文月の章

第31話 身内

 その晩、次郎左近は、幼い頃の夢を見た。

 太郎右近と、仁左衛門と、八重がいる。まだ、背負った運命の実感もなかった頃の夢だ。


「母上は、素晴らしいな」


 あれは、眞子が異国から渡ってきた吸血鬼と応対した後のことだった。片割れである太郎の瞳には、深い尊敬の念が映し出されていた。


「そうか?」


 双子はいつも一緒だった。

 ……だが、この時、2人は明確に意見を違えた。


「俺は、怖かった」


 八重と仁左衛門は何の話か分からず、互いに顔を見合わせていた。……正確には、八重は障子の隙間から見ていたのだが。


 太郎は一族のため、眞子のように堂々と振る舞う未来を理想とし、次郎は、古き慣習と因縁に捕らわれた家系を狭苦しく思った。

 二人の立場を太郎がどう思っていたかは、もはや知る由もない。ともかく、太郎右近が一族のために死に、次郎左近がその後を継いだ今、大上家の命運は次郎が背負うことなった。

 陽岬ひのみさきに住まう神は、今や次郎の中にいる。




 ***




「……どうですか、次郎殿。大神さまの声は聞こえますか」


 仁左衛門の言葉が遠い。自らの内側でうごめく何かが次郎左近の思考を埋め尽くす。


「支配者だった自分を忘れていくのが許せない……というより、契約の不履行ふりこうを怒ってるんだろうなぁ。破ったら栄華も土地も全部奪うって言ったのにそれでもいいのかーってことか」

「……ず、ずいぶん冷静ですな」


 面食らう仁左衛門に、次郎は小首を傾げた。

 自分の感情と同化してはいるが、そもそも自分の感情だって冷静に考えれば把握できるだろう……と、それが、次郎の嘘偽りのない本音だった。


「まあでも、民たちはよりいいと思った方に食いついたわけだしなぁ。変革を受け入れられないままだと、破綻するのは当然と言うか……」

「手厳しいですな……」


 仁左衛門は苦笑しつつ、次郎の意見にも一理あると頷く。

 次郎は白衣に腕を通しつつ、「よし」と声を上げた。


「要するに、血統を絶やさずに大神さまを満足させる統治をすればいいんだろう?」

「ま……まあ、そうなりますな」

「じゃあ話は簡単だ。次世代の子が生まれたら、違う方針でそれぞれ育てればいい。変革の方向性が読みにくくても、成功した方が大上を良い方向に導くだろうし、結果からまた新たな課題も見えてくる」


 仁左衛門が目を見開き、絶句したことに次郎は気づかない。


「過去まで遡って、歴代当主のデータを集めた方がいいな。生まれる子には限りがあるから、試算を怠らないようにして……」

「じ、次郎殿!」


 真っ青になった仁左衛門が、言葉を遮る。


「そんな……それではまるで実験です! 今後生まれてくる子は次郎殿か、八重殿の子かもしれませんし、かけがえのない命なのですぞ……!」


 珍しく血相を変えた仁左衛門の言葉に、次郎は素直に「そうか」と頷いた。


「仁左衛門がそう言うなら、もっといい方法を考えるか!」


 晴れやかに笑った表情は、以前の次郎と何も変わらない。

 仁左衛門の背筋を、何か、冷たいものが走り抜けた。




 ***




「なるほど、あれが太郎殿の言ってた『冴えてる』ってことですかい」


 次郎が今後は別宅となる予定のマンションに向かってすぐ、仁左衛門の背後から声がかかる。

 振り返ると、伝七があくびをしつつ廊下に佇んでいた。


「……私は、次郎殿のことを見誤っていたのかもしれませんな……」

「仁左衛門は優しいんですねぇ。次郎殿のは合理的な考えでさ」


 へらへらと笑い、伝七は2回目のあくびを隠しもしない。


「私は医者です。そんな考えに同意することなど……!」

「そんなこと言ってられる暇があるか、分かりやせんぜ。手段なんか選んでられるんですかい?」


 冷淡に告げ、伝七は「なぁ?」と仁左衛門の背後に語りかける。

 仁左衛門が振り返ると、いつの間にかそこには九曜くようが立っていた。無表情のまま、その瞳は兄である伝七の方を睨んでいる。


「私に聞かれても困ります。私から見れば、仁左衛門だけでなく、伝七の兄上も呑気に見えてなりません」


 九曜は伝七から視線を逸らさない。


「……恥を知りなさい」


 そう吐き捨てると、少女は廊下を奥の方へ進んで行った。


「……?」


 不思議そうに立ち尽くす仁左衛門に、伝七は耳打ちした。


「あいつ、このまま大上や眞上に加護がなければ、まじないのためににえに捧げられるんでさ」

「な……っ、つ、つまり四礼殿のように……!? 犬上家はまだそんな呪術を……!?」

「まだ、なんて心外ですぜ。俺たちの家はずっとそうじゃねぇですかい」


 伝七の腕まくりをした袖口からは、生傷だらけの腕が伸びている。正論を突きつけられ、仁左衛門はぐっと言葉に詰まった。


「別に責めるつもりはありやせんぜ。……身内の犠牲にはずいぶんと敏感だなって思っただけでさ」

「……! め、滅相めっそうもない! 私は……!」

「だから、責めるつもりはありやせん。……みんな、そんなモンなんで」


 ケラケラと笑う伝七の背を、仁左衛門は見送るしかできなかった。

 ぐぬぬ、と歯噛みし、板張りの廊下を睨みつける。


「父上……私は、間違っているのですか」


 返事など聞こえるはずもなく、朝の静寂が心に沁みる。


「母上……貴方は、本当に……このような道を望んだのですか」


 眞子の采配は窮地きゅうちに陥った大上家を立て直すほどでいて、その反面容赦がなかった。

 世継ぎについて黙認していたのは、太郎の肉体がそれどころではないと考えていたからであり、八重に情をかけたわけではない。

 ……次郎が当主となった今、彼が「考えて納得できれば」八重の処遇しょぐうがどうなるかも分からない。


 仁左衛門が立ちすくむ廊下の先に、愛しい人は世界を拒絶して閉じこもっている。

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