隙間から、赤い血が溢れて問志の喉を伝っていく。


 ……記憶にある限り、問志にとってそれは初めての口づけだった。

 口腔こうくうに、生暖かい体液とそれを押し込む槐の舌の感触を感じた問志の背中にぞわり、と寒気が走る。反射的に突き飛ばそうとした手を寸前で止めたせいで、中途半端な姿勢で固まらざるをなくなった少女の喉がこくんと鳴る度、槐の首に模様が浮き出た。

 それはまるで、一度切り離されたどうと首を縫い合わせてできる傷跡のようだった。


 痣が槐の首を一周する。


 傷の輪が完全に繋がったところで、無理矢理血液を嚥下えんげさせられていた問志はやっと解放されたのだった。少女の顔は、未知の経験と酸欠とで耳まで赤く染まっている。

「どうやら上手クいっちまったみたいだなぁ?」

 腰が抜けたのか動けないでいる問志を見下ろしながら、槐は自身の首を指でなぞる。痣が一周した事を確認した槐は、芝居めいたうやうやしい態度で問志の左手を取った。


「さぁお嬢さん、不肖を上手く飼イ慣らしておくれよ?」


 そうして、問志の手首から未だ流れる赤い体液を自身の器へと取り込むべく、血色の悪い自身の唇をその細腕へ寄せたのだった。




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