蓄尿

 彼の隣のベッドには鶏に似た髪型の中年男性がいて、被験者番号は八番で、登録者番号一万六千三百二十三番と、それほど早くに登録されたわけではないが、静かに漫画を読んだり何かしらのパソコン作業や勉強に一人没頭するわけでもなく、新聞を読んでぶつぶつと小声で独り言をつぶやいたり、共有スペースにあるテレビの前で昼のワイドショーや夜のバラエティ番組を観て一人でうなずいたり笑ったりして、短くて長い入院中の余暇を、初めて治験に参加した者のように持てる時間を余らすことなく、かといって普段は得難い自分だけの時間を絞り尽くすことに必死になっているわけでもなく、あくまで慣れた人の持つ自然な感じでとても無駄に過ごしていた。


 コノ人ハドウシテ独リ言ヲ口ニシテイルノダロウカ、本人ニトッテハ人間ラシクアレコレト頭ノ中デ考エ事ヲシテイルダケナノダロウガ、多クノ人ト異ナッテソレガ口ト表情ニ出サレテイルノデ、抑制ノ利イテイナイ少シオカシナ人ニ見エテシマウ。外見ダケデ見レバ、すぅぅつ姿デ働ク大キナ会社ナラ一人ハ存在スルコレトイッテ目立ツ点ノナイ、仕事ハソコソコ出来ル、ヤヤ愚痴ト皮肉ノ多イ、所謂普通ノ中間管理職ナノニ、独リ言ヲ口ニスル癖ガアルダケデ、ソレホド目立チモシナイ諸諸ノ性質ガ、抑エラレテイナイ癖トタヤスク結バレテ、悪イ色ニ染マリ、飛蝗現象ニ様変ワリシタとのさまばったノヨウナ害トナッテ他人ニ異様ナ効果ヲ与エルヨウダ。


 彼は隣のベッドの男にあだ名をつけて、課長と呼んでいた。どんな業種のどの部署かをまったく念頭に置くことなく、分厚い下唇が目立ち、フレームのない大きくない眼鏡をはめた目は、人好きされそうな、小馬鹿にされそうなだらしない目つきで、強固な意志を持たない鰯程度の階層にあり、長めのリーゼントヘアーに一瞬だけ火を入れてスチールウールのようにカールさせた鶏冠の髪型は、ただただ勿体ぶったセンスのなさを示していて、これらの条件が下手な和音となって、テレビやマンガから植え付けられて形成された課長像に引っかかり、ベンツはヤクザという方程式にもならない直接な結びつきから紡がれた信憑性のなさを備えたどこのだれかもわからない役職が必然とあてはめられた。


 コノ人ハドウシテ落チ着カズニイルノダロウカ。会社カ取引先カ知ラナイケレド、えあこんト空気清浄機ノ音ガ振動シ続ケル静カナ病室内ニ、示威行為トシカ思エナイヤタラ大キナ声デ、音量ノ大キナきゅぅぅぴぃぃまよねぇぇずノめろでぃぃカラ着信ヲ受ケテ、マルデ大層ナ殊勲ヲ見セビラカス野暮ッタサデ、大キクナイ音ヲウルサク思ウ一人ノ時間ヲ静カニ過ゴス他ノ被験者ノ全注意力ヲムヤミニ集メサセヨウト何故スルノダロウカ。コノ年齢ニナッテモ気ヅケズニイルズレタ認識ハ、洗練カラハアマリニモ遠ク離レテイテ、コンナ知能ダカラコソ、大切ナ時間ヲ使ワズ、排泄行為ヲ制御デキズニ、頭ノ考エヲ口ト顔ニ漏ラシテシマウノダロウ。


 食事の時では、課長は常に彼の目の前の席に着き、テレビを見上げながら食べ物を口に運んでいて、入院初日の昼食からリモコンを操作してチャンネル権を手に入れていたので、教育番組などは映さず、多くの人が楽しめる野球や軽い番組を選んでいた。おかずに箸をつけ、米を食い、汁を啜るなどの平均して食べ進めるのではなく、最初に汁を全部飲み干し、次にサラダを一気に食べ尽くし、それから香の物を一口で消し、ようやく主菜の照り焼きチキンやハンバーグをいただくという、まるで欧州の進め方のように食事に向かっていた。課長を黄色く塗りたくればアメリカのアニメーションに出てくる大きな鳥になるだろうと、咀嚼する濡れた分厚い唇を見ながら彼は考えた。


 ある日の二時になり、看護師が「安静時間になりましたよぉ」と告げに回ってきて、気の利いた反応を一切期待しないからこその慣れた声音で愛想よく被験者に声をかけていくと、課長は笑いながら「僕はねぇ、小便がたくさん出てしょうがないんだよぉ、もうぅ、蓄尿のプラスチック容器は三本目なんだぁ」と威勢よく話しかけ、彼はまだ一本も溜まっていないことを頭に浮かべ、良く小便の出る課長なのだと思った。

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