第4話 朝香2

 会社の窓から外を見た朝香は溜息をついた。

 厚い雲に覆われた空は暗く、止まる様子のない雨がコンクリートの地面を叩いている。


 注意はしていたものの、結局帰るのが遅くなってしまった。

 心配そうな表情をする真昼に、そこまで長くはならないと言ってからすでに二時間以上は経過している。

 悩んでいた真昼も、まだ雨の降っていない明るい外を見て、それならばと先に帰ってしまった。


 不安はあったが仕方がない。

 例えば、この先毎日家まで送ってもらうという案もあったが現実的ではない。

 相手がどんな危険人物が分からない以上、朝香を送り届けたあとの真昼だって危険だし、そもそも行き帰りのほとんどがバスの中で完結する朝香は、帰宅時間にだけ気を付けていれば、それほど問題はないはずなのだ。


――こうなると男手も欲しいとこやな。なあ、誰かおらん? 信頼出来るやつ。

――いないかな。警察は?

――前に聞いた話やと、あんまり積極的に動いてくれん場合もあるみたいや。相手の顔すら分かってないし、被害っていう被害もまだな。ま、相談はしとき。

――うん。


 それに真昼は、すでに朝香のために十分動いてくれている。


――いや、おるやろ。思い出せ。朝香みたいなおっとり巨乳お嬢には、いざという時喜んで爆散してくれるちんこマンがいるはずやで。

――真昼ちゃん、お口悪いよ。

――そんなこと言うてるような純情デカ乳やから狙われるんや! 今度つけられたら、ちんこちんこって叫びながら踊り狂ってみい! それで解決や!

――私の方が捕まっちゃいそうだけど……うん、やってみるね。

――ごめん。やっぱそれはやめて。言うてみただけやねん。しゃーない、一人だけ頼めそうな奴がいるから聞いとくわ。


 二人よりも三人。確かに誰かが協力してくれれば心強い。

 ただこのような繊細で面倒な問題に、首を突っ込んでくれる人はいるのだろうか。

 そんな風に諦めかけていた朝香だったが、真昼には心当たりがあるようだった。


 正直意外だった。

 真昼は社交的ではあるのだが、それは薄く広い繋がりであって、どこかへ行くのも遊ぶのも基本的には朝香とだけだった。

 口ぶりから真昼の頭の中では最初から思い浮かんでいた人のようで、その人の愚痴や悪口を散々言いながらも、信頼していることは伺えた。


 朝香の知らない真昼の交友関係。

 互いに言ってないことはもちろんあるだろうが、なんとなく気になった。


 そして今日、さっそくその人に会いに行くらしい。

 当事者であり、好奇心も膨らんでいた朝香はもちろん一緒に行こうとしたが、業務の都合上どうしても難しかった。


――それとこれ、私が預かっててもええか?


 昼間、謎の封筒を二人で開封した。

 中には数枚の手紙が入っていた。

 先に読み始めた真昼は首を傾げるだけで、特に何の反応も示さなかった。


――なんや、朝香のえっちな隠し撮りでも入ってるかと思ったわ。


 厭な想像をする真昼を睨みながら、朝香も手紙に目を通した。

 最初は拍子抜けした。何の関係もない内容だと思い安堵すらした。

 ストーカーがいるという前提で考えなければ、気付かなかったかもしれない。


 〇月△日、どこどこへ行った。

 何々をした。

 あれを買った。

 これを食べた。


 日常生活を淡々と記した日記のようだった。

 そして一枚目、二枚目と読み進めるうちに、手紙の主が一人ではなく誰かと一緒にいるようだと分かった。


 〇月×日、休日を利用してショッピングモールに行った。

 服に興味があるようなので、一緒に買いに行く。

 何を着ても似合うだろうが迷っている様子だった。

 選べと言われても困るので、僕は優しく微笑むだけだ。

 結局何も買わずに店を出たので、彼女が試着した服を全て買い取っておいた。

 今度隙を見てプレゼントしよう。きっと喜ぶ。


 気付いた瞬間、朝香の背筋は冷たくなり、目の前が一瞬暗くなった。

 ひゅうと息を吸ったのを最後に、呼吸が止まったような錯覚に陥った。

 抱きかかえるように支えられた真昼の体温を感じて、ようやく朝香の心臓は動き出した。

 目の端にはじんわりと涙が滲んでいた。


――あ、真昼ちゃん。これ私のこと……かも。


 手紙の主が示す彼女というのは、朝香だった。

 日記に書かれていた内容は、思い返せば朝香の休日の行動と一致した。

 全く偶然被っただけの可能性はあるが経緯と状況がその可能性を否定した。

 朝香の認識と異なるのは、一人で出かけたはずだということだった。

 手紙の最後は、どれも楽しかったねという一言で締め括られていた。


 頭に焼き付いて離れない文面を思い出して、朝香はぶるりと震えた。

 昼間相談した際、友人の真昼に散々言われたばかりだが、確実に脅威は迫っていたのだ。

 それも想像より遥かに近い距離から、長い時間を。


「あれ?」


 いつの間にかオフィスから同僚たちの姿が消えていた。

 あれほどたくさんいたはずの同僚たちは、朝香が悩んでいる内にほとんど帰宅していったようだ。

 閑散とした光景に、急に心細さが募っていく。


「…………帰ろう」


 このまま会社で怖がっていても仕方がない。

 意を決して帰宅することにした朝香が、デスクの周りを片付けていると、背中から声がかかった。


「朝香ちゃん」

「わっ」


 思わず体を強張らせてしまったが、声をかけてきたのが同期の宮田みやただと知って朝香は胸に手を当てた。


「ごめんごめん、驚かせちゃったか」

「いえ、まあ」


 仲が良いとは言わないが、悪くもない。

 真昼とは馬が合わないようで、たまに言い合いをしている。

 その関係で普段は朝香とも話すことは少ないが、一体何の用だろうか。

 曖昧な返事をしながら、朝香は宮田の言葉を待った。


「今日は大変だったね」


 世間話をするような切り出し。

 ひどく大変なことを個人的に抱えてはいるが、そのことではないはずだ。

 戸惑いつつも、朝香は宮田の言ったことに思い当たった。


「そうですね。結局どうするのでしょう」


 思い当たったのは、仕事のこと。逆にそれ以外に宮田との接点がない。

 朝香の勤める会社はとあるメーカーであり、今度世に出す製品は朝香が在籍する部署が大きく関わっていた。


 大きく期待されるその製品には、今流行りのアイドルの女の子、天真無垢てんしんむくがイメージキャラクターとして起用され、今日は幾度と行った打ち合わせの最終日だった。

 

「代わりを今から探すのも……あれですし」


 その女の子が無断で欠席した。

 マネージャー含め誰とも連絡がつかず、家にもいないらしい。

 現場は混乱し、様々な予定が狂ってしまった。

 そしてそれが朝香の残業の理由でもあった。


 しかも困ったことに、彼女が突然いなくなるのはよくあることらしく、明日には何でもない様子で姿を現すかもしれないそうだ。

 今日すぐにでも戻ってくる、少なくとも連絡くらいはしてくる可能性があったため、朝香たちは待っていた。


「困ったものだよね。と言いつつ、僕はむっちゃんのファンなんだけど」


 照れくさそうに宮田が頭を掻く。


「それで良かったら、彼女の連絡先を教えてほしいなー……なんて」


 宮田が朝香に声をかけてきた理由は、彼の個人的な欲からだったようだ。

 そのキャラクター性から、お金を出すはずのメーカーなどに良い顔をされていないはずの無垢が、それでも起用され続ける理由の一つを朝香は垣間見た気がした。


 そして朝香は無垢の連絡先を知っている。

 それが新人の枠を出ない朝香が残らされた大きな理由でもあった。

 掴みにくい性格だと事前に聞かされ、実際その通りで苦戦する場面も多かったが、そんな彼女は朝香にはとてもよくしてくれた。


 無垢の方から連絡先を聞かれ快諾する朝香だったが、実はその時相当奇異の目が向けられていた。

 無垢の連絡先を知る数少ない人物だと、彼女の事務所の人に教えてもらった。


 今となっては、どこか同じような空気を彼女は感じ取っていたのかもしれない。

 ストーカーに追われるなどという、嬉しくもない共通点だが。

 アイドルをやっていれば多少なりともあるだろう。

 彼女の方は、朝香とは比べ物にならない程の熱量だろうが。


「それは、さすがにちょっと……」


 宮田の要求を、朝香は退ける。

 さすがに人伝で個人的な連絡先を教えるわけにはいかない。

 それは無垢がアイドルであろうとなかろうとだ。


「やっぱり駄目かぁ。あ、ならさ朝香ちゃんの連絡先を教えてよ」

「え……」


 心の準備ができていなかった朝香の喉奥から、かすれるような声が出た。


「いや、もしかしたらむっちゃんとご飯食べに行ったりするかもでしょ? その時に教えてもらえたらと思ってさ。あ、迷惑はかけないよ! 遠くからちょっとでも見たいだけだから」

「あの、それも……」


 否定をしようとするものの、小さな声になってしまう。

 そして次に朝香が口を開ける前に、宮田が被せるように言った。


「あーごめん。今のは冗談というか、そうしてくれると嬉しいけど、僕だってそれが迷惑なことだって理解してる。言いたかったのは、実はそうじゃなくてさぁ――」


 一体この男は何を言いたいのだろうか。

 無言を貫く朝香に、宮田はもごもごと口を動かしたあと小さく息を吐いた。

 へらへらとしていた表情が突如真剣なものに変わる。


「昼間、少しだけ話が聞こえちゃったんだよね。その朝香ちゃんと、水無瀬が喋ってるの」

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