水無月の章 晦

第25話 凋落

 曇り空が、どんよりと屋敷の上空を覆っている。

 湿った畳の匂いに、アランは眉をひそめた。その仕草は仮面に隠され、向かい合う伝七には伝わらない。


「太郎殿には人間の鳴き声言葉ならだいたい通じる。……けんど、俺は聞けても話せんのは堪忍しとおせ」


 アランに向け、伝七は真新しい仮面を投げて渡す。アランが身に着けているものとデザインは似通っているが、こちらには切れ長の吊り目が刻まれている。


「こっちの言葉が聞き取れるってんなら充分だ。オレも聞き取りなら随分と慣れたからな。……つっても、今のてめぇのは分かりにくいけどよ。タザキって野郎を思い出す」


 投げ渡された仮面が畳に落ち、アランの指に触れる。

 タザキ……田崎、または多崎か? と、伝七は記憶を手繰るが、それらしい人物は思い浮かばない。


「わかるんなら、まあえいがじゃ。……太郎殿がおまんを信用しちゅうわけじゃないのも、わかっちゅうがか?」

「知ってらぁ。あくまで暁十字の会……っていうより「仁藤亮太」か……そいつ対策の手駒だろ?」


 アランは怪訝そうに仮面を拾い上げ、手触りで形を確かめる。目の穴に指で触れ、ぽいと投げ捨てた。


「オレのは光よけも兼ねてんだ。こんなデザインつけてられっかよ」


 ぶつくさと漏れ出す不満に、「待ってました」とばかりに、伝七の口角がつり上がる。


「安心せぇ。別の奴用じゃき」

「……? 別の?」


 カタカタと伝七の肩が震え出す。そのまま伝七は自らの肉体をかき抱き、乱れた息を懸命に整えようとする。

 アランにしっかりと目が見えていれば、その様子を異質と感じただろうか。

 ……言葉の響きが「普段」と違うのも、興奮のためと気付いただろうか。


「おまんの代わりに、似たような髪色しちゅうクロードに「殺人鬼」になってもらう」


 アランは弾けるように立ち上がった。……けれど、納得ができてしまうのも事実だった。握られた拳が、静かに解かれる。

 クロードはアランの目から見て、「中途半端」なヴァンパイアだった。……妙に理屈っぽいくせに情によって動かされる性格に、危機感を覚えたこともある。

 彼は目的のためならば、「考えた挙句に」ヴァンパイアだろうが大上家だろうが、多数の不利益を厭わずに己の願いを通すだろう。……それを糾弾する資格はアランにはないが。


「……アイツを殺して仮面を引っかぶせるっつうことかよ……」


 身内を身代わりにしてでも、誰を殺してでも生き延びたい。……その想いは、今更変えられるものではなかった。

 伝七はうっとりと宙を見上げる。


「ヴィクトルの統治がヘッタクソなんは知りゆうがか? おまんの手腕がクロードの命より重いことはわかっちゅうがか?」

「……はっ、随分と楽しそうだなぁ犬っコロ。当たり前だろ、このオレと肩を並べられるのはセザールぐらいってモンだ。……ま、アイツも器はそうでもなかったけどよぉ」


 アランは伝七の陶酔しきった瞳には気付かない。……が、突飛な提案を真に受けるほど愚かでもない。

 仮面の隙間から、ぎらりと赤い光が漏れる。


「……で……なんで、わざわざそれを提案すんだ? 答えようによっちゃ……」


 その問いに、伝七は耐えきれなかった。

 息を荒らげ、身悶え、畳をかきむしる。……さすがに、アランもビクリと身構えた。


「太郎殿は、そういう策を毛嫌いしちょる。ヴァンパイア、何よりクロードの感情を考えりゃ、当然最悪ちや。……おまんも仲間への情は、まあ残っちゅうにゃあ。……


 火照った頬が真っ赤に染まっているのを、アランの瞳は捉えない。


「合理的じゃけんど誰も絶対選ばん手……誰もやりたがらん汚れ仕事……ああ……やるべきことやってきっちり恨まれるんは、最っっっっ高に気持ちがえい……!!!」


 犬上の呪術狗神憑きは、「恨み」を根源とするもの。……長年蓄積してきた怨念に呪われながら、それを力とするもの。

 伝七は激しい怨嗟に耐え続け、役目を全うしてきた。……それゆえに、歪んでいる。




 ***



 クロードと伝七は、酒を飲みながら情報交換をする程度の関係ではあった。雨と血に塗れ、足掻く姿に胸が痛まないといえば、嘘になる。


「……ッ、こ、の影……、い、犬……!?」


 ヒタヒタと音を立て、伝七は血溜まりに足を踏み入れた。……アランがクロードの心臓を握り潰し、その傷口から伝七が術を仕掛けたのだ。流れ出した血潮は、辺り一帯を真っ赤に染め上げている。

 ヴァンパイアにとって心臓は急所ではない。……が、苦痛を与え、動きを止めるのには充分すぎる。

 誰かに目撃させるまで、灰にするわけにはいかないのだ。……すぐに死ぬような攻撃では意味がない。


「すみません、こっちにも理由わけってモンがあるんです。……どうか、俺のことなら存分に恨んでくだせぇ」


 伝七の言葉は、嘘偽りのない本心だった。

 術に内側から食い荒らされ苦しみ悶え、雨に濡れたアスファルトを掻きむしり、……やがて、クロードの瞳から光が失われていく。


「あ、ぐ……ッ、アラン、さま……っ」


 アランは立ち尽くしたまま動かない。


「……そろそろ退散せぇ。見つかる時、おまんがおったらいかんぜよ」


 伝七は興奮を隠しきれないまま、震える手でクロードの傍らに仮面を置いた。ぽっかりと空いた目の孔に雨の雫が垂れ、涙のような形を作る。

 夜闇に紛れてしまえば、仮面の形など誰もハッキリとはわからない。……だから、これで良い。


「く、クロードさん……!?」


 ……その声が響いたのは、伝七の想定よりはわずかに早かった。

 部活帰りの少女は血相を変え、瀕死のクロードに走り寄る。


 アランは咄嗟に身を隠し、伝七が代わりに進み出た。


「……ぼんとこの生徒さんですかい? 今、噂の殺人鬼と戦ってたとこなんで……近寄んのは……」


 昂る熱も、蝕む情も押さえ込み、伝七はへらりと笑う。

 落ち続ける一族の汚れ仕事には、もう、慣れきってしまった。

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