第32話 後楯
次郎がマンションへと向かい、大上邸は不気味なほどの静けさに包まれる。
仁左衛門は主を失った部屋にて一人、太郎の私物の整理を行っていた。部屋の中には古い書物だけでなく真新しい本も揃えられており、読書の際に感じたことを記した手帳や、物語の考察を行ったレポート用紙なども次々と見つかる。
彼は決して、「大上の当主」としてだけの存在ではなかった。むしろ、双子の片割れのように分野は違えど研究者気質でもあったのかもしれない。きちんと整えられた紙の束が、仁左衛門の心に重苦しい感傷を呼ぶ。
太郎は大上の当主として役目を果たし、死んだ。満足のいく最期だったのかもしれないが、仁左衛門は医師として……また兄として、未練を感じずにはいられなかった。
「仁左衛門」
ふと投げかけられた声に、仁左衛門はハッと顔を上げる。振り返れば八重の元へ向かったはずの少女が、幽鬼のように佇んでいた。
「……!? く、九曜殿……!? 帰っていなかったのですか」
部屋の前に立ち尽くし、九曜は静かに語り始める。
「四礼の兄上のことを、覚えていますか」
九曜の瞳はどこか虚ろで、黒々とした闇を映している。仁左衛門は視線を伏せ、頷いた。
「……覚えております。あまりにも、惨い最期でしたな」
「女子の格好で何時間も何時間も魑魅魍魎に嬲られた挙句、人の形を保たぬ肉塊となったのです。……五厘の兄上も酷く心を痛め……ある日、術に飲まれて現世から姿を消しました」
涙がポロポロと頬を伝う。九曜は縋るよう、仁左衛門の袖を掴んだ。
「父上も兄上も姉上も、ヒトでなくなる最期が定められておりました。大神の子を宿すことは、人でなくなることと同じ……だから、六花の姉上と八重の姉上は『神を産む結末』を迎えることで『それ以外の末路』を逃れることができます。でも私は違います。私は九番目の子ども。四礼の兄上と同じ、贄に捧げられる忌み子です……!」
恐怖は少女の心を切り刻み、着実に絶望の淵へと導いていた。
──身内の犠牲にはずいぶんと敏感だなって思っただけでさ
仁左衛門の脳裏を、伝七の言葉が掠める。目の前の少女は懸命に救いを求め、震える手で縋り付いている。
「お、落ち着きなされ。何もまだ、そうと決まったわけではありますまい」
たとえ運命が決まっていたとして、仁左衛門は打破する力を持つわけではない。力を持たなかったからこそ……ただの人間であったからこそ、得ることのできなかった立場と、逃れられた重荷がある。
「……私を、助けて……」
嗚咽にかき消されつつある声が、仁左衛門の心に、再び重苦しい「何か」を呼んだ。
「……私にできることなど……何も……」
長男であったのに「大神」でなかったことを、落胆した親族は多かった。
けれど、跡取りを失った分家の養子になれたことは、仁左衛門にとって幸運だった。特に何の権力も持たない、ただ「異形の知識を持つ医師」というだけの立場であったとしても、それなりに……それこそ太郎右近よりもよほど、心穏やかな生活を過ごせたと仁左衛門は考えている。
何の力もなかったのは、先代の「仁左衛門」である義父も同じだったはずなのだ。
「九曜殿、顔を上げなされ。……何も、怖がる必要などありませぬ」
泣き腫らした目を向ける九曜の顔立ちは、姉妹らしく、八重とよく似ている。少なくとも仁左衛門の目にはそう映った。
「……八重殿も、九曜殿を大切に思うております」
「なぜ、今ここで姉上の名が出るのですか。仁左衛門も、姉上の方が大事なのですか!?」
取り乱した九曜の肩を掴み、しっかりと視線を合わせ、仁左衛門は言い放った。
「それについては申し訳ござらんが、譲れませんな。私が世界でもっとも愛しているのは八重殿ゆえ」
「……愛……えっ?」
「その八重殿が心を痛め、救いたいと願っているのが九曜殿……貴方なのです」
「そんなこと、姉上は一言も」
「無論、八重殿は奥ゆかしいお方。そういったことを真っ直ぐ伝えられる方ではありますまい」
九曜の言葉をところどころ遮り、時折真っ赤になりながらも仁左衛門は勢いに任せ、告げた。
「愛する八重殿のためにも、私はできる限りのことをいたします。……どうか、心を安らかに保ってくだされ」
何一つ根拠などないし、策もない。……けれど、口から出まかせだったとしても、伝えなければ九曜の心が引き裂かれてしまう。
仁左衛門はまだ年若い少女の苦悩に見て見ぬふりなどできないし、少なくとも、妹が追い詰められ弱っていくことを、
「……その……姉上が私を救いたいと……。そ、それは……ほんと、ですか……?」
「私の推測に過ぎませぬが、八重殿は妹君の犠牲を肯定できるお方ではありませんな!」
胸を張って言い切る仁左衛門に、九曜は思わずくすりと笑みを漏らした。
「そこまで言うなら、今のところ信じておきましょう」
安心したように微笑む九曜に、仁左衛門もほっと胸を撫でおろす。
息をひそめ、廊下に佇んでいた影は無言でその場を立ち去った。
「……五厘兄ぃ、俺には……俺には兄貴の役割なんぞ、できんがね」
温もりから逃げるよう、影……伝七は廊下を進み続ける。アランによって開かれた傷口は、確かに大きな枷となっていた。
「なんでじゃ……なんで俺は劣っちょる……? 何が足りん……」
九曜が仁左衛門に向けた笑みは、かつて、幼い頃に亡き与一郎に向けていたものと似ている。弥三郎は故郷の方に居を構えて久しいが、少なくとも自分よりは懐かれていた。生贄となった四礼と九曜は兄弟姉妹の中でもっとも仲が良かったし、五厘に至っては兄妹というより、むしろ……
「みんなみんな腑抜けのくせして……俺より優れゆうは……なんでじゃ……?」
ぶつぶつと呟く言葉に宛はなく、答えのない問いかけは虚空へと消えていった。
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