マグロ

 神経過敏な友人と小競り合いをして、地雷を掘り起こすように言葉を選び、滑稽な一幕を演じて宥め、どうにか折り畳みナイフを取り上げることができた。自分の右手人差し指の付け根に血の止まらない傷、相手の左人差し指と中指に骨まで達する傷、どちらも命に関わる怪我でなくて本当によかった。


 黒い柄と赤い柄のナイフを懐にしまい込み、後ろを振り返りながら刻み足に家を出ると、黒眼鏡の逞しい警察官に呼び止められた。


「ちょっと君ぃ、昼飯を買ってきて欲しいんだけど、魚を買ってきてくれないか?」自宅前で駐車違反のキップを切られるように、銃刀法違反で検挙されてはたまらない。


「魚ですかぁ? 魚ってぇ、青魚ですかぁ?」へたな魚を買うことはできない。


「赤身の魚だよ」今の季節だから、てっきり秋刀魚の塩焼きだと思った。


「赤身ですかぁ? 生ですかぁ?」焼いた赤身の魚はないだろう、おそらくマグロだ。


「そうそう、生の魚」ほらやっぱり。


「どのくらいの量ですかぁ?」少ない量に怒られても困る、しっかり聞いておかなくては。


「適当に買ってきてくれ」それが一番困る。


「わかりました」


 そうは言ったものの、この辺りの地理に疎いので、どこに魚が売っているのかわからない。コンビニで買ってもいいが、売っているだろうか? 鮮度の悪さを咎められたりしないだろうか? 仕方ないから、先ほど争ったばかりの友人に教えてもらうことにしよう。


「ブダビデ君、どうしたの?」見るのもつらい、沈鬱な顔を自分に向ける。


「ノック、どっかに魚屋はない?」血の気を思い出さなければいいが。


「えっ? ……魚屋なら、さっき行った絨毯屋の右隣にあるよ」よし、絨毯屋は覚えているぞ。


 アーケードの下に連なる古びた店々の中に、ショッキングピンクの絨毯屋はある。早速店の前に来てみると、右隣はカジュアル服を売り、左隣は化粧品を売っていて、下等な魚臭さはどこにも感じられない。


 絨毯屋の正面に立ち、どこにあるのか一分ほど見つめて探すと、店頭に飾られている水色のジャージに隠れて、コンクリートの狭い階段が見えた。


 階段を下りると、漁港の一角に来たらしく、ざらついた水浸しの床が広がり、生臭い潮の香りが鼻についた。出っ歯のフォークリフトが忙しく動き回っている。


「魚はどこで売っていますかぁ?」近くにいたねじり鉢巻の人に尋ねた。


「おお、あそこで売ってるぞ」指差すのは堤防の近くに立つあばら屋だ。


 近づいてみると、松毬頭の老女が股を広げてマグロに座り、赤黒い血に尻は染まっている。

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