第28話 先達
「……逃げて閉じこもっても、何も変えられぬとは分かっております」
女はぽつりぽつりと、障子の影に語りかける。
「世継ぎのことを考えねばならぬことも分かっております。……けれど、まるで気になさっていないよう振舞ってくださる太郎殿に……ついつい、甘えてしまって……」
影は静かに頷き、言葉を続けさせる。
声は出さない。……影は、彼女を怯えさせたくないのだ。
「私は太郎殿を
ぽたり、と畳に涙が落ちる。
恐怖に打ちひしがれた心を解いた姿が脳裏に浮かぶ。……3人の影が、八重の心に陽を灯した。少しずつ、幼き日の傷は癒されていた。
……だが、時の流れは、目を背け続けることを許さない。
「次郎殿は明るいお方です。私には少々眩しすぎましたが……あの明るさが、太郎殿の癒しであったは事実。なのになぜ……どちらかしか、未来を得ることができぬのでしょう」
響く
障子の外、男はただ座していた。せめて背を撫で、手を握ることができればと、障子に手をかけようとして……やめた。彼女にはその行為すら、殴られ蹴られるほどの衝撃になりかねない。
「……医者として……太郎殿の身体は長らえた方だ、としか、言いようがありません」
淡々と、影は……仁左衛門は、言葉を吐き出した。
「
震える声音。
八重は、静かに障子に手をかける。
覗いた隙間から、涙を流す巨漢が目に映った。
「私は……私は、彼らの兄として……何も、してやることが……」
障子の隙間から、白く痩せた手が伸びる。
仁左衛門の手をそっと握り、八重はただ、共に泣いた。
***
次郎のマンションに太郎が訪れたのは、2~3ヵ月ぶりのことだった。
「兄さん、本当にいいのか? 忙しいんだろう?」
問いの内容に反し、次郎の言葉はどこか嬉しそうに弾んでいる。
「論文が仕上がっていないと、泣きついたのはおまえであろう」
白衣を身に纏いながら、太郎は素っ気なく返す。
「それは確かにそうだが……こんなにあっさりと仕事を代わってくれるのは珍しいだろう」
「何。たまには甘やかしたくなるのも兄心というものよ」
そのまま太郎は太刀をテーブルに置き、短刀のみを懐に忍ばせる。
いとも容易く置かれた武器を2度、3度と見、次郎は目を
「……次郎や」
「ん? なんだ?」
太郎は何事か告げようとし、……やがて、他愛もない話題を切り出した。
「毎日は、楽しいか」
「楽しいぞ!」
明るく、それでいてハッキリとした答えに、太郎は静かに頷いた。
「……左様か」
ゆるりと微笑み、太郎は次郎の頭に手を伸ばす。
幼い頃のように撫でられ、次郎は思わずぴょこりと耳を出した。
「これ、隠さぬか」
「だ、誰も見てないんだから良いだろう!」
呆れたようぺしりと頭を叩き、太郎は玄関の方へと向かう。
「こちらの仕事は兄上に任せてきた。何も案ずることはない」
「……おお、仁左衛門兄さんを兄上って呼ぶの、久しぶりに見たぞ」
「たまには良かろう。養子に行かれたとはいえ、俺達の実兄であることは変わらぬ」
懐かしい日々に思いを馳せ、大上家当主、太郎右近は、ただの「太郎」として笑う。そのまま次郎の代わりに陽岬学園へと向かった。
扉が閉まる音と同時に、寝室の方からぶっきらぼうな声が飛んでくる。
「で、今日は一日中俺の
「そうだな。安心しろ! 論文も書く!」
「……いや……それ、何を安心しろってんだよ……」
クロードはフラフラと起き上がり、とりあえず水でも求めようとリビングの方へ向かう。
片腕を失ったことでバランス感覚が乱れたのか、足がもつれ、テーブルに青白い手をついた。
「……ん?」
置かれたままの刀に目が行く。
クロードの声に、次郎も振り返った。
忘れた……というよりは、意志を持って置かれたような、そんな直感が
「兄さん……?」
次郎は呆然と呟き、やがて、その場に崩れ落ちる。……双子の片割れが、理解せぬはずもなかった。
兄は、弟を生かす覚悟を決めた。
弟は、兄のために死す覚悟を持てなかった。
……それが、兄弟の行く末を定めた。
***
白衣の中に短刀を忍ばせ、太郎右近は残りわずかの命を振り絞る。
付き従うよう現れた影を一瞥し、言葉を投げた。
「……伝七よ、いつまで采配を振るえるかわからぬゆえ……伝えておくべきことがある」
「次郎殿に酷な役目を託されるので?」
同じく「兄」の跡を継いだ者として、伝七の声はどこか剣呑だった。
「あれは、私などよりよほど
「……。んで、伝えておくことってのは何ですかい? 能力譲渡の儀でしたら、手筈はとっくに……」
整っておりますぜ、と、その言葉が紡がれることは無かった。
向けられた金の瞳の鋭さが、一切の発言を躊躇わせる。生ぬるさを帯びた風が、伝七の頬を撫でる。
「この
単なる諦めや、泣き言の類ではない。
それは、
「……
「左様。……もう、滅ぼさねば気が済まぬのであろうな……。ひどく嘆いてもおられる」
太郎右近の本能とも呼べる意識の深層で、今もなお、大神の思念は荒れ狂っている。
歪みそうな表情をいつも通りのすまし顔に留め、太郎右近は口元をきつく引き結んだ。
「我が魂もこの土地の
引き結んだ唇が、無理やりにでも不敵に弧を描く。
琥珀の瞳が悠然と煌めき、覚悟を告げる。
「アラン……であったか。奴にも、共に足掻くと誓ったゆえな」
湿った風に白衣が揺れる。毒に破壊され尽くしたはずの身体が、しっかりとした足取りで前へと進んでゆく。
伝七は何も返すことができず、俯いた。
「……
伝七の兄、五厘は、最期に何も語らなかった。
──すまんのう
たった一言告げて、そのまま……
「なんで、恨んでもくれんかったがね……」
その独り言を聞いてか聞かずか。
太郎右近は振り返らず、歩みを進めた。
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