第6話 雨川3
滑らかな表面に、小さな凹凸。
そのぴったりと閉じきった割れ目を見て、雨川は確信する。
まだ他の誰にも侵入を許したことがないであろうその場所は、綺麗な桜色をしていた。
「いいのか?」
たまらず小夜に問いかける。
事ここに至ってやめるなどという選択肢はないが、少しの罪悪感が首をもたげた。
彼女は潤いのある小さな唇をきゅっと結んだあと、観念したように呟いた。
「だって、しょうがないじゃないですか」
雨川が黙ったままでいると、小夜は小さく吐息を吐き出す。
「私に拒否する資格なんてありません……だから、早く」
小夜の言葉に頷いた雨川は、穢れの知らないその割れ目に指を這わせ、ゆっくりと押し込んだ。
外の空気を拒むように閉じられていたそれは、意外にもすんなりと指先を受け入れてくれる。
そのまま少しまさぐってみると、中は驚くほど柔らかかった。
「意外ですね。もっと乱暴にするかと思ってました」
小夜がくすりと笑う。
「その方がいいだろ?」
「そうですね。でも――」
雨川のやりようには同意しつつも、小夜には何か思うところがあるようだ。
「もう、我慢できないんでしょう?」
心配するような、そしてどこか挑発的ともとれる言葉に雨川は薄く笑った。
どうやら、それなりに長く一緒にいる小夜には見透かされていたようだ。
出来る限り優しくすべきだと自分に言い聞かせていた。
ただその意志に反して、雨川の身体からは先走るように体液が溢れ出ている。
彼女の意図は不明だが、そう言ってくれたことで許しのようなものを得た気がした。
雨川はもう我慢できないとばかりに身を乗り出した。
「ふん、言われなくてもやってや……くしゅ!」
くしゃみをした。
すでに鼻の入口付近で待機していた鼻水が、くしゃみの勢いにより飛び出した。
寸前でなんとか口を覆いはしたが、手のひらは鼻水まみれになってしまった。
雨川は手を洗いに席を立つ。
「あーあ。だから早くって言ったのに」
朝起きてからくしゃみと鼻水が止まらない。
鼻をかもうとティッシュに手を伸ばすも空だった。
絶望に打ちひしがれ、手をわなわなと震えさせていると、小夜が新しいティッシュの箱を持ってきてくれた。
そして意気揚々とティッシュの蓋を取り去ろうとした。
そんななんでもない朝の一コマだった。
「この蓋を開ける時のギュイーンって音が気持ちいいんだよな……あ!」
手を洗って帰って来た雨川が、再びティッシュの箱を手に取った。
すると小夜が、宝物を持った子供のようにはしゃぐ雨川から箱を奪い取ると、素早く開封する。
たまに切れ端が残るので優しく開ける必要があるが、基本的には普通に開ければ大丈夫だ。
先ほどはそのタイムラグが致命的だったため小夜は反省を活かした。
「お、おま…………」
「まあまあ。そのペースなら、どうせ次の箱もすぐですよ」
酷くくだらないことで絶望した様子の雨川を、小夜が一応慰める。
「次の箱……そういや次の箱ってどこにある?」
「棚の中にまとめて置いてありますよ」
「なるほど棚ね。棚…………どこの棚?」
「はあ」
小夜は溜息を吐いた。
ただ、呆れたというよりは仕方がないといった表情であり、口元には微笑を浮かべている。
「私がいないと雨川さんは何もできませんね」
「お前が隠すからだろ」
「こういうのは隠しているのではなく、収納していると言うのです」
今思えばティッシュを始め、事務所の備品がどこにあるのか雨川は知らなかった。
小夜が来るようになってからというもの、彼女が率先して事務所の管理をしているからだ。
いいのか、と先ほど開封前に聞いたのも、予備の補充をおこなっているのが小夜だったから。
金を払っているのはもちろん雨川だが、勢いよく備品が失くなっていくことになんとなく罪悪感があった。
「ティッシュはまだ少し余裕がありますが、一応今日の放課後に補充しますね」
「サンキュー」
「そういえば、そろそろお醤油とみりんがなくなりそうでした。それもですね」
「ん? うん」
「こうなると他のも心配になってきました。ちょっと見てきますね」
「うん」
小夜が二階に上がっていくのを、雨川はただ黙って見つめる。
雨川のいる建物は一階が事務所で二階が居住空間。
ありがたいと好きなようにさせてきたが、最近は居住空間の方にまで小夜が顔を出すようになり、どうしたものかと考え始めてはいる。
見られて困るものなんてほとんどないが、少しはある。
あまり気にしていないが、物の配置もたまに変わっている。
「食器用洗剤と髭剃り用のジェル、あとキッチンペーパーも、もうすぐなくなりそうです」
メモを片手に、小夜が降りてくる。
今挙げられたもので、雨川が使用しているものは髭剃り用のジェルと醤油だけである。
「……そのメモ、もらっていい? 俺が昼のうちに行っとくから」
「だめです」
さすがに忍びなくなった雨川が買い出しに行こうとするも、その提案は一蹴されてしまう。
「雨川さん、風邪ひいてますよね」
「多分。昨日雨に当たったせいかな」
昨日は雨が酷かった。
「ほら。だから今日は私に任せてください」
「分かったよ」
結局雨川は了承し、感謝を告げた。
今日はと小夜は言ったが、風邪を引いていようとなかろうと備品の補充を自分の仕事のように思っている彼女は普段から買い物に行かせてくれない。
一緒に行こうと言うと、口を尖らせつつも頷いてくれる。
「…………ところで雨川さん」
五段セットになっている新品のティッシュをどこからか取り出した小夜が、雨川の机に置きながら思いついたように言った。
「昨日は、どこかにお出かけしてらしたのでしょうか」
「昨日? 昨日は夕方からちょっと出てたな。悪い、もしかして来てたか?」
「傘も持たず?」
彼女はじっとこちらを見つめていた。
時折彼女はこうした態度をとる。
特に気にはしなかった雨川はふいっと目を逸らした。
「思ったより用事が長引いて……連絡しとけばよかったな」
「それは、はい。お願いします」
「ん? 俺が傘を持ってなかったことって話したっけ?」
「いえ……その、雨に当たったって聞きましたので」
「ああ、そっか」
どうせ近くだから、と思ったのが駄目だった。
別に傘くらい持っていくべきだったと雨川は反省する。
「あの、やめた方がいいですよ」
「いやー失敗したな」
「お願いします。もうやめてください」
「大丈夫だってあれくらい。風邪は引いたけど」
雨川が自分の失敗に苦笑しつつ顔を向けると、小夜は笑っていなかった。
いつも通りの表情、いつも通りの口調だ。
ただどこか違和感のようなものがあった。
「…………私がいるのに」
「うん?」
小夜の小さな声を聞きとれず、雨川は聞き返した。
「私が、私がいる間は看病くらいしてあげます。でも傘も持たず雨の中に飛び出して風邪を引くなんて、まるで子供のようなのでやめてください」
気付けば、いつもの小夜に戻っていた。
「うるせえ」
「態度も子供みたいですね」
小夜は、本当は何を言おうとしたのだろう。
あの瞬間、どこか心細そうに見えたのは雨川の勘違いだろうか。
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