第38話 取捨
大上邸にて、晃一は激痛と高熱に苦しめられていた。
伝七により命を救われたものの、傷は深かった。術により痛みや熱を和らげたとして、根本の損傷が癒えるわけではない。
少し前まで、晃一は間違いなく死を覚悟していた。シャルロットの未来のために命を使えるのなら、嬉しいとすら思っていた。
……だが、伝七の言う通りだ。
──おまん、それでえいがか?
良いわけがない。
シャルロットの隣にいたい。彼女の笑顔を向けられていたい。
彼女が自分のいない世界で生きていくことも、他の男と幸せになることも、本当は考えたくなどない。
蓋をしていた欲望は瞬く間に未練に代わり、晃一をこの世にしがみつかせた。
「……東郷殿。
傷の具合を見ていた仁左衛門が、渋い顔で言う。
「貴殿の命は、今や結界によって保たれているも同然。この傷の具合では、敷地内から出ればそこで
「……どうにかならない? 俺……シャルちゃんとこ、行かなきゃなんだけど」
おそらく、シャルロットは次郎のマンションにて晃一が迎えに来るのを待っているだろう。
きっと、心細い思いをしているはずだ。早く顔を見せてやりたい。……あの笑顔を向けられたい。
……痛みに
「次郎殿の連絡を待ちなされ。そうすれば、お相手にも事情は伝わるはずです」
「……だけど、電話に出ないんでしょ。じろちゃん」
「……ま、まあ、そうですな。よくあることではありますが……」
晃一からの指摘には気まずそうに目を逸らし、仁左衛門は咳払いをひとつ。
「ともかく、安静にしていてくだされ。私は、また次郎殿に電話をかけてみますので」
膿んだ傷口の包帯を交換し終えたところで、仁左衛門は立ち上がろうと……
「あのさ」
……したのだが、晃一の言葉で動きが止まった。
「大上家にとって、俺を生かしとく意味ってある?」
「伝七くんは元からよくわかんない子だけどさ、眞子さんに俺を生かす理由、ほんとにある?」
「……それ、は……」
晃一の言葉に、仁左衛門は何も返せなかった。
仁左衛門は、医者として目の前の負傷者の手当を行っただけだ。
そこに、大上家の意思が関係しているわけではない。
とはいえ、晃一は以前眞子に協力し、「暁十字の会」調査員の排除を手伝った。恩義であれば、間違いなく存在している。
だが……
かつて太郎右近や次郎左近、そして仁左衛門の父……大次郎は分家とのいざこざの末に暗殺された。
伝七や八重、九曜達の兄である四礼は、
眞子や太郎右近とてそうだ。「家のため」であれば、誰かを
こと太郎右近に至っては、自らの命さえも捧げてみせた。
血縁者でさえ殺めた「大上家」にとって、果たして、多少の恩義が命を救う理由になり得るだろうか。
戸惑う仁左衛門の思考が届いたのか。
障子の向こうから、凛とした女の声が響いた。
「お加減はいかがですか」
眞子の声だ。
仁左衛門が慌てて障子を開けると、黒い着物を
その隣に付き従うようにして、伝七も部屋に入ってくる。
「先日、申し上げました通りでございます」
眞子の、よく通る声が響き渡る。
息を飲む仁左衛門。
伝七は顔を伏せたまま、押し黙っている。
晃一は感情を表に出さぬまま、たらりとその頬に冷や汗を伝わせた。
眞子の眉間にはシワが寄っている。
彼女があまり感情を見せない方だとしても……とてもではないが、「良い話をする」空気ではない。
「我らは
眞子はあくまで冷静に語る。
「本音を申し上げますと……貴方様の命をお救いしたいのは山々でございます」
「……山々? それ、どういう意味?」
晃一に問われ、眞子は拳を握りしめる。
わずかに唇を噛み締めた様子も、晃一、および伝七は目ざとく捉えていた。
「今、貴方様の肉体を蝕んでいるのは、かつてわが息子……太郎右近を苦しめた毒よりも更に強き毒にございます」
その胸中には、母親としての情が渦巻いているのだろうか。
……その場の誰も、推測はすれど言葉にすることはない。
「ま、こういうのは矢嶋本人が持ってるのが普通でしょうが……『誰か』が、試作品の毒とこっそりすり替えたみたいですぜ」
伝七の補足に対し、晃一は苦笑する。
「……へぇ。『誰』なんだろうね。そいつ」
「まさか、俺を疑ってるんですかい? 」
「伝七くんはホラ、変態だから……」
「ひでぇ言いようですねぇ」
ケラケラと笑う伝七の瞳の中で、
「俺は、ちゃあんと生きててくれて良かったと思ってやすぜ。本心からでさ」
無意識にか舌なめずりをした伝七を、眞子がきつく睨み付ける。
そのまま伝七は肩を竦めて引き下がり、眞子は再び
「神をも殺めるほどの毒を食ろうた人間が、平気でいられるわけがございませぬ」
「……じゃあ、俺は……結局……」
その態度が伝七を更に
生きたいと願ったところで、
生きようと誓ったところで、
死にたくないと、想ったところで……
彼の迎える結末は、変わらない。
……いいや。覚悟を抱いて殉死できたのなら、その時に死ねていたのなら、そちらの方がよほど幸福だったかもしれない。
しかし、眞子はさらに続けた。
「……いいえ。先程申し上げました通り、我々は恩義を忘れはしませぬ。貴方様の
「……守る?」
「ええ。術のかかった場所にいる限り、貴方様は生き長らえるでしょう。……後は、時が解決するのを祈るばかりです」
眞子は、床に伏せった晃一の手を握る。
小刻みな震えが、弱りきった身体にもしっかりと伝わった。
「晃一殿。どうか、これからも次郎の友でいてやってくださいませ」
その言葉は、いつもの淡々とした響きではなかった。
切実な響きは、本心より「わが子」を思ってのことだろう。
晃一は、すぐに返事をできずにいた。
生きていたい。死にたくない。それは、間違いがない。
だが……それが慈悲であれ私情であれ、眞子の提案は、「飼い殺し」と何が違うのだろう。
熱に浮かされた瞳が、ぼんやりと空を見上げる。
陽の沈みかけた空に、月がほの淡い姿を見せていた。
***
煌々と輝く月が、薄く開かれた障子の隙間から部屋を照らしている。
乱れた布団の上に、部屋の主はいない。
「……! 八重の、姉上……」
廊下を通りがかった九曜は、庭に立つ影が視界に入るや否や、驚いたように息を飲んだ。
「今宵は、月が美しく輝いておりましたゆえ」
何年ぶりだろうか。九曜が、部屋の外にいる八重を見たのは。
八重は九曜の方を振り返ったが、その視線は上手く重ならない。九曜が目を合わせようとするたび、八重の黒い瞳は逃げるように伏せられてしまう。
「……先刻、ここで待ち合わせをいたしまして。ちょうど、終わったところなのです」
「待ち合わせ、ですか……?」
「え、ええ、大事な待ち合わせです。その、一緒に月を見ませぬか、と……」
耳を真っ赤にして語る姉の姿を妬ましく思いつつも、どこかで安堵しているのも事実で……。
複雑に絡み合った感情を押さえつけ、九曜は静かに問うた。
「
「九曜」
八重は震える声で、妹の名を呼ぶ。
緊張しきった様子に、九曜は言葉の続きを飲み込むしかなかった。
「これを」
差し出されたのは、一葉の栞だった。
透明なフィルムの中、緑色の葉が四枚、花開くように飾られている。
「これは……押し花、ですか?」
「幸福を呼ぶ縁起物だと、どなたかから教わりました。……本当は……ずっと昔、子供の頃に、渡そうと思っておりました品でございます。……ですが……ほら、私達には色々ありましたでしょう……?」
九曜は八重の手から、おずおずと栞を受け取る。
その手を優しく包み込み、八重は、心が定まったとばかりに告げた。
「あなたが贄にならずとも、大丈夫です」
「……え?」
姉妹の視線が、ようやく重なる。
「私が、加護を授かってみせますゆえ」
自らの下腹を撫で、八重は穏やかな笑みを浮かべた。
決意と慈愛に満ちた黒い瞳を、月光がしかと照らしていた。
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