第7章 告白
1.
河川敷での戦闘から2日後。幸太郎は美鈴が入院している病院へ向かっていた。
まだ体中が痛い。獣人化モードに身体を好きに使われたのだから当然といえば当然なのだが。階段に打ち付けられた頭の精密検査もあって、おかげで昨日は学校を休まざるを得なかった。
『アプリに勝手に身体を動かされるの、どうにかなりませんか?』
幸太郎が戦闘翌日のネットブリーフィングで弓子に要望してみたが、返事ははかばかしくなかった。
『アプリが敵の動きを先読みして装甲を動かしてくれるから、あなたでも妖魔に立ち向かえるのよ?』
要するに、装着者は装甲の骨、もしくは芯というところか。武術に関しては素人の幸太郎の攻撃があたるのも、幸太郎のアクションをアプリが装甲で矯正してくれているおかげ。そう言われれば、幸太郎としてはぐうの音も出ない。
『メアリのモードについては、完全に想定外だったわ。まさか、外部からの停止信号を受け付けないなんて』
敵に囲まれた際に、装着者が失神等で行動不能になった場合の強行突破用。獣人化モードはそのために実装されているという。仮想環境でのシミュレーションの際は問題なかったというが、これについては改善を約束してくれた。
そして、当夜の美鈴について。モニターに映る弓子の表情は、平静を装ってはいるものの、やはり沈痛さは隠しきれていなかった。
美鈴はあの日の戦闘で敗北し、病院に担ぎ込まれていた。聞けば、タイラントを装着することなく海原の巫女として独りで戦ったという。そしてあやうく妖魔に殺されるところを間に合った増援に美鈴は救助された。
それがあの夜の、美鈴の行動の結果だった。
路線バスを降り、停留所からすぐの病院に入る。病室はさすがというべきか、特別な個室だった。教えてくれたのは久美からのメール。
『土曜日の午前中、必ずお見舞いに来てください。美鈴が待ってます』
幸太郎はその病室のドアをノックした。
「失礼しまーす」
「きゃっ!!」
なんとも可愛い悲鳴が聞こえ、病室の主は布団を頭から被って早くも潜伏モード。脇に座っている久美とメアリが笑っている。
「あ、ごめん。着替え中とかだった?」
いつものことですからと久美がいつもの調子で答えたが、ここまであからさまで察しがつかないほど、幸太郎も鈍くはない。
(男が苦手なんだよな、多分。ジョンのことも怖がってたし)
「幸太郎先輩、もう大丈夫なんですか?」
メアリがすみれ色の瞳をこちらに向けてきた。
「ううん、まだ身体は痛いよ。メアリに振り回されたから」
「えー、ボクじゃなくって、アプリにでしょ?」
「いやま、そりゃそうなんだけどさ」
なんであんなことになるの、と聞こうとした幸太郎を久美が遮る。
「コウ先輩、人と話すときは眼を見る。胸ではなく」
口ごもる幸太郎を、メアリが脅してくる。
「幸太郎先輩、佳織先輩と仲直りしかかってるんですよね? 通報しますよ?」
「メアリ、Go 」
「すんな!」
久美の煽りに応えて携帯を取り出したメアリを、幸太郎は本気で止めた。そのままメアリの横に座ろうとして、久美に反対側に座るよう諭される。ジョンが彼女に呼び出されてここへは来られなかった事を伝え、幸太郎は本題に入った。
「それで、海原さん。どう、具合は?」
幸太郎の呼びかけに応えて掛け布団がするすると下がり、美鈴の額と目が現れた。顔が真っ赤だ。
「あの……大丈夫、なんだよね? 熱があるの?」
「~~~!!」
幸太郎が熱を測ろうとして、美鈴の額に手を伸ばすと、掛け布団は再び美鈴の頭の上まで上げられてしまった。
「鬼よのう」
久美が冷ややかな目で幸太郎を見る。
「あははは、鬼は美鈴なのにね」
メアリの冗談に過敏に反応したのは美鈴だった。びくんと痙攣し、掛け布団の端を細い指が白くなるくらい握り締めている。幸太郎はためらいがちに切り出した。
「海原さん、どうして一昨日はタイラント無しで戦ったの?」
「なに言ってるんですか! 幸太郎先輩たちが――」
一転捲くし立てかけたメアリを久美が制す。美鈴に呼びかけた久美の次の言葉は、幸太郎には酷に聞こえた。
「自分でお話ししないと、ダメ。ちゃんとコウ先輩の眼を見て」
再び痙攣ののち、美鈴の眼を幸太郎は拝むことができた。そして、彼女の涙も。
「わたしは……必要ないんですよね?」
「そ、そんなこと言ってないよ」
動揺してどもる幸太郎は必死に頭を回転させて言葉を探す。そのあいだに、また美鈴の眼に涙が溜まってきた。
「だって、ジョン先輩のほうが強いとか、鬼の血力で戦えばいいとか――」
「ジョンのほうが海原さんより強いと思うんだ。俺はね」
幸太郎はあえて事実を告げる。腕力等の身体能力では美鈴のほうが上だが、戦闘のセンスという点において、ジョンは格段にうまい。そういう自分の見たままを幸太郎は話した上で、美鈴に向かって微笑みかけた。
「でもそれは、『海原さんが不必要』ってわけじゃないよ。俺より断然強いんだしさ、海原さんは。それに……ほら、仲間じゃん、俺たち」
美鈴の眼から零れる涙は、まだ止まらない。
「仲間じゃないの?」
いぶかしく思った幸太郎の質問に、美鈴は微笑んで涙を拭った。
「えへへ……そう、そうですよね。仲間、ですよね……」
「おぉ」
「? なんですか?」
美鈴が首をかしげる。
「いや、初めて笑顔が見れたな、と」
「~~~!!」
三たび潜伏して再度久美に諭されている美鈴に、幸太郎はなにげなく質問をしたつもり、だった。
「じゃあさ、なんでタイラントで戦ってるの?」
場が凍る。最近の部室ではありがちな状況が、まさかこの病室で再現されるとは。
自分の質問がこれだけの効果を生んだことに戸惑う幸太郎の耳を、美鈴のか細い涙声が打った。
「……わたしは、ダメ巫女なんです……」
「? どういうことなの?」
「わたしは……うぅ……海原の巫女としては、並よりはるかに低い血力しか持ってないんです……先日の説明会の時、お見せしましたよね? “月輪”を」
幸太郎は黙ってうなずく。美鈴の告白は続いた。
「憶えていますか? 私が作ったのは1本……でも、普通の巫女なら、一度に2本は余裕で出せるんです。威力だって、あんなもんじゃないんです」
幸太郎もそれなら分かる。一昨日の戦闘で、あの場に来ていた巫女たちは複数本を自在に飛ばして妖魔を攻撃し、ダメージを与えていた。
でも。だからといって。
「単純な力だってそうです。わたしは……ひっく……タイラントを装着してあの程度で……普通の巫女なら、素手であのコンクリを割れます。わたしは……ダメ巫女だから――」
「誰がそんな呼び方したんだ!!」
幸太郎は怒っていた。彼が発した大声に反応して、美鈴の涙目が見開かれる。その瞳に向かって、怒りで顔を朱に染めた幸太郎は問いをぶつけた。
「誰だ? あの、総領様か?! それとも、こないだ川原に来ていた誰かか?!」
「ち、違います! わたしが自分でそう言ってるだけです。ほんとです!」
美鈴は跳ね起きた。
「本当に?」
「本当です。だからわたしは、タイラントの装着者に志願したんです。うちの家訓は『働かざる者食うべからず』ですから」
かけるべき言葉も見つからず、美鈴を見つめて、どれほど経っただろうか。幸太郎は、ふと気付いた。久美とメアリがくすくす笑っている。
なにがおかしいんだ、そう怒鳴ろうとして2人が指さす先をたどると、幸太郎は美鈴の小さな右手を我知らず握っていた。
「ア、アアア……」
親友2人のくすくす笑いに美鈴も気付いたようだ。自分の右手と、幸太郎の顔と。コクコク、上気した顔を上下させて交互に見比べ、形のいい唇から漏れるのはア音のみ。
「鬼よのう」
「だね。通報しよっか」
「よしメアリ、Go 」
「だから、すんなっつうの!」
手を離せばコクコクが止まることに幸太郎が気付くまで、それからしばらくかかった。
その後、メアリが持ってきたお見舞いのケーキをいただきながら雑談。幸太郎は、ふと思い出したように美鈴に問いかけた。
「そういえばさ、鷹取さんちの、その、妖魔退治って、世間的には知られてないよね? 俺もモニターやるまで知らなかったし」
報道は警察が抑えているらしいが、いまやネットの時代。掲示板やツイッターにそういった目撃情報等が流れてもおかしくない。まさかそれも、警察か鷹取家が……。
幸太郎の問いに、美鈴は困ったような顔をした。
「わたしも、いえ、わたしたちも正確なことは分からないのですけれど、どうも疫病神が地獄から何らかの工作をしていて、世の中の人が妖魔討伐に共感や興味を持たないようにしているみたいなんです」
美鈴が続けて言うには、鷹取の人間が一般人に妖魔関連のことを話しても、大抵は信じてもらえず、ほら吹き呼ばわりされるという。極端な場合は、目の前に妖魔が現れて巫女が鬼の血力を使って倒して見せても、理解してもらえないケースがあるらしい。
幸太郎がうなる。
「じゃあ、俺たちは特殊なケースなんだ。むう」
「特殊かどうかすらよくわからない、というところです。なぜ工作にムラができるのか、それすらわかっていないんです」
困った顔を続ける美鈴に、幸太郎は何気なく尋ねる。海原さんは、そういう経験あるの? と。
メアリの止めようとする仕草を久美が眼で押さえているのが、視界の端に映る。それを気にせず、幸太郎は美鈴を見た。
わたしは、と言いかけて口をつぐみ、うつむいてしまった美鈴に幸太郎が続きを促すと、美鈴はややあって顔を挙げて幸太郎をまっすぐ見た。
「中学2年の時、クラスメイトの男子に妖魔と戦っているところを見られて……」
幸太郎の物問い顔に、美鈴は辛そうな顔で答える。
「その人たちに、『気持ち悪い』って言われて……」
美鈴は目を伏せた。
「……ごめん」
気まずさを押し隠したくて、幸太郎は自分の話でお茶を濁そうと慌てて話題を探す。
「あ、俺もそういえば綾とか佳織に『バカじゃないの』って言われたな」
幸太郎が思い出しながら言うと、久美がかぶりを振った。
「コウ先輩の場合、違う意味じゃないですか? だって、鷹取の人たちは誰かに頼まれて妖魔討伐しているわけじゃないし、辞めたくても辞められないんですよ?」
「……まあそんなこんなで、わたしたちはこの1200年、妖魔討伐を続けてるんです。現世を守るため。それと、鬼の血が騒ぐから」
話し終えた美鈴の、泣いているのか笑っているのか分からない顔を、幸太郎は見つめる。美鈴が照れて視線を外しても、しばらく。
「なんか、気分出てきてますね」と久美がなぜかジト目になってつぶやく。
「久美、Let’s 通報!」
「す る な」
幸太郎がメアリをにらむと、メアリはぺろりと舌を出した。
「そっか、弓子さんが『巫女はなかなか増えないの』って言ってたのは、そういうことだからなんだ」
腕を組んで考え込む素振りをする幸太郎を、今度は美鈴が見つめてくる。気付いた幸太郎が尋ねると、美鈴は言いにくそうに顔を伏せて長いまつ毛を震わせた。
「……それだけじゃ、ないんです……」
「まだ、なにかあるの?」
「それは……いえ、またいずれ機会があったら……」
幸太郎はケーキを食べる手を休めて、興味深げに美鈴を見やったが、彼女の口から続きが話されることはついになかった。
それから雑談の話題は学校のことに移って無難なまま過ぎ、お昼近くなったため幸太郎は帰ることにした。
じゃあ、お大事に。そういって病室を辞そうとする幸太郎に、メアリと久美が何事かを言おうと腰を浮かせかけた。だが。
「あ、あの、あのっ」
女の子2人の動きを遮るように美鈴が起き上がり、丁寧に頭を下げる。
「お見舞いに来てくださって、ありがとうございました」
「ううん、よかったよ、思ったより元気そうで。なにか俺で力になれることがあるなら、言ってくれよ。といっても、大したことできないけどな」
その途端、美鈴がなにやら必死の形相で幸太郎に訴えかけてきた。
「せ、せせせせ先輩!」
「わっ! な、なに?」
「本当に、わたしの力に、なってくれますか?」
「え? いいけど」
「じゃ、じゃあ、お願いが……あります」
胸のほのかなふくらみの上に手を置いて、すぅはぁ、すぅはぁ。深呼吸を繰り返したのち、美鈴は切り出した。
久美とメアリも一緒に帰るといって、病室は美鈴1人になった。美鈴はベッドにどさりと背を預けると、ふうっ、と大きく息を吐く。一歩踏み出したという達成感と、予想していた通りの彼の反応に対する諦念と。
(やっぱり、わたしのこと、憶えてなかったんだ)
クラスメイトに『気持ち悪い』と言われたあと、美鈴はいじめられていた。今の、オレにもやってみろよ、とか言われていた気がするが、よく憶えていない。
男子4人に囲まれて逃げることもできず、連れ込まれた雑木林の土の上で丸く固まり、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待っていた美鈴だったが、急にその時は来た。
通りがかった3人の中学生が、クラスメイトたちを蹴散らして助けてくれたのだ。そう、それが幸太郎と2人の女子だった。といっても実際に蹴散らしたのはほとんどがあの綾という名の女子だったが、美鈴にとっては、自分とクラスメイトとの間に立ちふさがってかばってくれた幸太郎こそが救いの神だった。
家に帰ってすぐ父と母にお願いして、近辺の中学校在籍生徒データから幸太郎たちを探し出した。彼が『コウタロウ』と呼びかけられていたので、特定がすぐにできたのだ。そのうえで身辺調査をしてもらって、もう1人いた女子――その女子が幸太郎の彼女であることもわかった――と3人で、4月から翔鷹学園に入学することなどを知った。
隣の中学校に通っていた幸太郎たちが、どうしてあの場所を通りかかったのかは分からない。もう、そんなことはどうでもよかった。お礼の相談をしていた両親に、美鈴は思いつめた表情で切り出した。
『わたしも、翔鷹学園に入りたい』
娘の唐突な望みを父と母は聞き入れてくれた。いや、男性が苦手で女子高に進学しようとしていた娘に共学に進むよう勧めていたのだから、渡りに船だったのだろう。
分の悪い賭けであることは重々承知の上だ。でも。
(あの人なら、呪いを越えてくれるはず)
鷹取一族に等しく掛かっている呪い。すなわち、開祖である鬼・オビトマルの妻が我が子に掛けた呪い『我が子と睦み事をなす者に全き死を』。それは、幾多の修験者と高僧によっても、
『他所人が一族の者と結ばれるには、その他所人が妖魔討伐を心から理解し相手を支えると、祝言の際に心から誓わねばならない』
このように和らげることしかできなかった。誓わない、あるいは偽りの誓いをなす他所人は、新婚初夜の床で死ぬ。
数多の先例(直近は15年前)によって実証されてきたその呪いと、明治以降の文明開化によって人々のアヤカシに対する理解が薄れたことなどにより、鷹取一族の成婚率は世間一般より低いのだ。美鈴があの時言いよどんだ理由はそこにある。でも。
(大丈夫。あの人なら、きっと)
退院の迎えを待ちながら、美鈴は満ち足りた気分で午前の残りを過ごした。
帰りのバス。車内のベンチシートに、なぜか幸太郎を挟んで3人並んで揺られている。
なんだか護送されているみたいで居心地が悪い。車内に客がいないのに、久美もメアリも幸太郎にくっついて座っているのが原因なのだ。
でも美少女2人に挟まれてるんだから、文句を言えばバチが当たる。そう思って我慢していると、久美の様子がおかしい。
(おい、久美ちゃん……)
久美は寝ていた。頭を幸太郎の肩に預けて、すうすう寝息を立てている。久美の艶やかな黒髪からいい香りがするし、寝顔は陳腐な表現ながら天使のようで、薄く開いたおちょぼ口を見つめていると衝動に我を忘れそうだ。
パシャッ。
「うん、Nice Photo! 保存っと」
「ちょ、お前、写真撮んな!」幸太郎は保存を阻止しようとしたが、久美を起こすわけにもいかず、涙目でメアリをにらむことしかできない。
「先輩、それより、ボクに聞きたかったことがあるんじゃないですか?」
「あ、ああ、そういえば」
幸太郎は声を低めた。
「なんで、メアリのアプリで獣人化が起きるんだ?」
その問いは予想されたものであったらしい。メアリはすぐに寂しそうな表情になって答えた。
「ボクはヒトじゃないから、ですよ」
「……え?」
どうみても金髪巨乳美少女なんだが。
「先輩、いま、エッチなこと考えましたね?」
「い、いや、別に…・・・」
慌てる幸太郎の顔を見てくすりと笑ったメアリは、自分の顔を近づけてきた。息がかかるくらいの距離にどぎまぎする幸太郎の耳元に囁く。
「明後日のお昼休みに体育館の裏に来てください。もちろん誰にもナイショ、ですよ?」
2.
月曜日昼。幸太郎はその時を、ついに迎えた。――なんて大げさな表現は必要じゃないことくらい分かっている。メアリがああいうイタズラが好きな女の子なことも。
でも、メアリの囁きが頭の中でぐんるぐんる回って、出動がなくてよかったと幸太郎は心の底から思った。
逆に言えば、何もなかったおかげで、メアリと久美、綾の攻略がことのほか進んだ。幸太郎のほうもギャルゲーに慣れたのが一因だが、『実を言えば楽しい』とは口が避けても言えない幸太郎である。
メアリの、くるくる変わる態度。久美の、一見こちらに興味がなさそうで放っておくと拗ねる面倒くささ。綾の、イケイケドンドンな押しの強さ。すべてが相まって、異様にめまぐるしい土日だったような気がする。
彼女たちの攻略が進めば、つまりコンバットアプリである彼女たちが投げかけてくる問いに答えていくことによって、彼女たちは幸太郎の思考を先読みしやすくなる。それは妖魔との戦闘における一挙手一投足において、より素早く、より効果的な攻防が繰り出せるようになるのだ。
一方、佳織は攻略すらできない状態だ。草原CGの隅に、横向き体操座りで灰色のまま固まっている佳織のパペット。草原で遊んだり読書をしたりしているほかのパペットも、佳織にまったく気付いていない。つまり、筐体に認識されていない状態、ということである。
《佳織》の起動不可問題はいまだに弓子の側で調査中だ。佳織と幸太郎双方に何か問題があるのではないか、そう弓子は言っている。つまり、なにも原因が絞れていないということ。
(困ったもんだよな。どうしたもんだか)
相変わらず口をきいてはくれないけど、あの取り付く島もない感じは幾分緩んだような気がするんだよな。幸太郎はそう思いながら、体育館の裏へとやってきた。ジョンと綾がしつこく聞いてきたが、『昼は連れと飯を食うから』と偽ってきていた。実際アリバイ用に2人分のパンを買って。
メアリは先に来て、体育館の壁にもたれかかっていた。その表情は硬い。まさか、本当に来るとは思っていなかったのだろうか。
「先輩。あの、誰にも気付かれませんでしたか?」
メアリの問いに、幸太郎は黙ってうなずく。するとメアリは壁から背を離し、ダッフルコートをするりと脱いだ。そして、右腕からセーラー服を脱ごうとし始める。幸太郎の息が止まる。
(ま、まさか、このまま一気に?)
片腕を脱いで、セーラー服の端を下に引っ張っていても、メアリの右脇にチラリとだけブラが見える。もうそれだけで高まる興奮に熱くなる幸太郎のイロイロな部分は、残念ながらすぐに鎮まった。
「右腕だけで、いいですよね? いきますよ」
メアリが眼を閉じ、すぅっと息を吸う。そのまま息を止め、眉間にしわを寄せるメアリ。そして、彼女の右腕には、変化が起き始めていた。
肌から、銀色の毛が生えてきた。毛は5センチほどで止まったが、手のほうの変化は止まらない。血色のよかった指と甲は細くしわがれ、腕と同じ毛が生えた。爪は長く伸び、鋭く尖る。これは――
「分かりましたか? ボクは……
「狼男……?」
「ボク、女の子なんですけど?」
「あ、狼女、って言えばいいのか、ゴメン……」
謝って、そのまま幸太郎は口ごもる。あの意識が薄れる瞬間に見たパペットの記憶からちょっとだけ予想はしていた。でもまさか本当だなんて。
メアリはうつむき加減に幸太郎を見つめている。その表情は、見せてしまったことを後悔しているのか、暗い。
「あ、あの、さ……」重い沈黙をどうにかしようと幸太郎は口走った。
「触らせてくれる? その腕」
「――え?」
驚きで眼を丸くしたメアリだったが、しばらくためらったのち、おずおずと腕を差し出した。
「おぉ、ふかふかだ……」
見た目を裏切って、メアリの腕の毛は柔らかかった。なんとなくやめる気になれず撫で続けていると、メアリが尋ねてきた。やや躊躇しながらではあるが。
「あの……怖く、ないんですか? ボク、ヒトじゃないんですよ?」
「なに言ってんだよ。メアリはヒトだよ。俺と会話ができてるじゃん」
そう言いながらなで続けていた幸太郎は、不意にひょいとメアリの背中をのぞきこんだ。
「きゃっ!! な、なんですか?!」
「いや、翼が生えてるのかな、と」
「……ああ、パペットのあれですね」
メアリの表情が、また硬いものに変わる。
「あれは、ボクがフランクの“伯爵”の姪だから、だと思います」
意味が分からず物問い顔の幸太郎には答えず、メアリはつぶやく。
「ひどいですよね、弓子さんって。そんなことまで調べて、あんな――」
そこまでつぶやいたメアリの顔に、さっと緊張が走る。幸太郎の背後で止まる、2つの足音。
「――なにしてるの? コウ」
それは佳織と綾だった。
幸太郎は振り向いて、同時にメアリの右腕をかばった。佳織と綾の視線が幸太郎に突き刺さる。
「答えられないの? こんなところで、2人で何をしてるのかって聞いてるのよ!」
「ちょっとメアリと2人で、飯を食おうと思ってたんだ」
幸太郎は地面に置いてあったビニル袋を指差した。作り話度満点だな、と思いながら。案の定、綾の追及は止まらない。
「じゃあ、なんでメアリが服脱いでるの? 服を脱がせて、メアリに何をしようとしてたの?」
背後のメアリからの視線を感じながら、幸太郎が即答した。
「何も。メアリがいつもの冗談で、俺に胸を見せてあげるとか言って、右腕だけ脱いだんだよ」
「嘘つき……」
佳織が、眼に涙をためて吐き捨てるようにつぶやく。
「幸太郎の嘘つき!」
言い捨てて、踵を返し走り去る佳織。幸太郎とメアリの両方を睨むと、綾は踵を返してゆっくり歩き去った。
「はぁぁぁ……」
幸太郎は、深く深くため息をついた。
また一からやり直し、か。
幸太郎はメアリのほうを向くと、無理やり微笑んで言った。
「じゃあな。教えてくれて、ありがと」
うなだれないように我慢して去る幸太郎。落胆のあまり、メアリがこれまでとは違う目で自分を見つめていることを、彼は気付いていない。
「久美、ありがとね」
放課後、部室に行こうとする久美を呼び止めて、メアリは言った。久美には昼過ぎに、佳織と綾に幸太郎の行先をそれとなく教えさせていた。
「メアリ。本当に、美鈴のためなの?」
「そうだよ? 幼馴染2人を引き剥がすには、ちょっとタフなイベントだったけど。それに――」
メアリは久美の眼をのぞきこんでにっと笑う。
「久美のため、でもあるかな?」
「……その言い草、不本意だわ」
久美はそっぽを向いて部室へ向かう。彼女にはまだ、今日の部活動というタフなイベントが待っている。
3.
英語演劇部の部室からは、近づいただけでそれとわかる嵐の気配があった。久美は意を決して部室のドアを開ける。
「こんにちわ」
あえて、久美は部員たちに声をかけてみた。
机から離れて窓際に立つ佳織が振り返って挨拶を返してくれたが、表情は硬い。
机の前に陣取る綾は、横目で久美を凝視して無言。
ジョンは振り向いて、佳織と同じく挨拶を返してくれたが、その後は眼を閉じて無言。
綾の対面に腰掛けた幸太郎は、これも無言。その表情からは、なにを考えているのか窺い知れない。
沈黙を破ったのは綾だった。
「久美ちゃん、メアリは?」
横目のまま問うて来る先輩に、久美はいつものすまし顔で立ったまま答える。
「帰りました。用事があるからと言って」
その答えに綾はため息をつくと、幸太郎のほうに視線を戻した。
「コウ。本当に、メアリに引っ掛けられただけなの?」
ああ、と短く答えて幸太郎は佳織のほうを見たが、佳織は幸太郎のほうをそもそも向いておらず、会話には発展しない。
「なあ、カオリちゃん、アヤちゃん、もういい――」
「よくない!」
ジョンが意を決して幸太郎をとりなそうとしたが、佳織がそっぽを向いたまま拒否の言葉を窓ガラスに響かせる。それを見た久美は、思わず声を上げた。
「どうして信じてあげないんですか? コウ先輩の言うこと、信じられないんですか?」
言って、久美は赤面する。柄にもないことをやってしまったためと、部屋にいる一同がそろって目を丸くして久美を見つめたためだ。
「久美ちゃん、どうしたの?」
と振り向いた佳織の眼が探りを入れる様子に変わる。久美の直感が、自分が剣が峰に立たされていることを告げる中、慎重に言葉を選んだ。
「不本意ですが、あまりにコウ先輩がかわいそうになったので、弁護してみただけです。だいたい、ヘタレなコウ先輩があんな場所でメアリに『服脱げよ』なんて真似、できるわけないじゃないですか」
第一、メアリは母国に彼氏がいるんですよ。久美はそう説明して、自分でも久しぶりな長広舌を終えた。心の中で、ヘタレ呼ばわりしてしまったことを幸太郎に謝りながら。
だが、久美の説明は綾には受け入れらなかったようだ。
「彼氏がいるメアリが、なんでコウに『胸を見せてあげる』なんて言うのかしらねぇ?」
「……綾さん」
久美が綾を見据える。
「どうしてそんなに一生懸命なんですか? 何がしたいんですか?」
「わたしは佳織が何も言わないから、代わりに聞いているだけよ」
綾はしれっとした顔で言ってのけた。佳織がちらっと綾を見たのを、あえて無視して。その点を突こうとした久美だったが、綾のほうが僅かに早い。
「久美ちゃんはメアリの弁護? それとも、コウの弁護? あなたこそ、どうしてそんなに一生懸命なの?」
それは、と口ごもる久美に、意外なところから助け舟が来た。
もうやめろよ、と幸太郎が綾を正面から見据えて話し始めたのだ。
「土曜日に海原さんのお見舞いに行った帰りに、バスの中でメアリと話をしてて、俺がメアリの胸にどーしても眼が行くもんだから、からかわれたんだよ。『月曜日のお昼に、体育館の裏に来てください。誰にもナイショですよ』って」
「最低……」
佳織が吐き捨てた言葉は、幸太郎の胸に突き刺さったようだ。それでも、苦しげな表情を浮かべながら、彼は言わない。メアリが狼人であることを。
久美も詳しく聞いたわけではない。
メアリの実家である“侯爵”家が、昔々からあの島での妖魔に相当する“The EVIL”を討伐する家であること。
そして、メアリはもともと小さい頃から日本のアニメやマンガにはまっていて、それゆえ熱望していた日本行きにずっと許可が出なかったのに、1年前に突然留学を言い渡され送り出されたこと。
話してくれたのは、それだけだ。
幸太郎は、メアリが言った『誰にもナイショ』を、律儀に守っているのだろうか。大事な人の不興を買ってまで。
久美が見つめる幸太郎の表情からは、やっぱり考えていることが読み取れない。そしてそんな自分を綾が見つめていることに気付いた久美は、急いで幸太郎から視線を外した。
4.
帰り道。先輩たちと別れて、美鈴と一緒に帰る久美が今日の出来事を話すと、彼女はうっとりとした目つきになった。
「そうよ。約束を守ったのよ、幸太郎さんは」
「……あんな変態にそんな甲斐性があったなんて、不本意だわ」
久美がつぶやいていると、美鈴が久美の手を握る力をきゅっと強めてきた。
「久美。わたし……負けないから」
「なんのこと?」と逃げる久美を逃がさないように、美鈴は手にさらに力を込める。
「わたし、知ってる。久美が幸太郎さんを口汚く罵るのは――」
着信音。久美の携帯が幸太郎からメールが来たことを告げるのを幸いに、久美は美鈴から手を離した。珍しくジト目になっている美鈴を無視して、メールを開封する。
メールの文面は、『フォローしてくれてありがとう。ごめんな、無理させちゃって』というもの。
「久美――」
美鈴は画面を見つめる親友に、お年頃の乙女であるという現実を思い出させることにしたようだ。
「よだれ」
陶然から愕然、そして平然。表情がそう移り変わるまでたっぷり3秒かかって久美はいつものソトヅラを取り戻したのだが、それもすぐに崩れた。再び餌が天空から降ってきたのだ。
『プレゼントw』と題されたメアリからのメールを横からのぞき見た美鈴が、プルプル震え始める。そんな美鈴を尻目に、久美はまたも恍惚の表情で自分の心の立ち位置を再確認したのであった。
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