第5章 二律背反の逡巡

1.


 佳織はぐっと伸びをすると、教科書を閉じた。月が替わって今日は12月1日、3日後から期末テストが始まるので部活も休み。おかげで帰ってから夕食以外は勉強三昧だった。

(コタロウ、ちゃんと勉強してるのかな? さすがにモニターのお仕事はないって言ってたけど)

 幸太郎のことが自然に頭に浮かんだことに佳織はくすりとする。コタロウ。それは、佳織と幸太郎だけが共有している、たわいない記憶。小学校低学年のとき、舌っ足らずだった幸太郎が自分の名前を『コタロウ』と発音していたことを未だに佳織は忘れず、2人きりの時の呼び名としていた。

 怒って今も冷たくあしらっている状況なのに、幸太郎は私を守ってくれた。綾もだけど……そのことに、佳織の心はちくりと痛む。もしかして、私は寝た子を起こしてしまったのだろうか。私がコタロウと距離を取ったことで、コタロウは綾のほうが話しやすいって思って。あの時保健室で、何を話していたのだろう?

 そういえば、コタロウはお金が欲しいからモニター始めたとか言っていたけど、何に使うんだろう。話を初めて聞いたとき綾は胡散臭そうにしてたけど、でもその綾に内緒でデータを依頼してたし。まさか――

 嫌な考えを振り払ってコーヒーでも淹れようかと考えたとき、ドアがノックされた。まさか、コタロウ? ……なはずはなく、隣の部屋の同級生だった。

「ごめん佳織、ちょっとだけ教えてほしいところがあるんだけど」

 いいよと答えて部屋に招き入れると、佳織はコーヒーを2杯淹れた。

 その後3人目の教えてちゃんを受け入れた時得た情報をもとに、佳織は男子寮と共同使用している食堂へ向かった。自然に足が早まるのを自覚する。なにを逸ってるのよ、私ってば。

 みんな珍しく自室で勉強をしているのか、ほかには誰もいない食堂の奥の机に彼はいた。脇目も振らずに机に向かっている。いや、あれは固まってるんだわ。佳織が食堂に置かれた大きな給湯器の陰からそっとのぞいているのも気づかず、幸太郎は腕組みをして机上の参考書を睨んでいるのだ。

 どうしよう。佳織の心は揺れる。勉強を教えてやりたい。でも、幸太郎を見返してやると誓ったあの日の決意を、こんなことで。でも、このままでは前回の中間テストのときのように、幸太郎が惨敗するのは目に見えている。でも。

 逡巡する佳織を救ったのは、幸太郎が鳴らした盛大な腹の虫の音だった。

 食堂の壁にかけられた時計の針は、もうすぐ夜の8時半を指すところ。そうだ。佳織は決心すると幸太郎に気づかれないように、入った時と同じくそっと食堂の扉を開けた。


2.


 幸太郎は苦りきっていた。今彼を苦しめているのは数学Ⅱ。その少し前は腹の虫。いやこれは現在進行中か。晩飯をお代わりしとけばよかった。

 それにしても俺って本当に勉強が苦手なんだな。幸太郎は泣きたくなる。なにせ教科書に書いてある文章がほとんど理解できないのだ。地歴はまだましだから、中学生レベルで止まっているな俺。せいぜい進んで、高2未満。そのことに思い至り、幸太郎は眼を閉じる。つまり、佳織の態度が冷たくなった時点で俺は止まっているってことか。

 佳織に初めて勉強を教えてもらったとき、泣かしちゃったなそういえば。理解ができないもんだから拗ねに拗ねたら、彼女の眼から涙があふれ出た。あの時はほんとあせったし、自己嫌悪で死のうかと本気で思った。

 あれ以来、彼女を泣かしたことはない……はずなのに、彼女は何かに怒ったまま。佳織の名前をどれだけ呼んでも、その背中が振り返ることはない。おい、ちょっと待てよ。なんで行っちゃうんだよ、おい――

 コトリ。

 その物音にビクッとした幸太郎は目が覚めた。居眠りをしていたようだ。夢だったのか、今の。だが、目の前に置かれたこのおにぎりは? そう思い顔を上げると、お盆を胸に抱えた佳織が複雑な表情をして立っていた。

 そのまま見つめ合うことしばらく、先に口を開いたのは佳織だった。

「お腹、空いてるんでしょ?」

 また見つめて、幸太郎はお礼を言っておにぎりを口にした。そのままもそもそと食べることしばし、幸太郎は思い切って声をかけた。

「佳織、立ってないで座れよ」

 明らかに逡巡している表情を見せて、しかし佳織は対面に座ってくれた。そのまま無難な会話が始まる。おにぎりに使ったご飯はわざわざコンビニまで走って買ってきてくれたらしい。それならおにぎり買ってくればよかったんじゃないの、と言った途端スネを軽く蹴られて口を尖らせられた。

「でも、うまいな。ありがと、佳織」

「そ、そんなみえみえのお世辞なんかいらないんだから」

 顔を赤らめてぷいと横を向き、でもちらとこちらを見てくる佳織。素直がセールスポイントだったのに、いつの間にツンデレスキルまでゲットしたんだ。そこを突いて日常会話に持っていこうとした幸太郎の意図は、残念ながら遮られた。

「おふたりさん? 盛り上がってるとこ申し訳ないんだけど、佳織ちゃんお風呂入ってないでしょ?」

 今日のお風呂当番らしい3年生が近づいてきた。入浴の刻限である9時30分を前に、親切にも佳織に声をかけてくれたのだろう。ちなみにお風呂とトイレ、各階の廊下は寮生が当番で掃除する規則で、受験シーズン真っ只中の3年生といえども例外ではない。試験日の1週間前から除外されるのがささやかな例外だ。

 慌てて立ち上がりドアへと向かう佳織に、幸太郎は声をかけた。

「ありがとな、佳織。俺、もうちょっとここで頑張るから」


3.


 お風呂は結構混んでいた。身体に湯をかけたらまず髪と身体を洗う。育ちざかりの高校生ゆえ、お湯をかけたくらいで日中にかいた汗や垢がきれいになるわけじゃない。

 男子湯のほうは寒いこの時期、規則を無視して先に湯船に浸かる人が多いため、遅い時間には湯が白濁してしまうらしい。以前幸太郎に聞いて鳥肌が立ったことを思い出して、佳織はクスと笑う。

 タオルをマイ手桶に入れて縁に置き、後ろ髪をゴムで束ねた佳織は湯船に白い裸身を沈めた。心地よい湯の温かみに身を委ねていると、隣に座っていたクラスメイトのヨシノが話しかけてきた。

「佳織、見たわよ」

「? 何を?」

 ヨシノはにやりとする。

「ついにヨリを戻したの?」

 その言葉に、湯船にいた女子たちがざわめく。

「ああ、さっき階の炊事場で作ってたおにぎりはそれかぁ」

「え? なに? ついに鵜飼君のオネガネにかなう大きさまで成長……してないじゃん」

「だからおにぎりよ。食欲で代用してもらおうっていう。ね? 佳織ちゃん」

 佳織は手で胸を隠しながら叫んだ。

「みんな何勝手なこと言ってるんですか! た、たまたまのぞいたらお腹が空いてそうだったから――」

「たまたまのぞいたらわかるんだ、へー」

「ほんと、もったいないよねぇ。佳織ちゃんならその気になれば選び放題でしょうに」

「いやいや、実際クラスの男子が何人か目論んでますよ?」とヨシノがぶっちゃける。

「幸太郎君と切れたのがわかったら速報入れてくれって」

 なんだか盛り上がっているお風呂場。そろそろ出て幸太郎のところに行きたい。しかし自分の話題でそそくさと去っちゃうのもできない。律儀な自分が恨めしい佳織であった。

「ていうか、まだ切れてないの? 鵜飼君ならあたし行きたいなー」

「あんたのチチなら吸い寄せられるかも……って佳織ちゃん?」

 なにやら勝手なことを言っていた同級生2人が佳織をみて慌て始めた。

「怖い怖い眼が怖いって佳織ちゃん!」

「あの眼は過去に何人かライバルを葬り去ってる感じだよね、絶対」

「あのさ、佳織ちゃん」先輩の1人が話しかけてきた。

「鵜飼君のどういうところに、そんなに一生懸命になれる部分があるの?」

 佳織は少し考えて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「子供のころから、ずっと好きだったからです。何がどうとかじゃなくって」

 ああ違いますね、と訂正する佳織はお風呂の中で少し身じろぎした。

「ほっとけないんです。バカだし、おっちょこちょいだし。私にすごく優しくしてくれるけど――」

 佳織が語尾を濁らせた後をヨシノが受ける。

「ほかの子にも優しいもんね、幸太郎君。綾ちゃんがなんか身悶えしてたよ」

 綾、という言葉にビクッとなる。ヨシノのにやけ顔が胸に苦しい。

「綾……ああ、高井ちゃんかぁ。この間鵜飼君と肘で突き合いしてたよね。佳織ちゃんが来たらサッと止めちゃったけど」

「まさか身近でネトラレが見られるなんて胸熱だわ」

「わ、私、お先に出ます」

 食堂に彼独り。手元には携帯があった。

 佳織は風呂場にこもるクスクス笑いをガラス戸でシャットダウンして、脱衣籠へと急いだ。後ろ髪のゴムをもどかしげに外しながら。



 幸太郎は腕組みをしたまま船を漕いでいた。右手に携帯を握っている。

 ほんの一瞬だけ躊躇って、佳織は携帯の画面を覗き込んだ。ちょうど照明点灯時間が切れるところだったらしく、のぞいて2秒ほどで画面は黒くなってしまった。

 だが、いくつかのキーワードだけで佳織には十分だった。

 綾 勉強 うち来ない?

 自分でもわかるほど思いつめた表情になった佳織は、机の上に広げてあったレポート用紙に目を止めた。自己採点してあるそれを取り上げて2分ほど眺め、眼を閉じて深い、深いため息を漏らす。

(3分の1以上間違ってる……)

 参考書の基礎問題でこれじゃ、テストなんて。でも。……よし。

 幸太郎を揺すぶって起こしたのは食堂の使用刻限があと1分で終わるから。寝ぼけて誰に起こしてもらったかすら分からなそうな彼を男子寮側の出入り口まで送る。

 今日はもう寝なさいとさりげなく誘導した後は、佳織はもはやざっくり拭いただけの髪を乾かすことも、トレードマークのポニーテールに縛ることも忘れた。

 今日は長い夜になりそうだ。

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