第3話 朝香1

「やばいやばいやばい」


 寝坊した。

 朝香は誰もいない部屋で一人呟きながら、身だしなみを整えていく。


「昨日、何時に寝たっけ」


 昨夜は恐怖心からなかなか寝付けなかった。

 鏡に映る自分の顔には覇気がなく、目の下には薄っすらと隈が出来ている。


「夜から雨……まあ、早く帰る予定だからいいけど」


 惰性でつけたテレビでは天気情報が流れている。

 一人暮らしを始めて明らかに独り言が増えていた。

 普段なら一々反応する自分を馬鹿らしく感じるものだが、今日は努めて口に出すようにしていた。

 一夜経って奥に引っ込んでくれた恐怖心が、せり上がってくるのが怖くて。


「よし、大丈夫。行こう」


 どのくらいの時間そうしていたかは分からない。

 準備を整えたあと、しばらくの間玄関で立ち尽くしてしまっていた朝香は、大丈夫と自分に言い聞かせ部屋を出た。

 いつもより念入りに鍵を閉めたことを確認する。


 息を整え顔を上げれば、朝の陽ざしに道行く人々。

 道路を挟んで向かいの建物では、男が呑気そうに欠伸をしていた。

 この辺りでは比較的背の高いマンションの最上階から見る景色は、普段と何も変わりはしなかった。


「やっぱり、相談するべきだよね」


 活気ある朝の風景が朝香の気持ちを前向きにさせる。

 そこで時間に余裕のないことを思い出し、駆けだした。


「ああ……」


 行っちゃった。

 エントランスから出たタイミングで、朝香の乗る予定だったバスが目の前を通り過ぎていった。

 何でもないところで一度転倒、さらには自分を置いて下降していくエレベーターと、小さな不幸も確かにあった。


 しかし間に合わなかった主な理由は、外に出るのが怖くてしばらく玄関で立ち尽くしていたからだ。

 朝香はバスを目で追いながら、自身を苦しめる理不尽な存在に腹を立てた。


「…………もう!」


 口を尖らせつつ、ふと向かいの建物の方へと視線を移した。

 雨川代行事務所と看板を掲げた、先ほど欠伸をしていた男のいる建物だ。

 近頃ある理由から視線に敏感になっている朝香だが、そちらの方から見られているような気がしたのだ。


「み、見られた?」


 男の姿はなかったが、もしかしたら自分の間抜けな一連の行動を見られていたかもしれないと赤面する。

 そのまま揺れるカーテンをなんとなく眺めていると、再び視線を感じた朝香はそちらの方へ顔を向けた。


 反対側の歩道から、女学生が朝香を見つめていた。

 可愛い子だった。

 はっきりとした目鼻立ちに、どこか幼さを併せ持ったような年頃特有の色気。

 着ているのは近くの高校の制服。お金持ちの多い、所謂お嬢様学校のものだった。

 確か何度かこの辺で見かけたような気はするが。


「……?」


 なんだったのだろう。

 朝香をじっと見ていた女学生は、しばらくすると興味をなくしたように視線を逸らした。

 多少気になりはしたものの、次のバスに送れるわけにはいかないと、朝香も歩き出す。



「つけられたぁ!?」

「そんな気がするって言うだけで、まだ……」


 仕事の休憩時間に私は同僚の水無瀬真昼みなせまひるに相談していた。

 彼女は学生時代からの友人であり、同性ということもあって彼女以上の相談相手は思い浮かばなかった。


 真昼は絵に描いたような関西弁を操り、気の強い性格をしている。

 気の弱い朝香とはある意味相性がよく、事あるごとに引っ張ってくれる頼りになる存在だ。


「それって、ストーカーってやつ?」

「えと、どうなのかな? 最初は勘違いだと思ってたんだけど、最近誰かに見られているような気がしてて。ここ一週間くらいはバスから降りたあとも、ずっと後ろに誰かがいて、私が立ち止まると向こうも止まったり――」

「ストーカーやん!」

「ちょ、ちょっと真昼ちゃん!」


 真昼の大きな声を、朝香は慌てて制した。

 説明の半分も聞く前から、彼女はすでにそわそわとした様子を隠せてはおらず、やはりと言うべきか言わずにはいられなかったようだ。


 近くにいた何人かの同僚が朝香たちの方へ顔を向け、興味深そうな視線を送る。

 焦った朝香は真昼の肩を押し、人気の少ない柱の陰に隠れた。


「なんで黙ってたん」

「まだ、決まったわけじゃないから」

「あのなぁ、それが決まるときってのはどういうときか分かってるか?」


 厳しい指摘に朝香がしゅんと項垂れると、真昼は溜息をついた。


「うんうん。どうせあんたのことやから勘違いだったら恥ずかしいとか、人に迷惑かけるのは、とか思ってたんやろうけど」

「ええっとぉ……」

「えっとー、やない。聞かんでも丸わかり。そんで、後になって聞かされる方が大迷惑や」

「え、えへへ」

「なにわろてんねん」


 朝香の頭にちょっぷが刺さる。

 口が悪く、手も早い友人に困らされることも多いが、このときばかりは文句よりも喜びの感情がせり上がってきた。

 痛みは全くなかったが、にやけてしまう顔を隠すように頭をさする。

 そのまま上目遣いに見上げると、横目で朝香を見ていた真昼は腕を組んで言い切った。


「ストーカーやストーカー。間違いない。あんたみたいな子は一番狙われやすいからな。てか間違っててもええ。いるっていう前提で話を進めようや」


 口に出せば、本当にその存在が確定してしまうような気がして躊躇っていた。

 しかし友人が怯まず声に出したのを聞いて、朝香にも勇気が湧いてきた。

 敵が定まったとでもいうのだろうか。不明瞭だったものが形をなしていくような、不思議な気持ちだった。

 下を向いて何かを考え込んでいた真昼は、しばらくすると険しい表情で顔を上げた。


「なあ……私にまだ、言ってないことあるんちゃう?」

「うーん? あ」


 図星を突かれたというよりは、言われて気付いたという感覚だった。 

 今朝は急いでいたこともあり確認を怠っていたが、郵便ポストに差出人のない封筒が届けられていたのだ。

 何が怪しいと思ったかは正直分からない。ただ直感的に何か関係があるかもしれないと思った。

 その封筒は、開封もされないまま朝香の鞄に放り込まれたままだ。


「やっぱりまだあったか……」

「さすが真昼ちゃん!」

「朝香が自ら相談してきたっちゅうことは、そういうことや。事態はすでに常人が考えとるよりも危険域に達しとんねん。というか、よう考えたらつけられ方がすでに堂々としすぎやろ。バス停からあんたの家って……あほか」


 歩いて十分前後の距離に加え、時間によっては人通りもある。

 そんな状況で堂々とつけてくる相手のことか、それとも危険意識の低すぎる朝香のことを言ったのか、どちらかは分からないが呆れた様子の真昼はあほの一言で表現した。


「これやから、常に膝に怪我をしてる系女子は」


 真昼の視線に合わせ、朝香の視線も自分の膝に貼られている絆創膏へと向く。

 大人になっても膝に怪我を作りやすい女性は確かに一定数いて、朝香もその一人だが今回の件に何か関係があるのだろうか。

 ただその言葉で、あほと言われたのが自分だったことに大きく天秤は傾いた。


「関係があるかはまだ分からないんだけどね……」


 そう言って、朝香は謎の封筒のことを真昼に話し出した。

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