忠告

 拳大の変成岩がぽつぽつ露出する泥土の道を、マナケルは前傾を保って闊歩する。


 吹きまくる風に頭髪は騒ぎ、灰と炭の混じる一本一本はてんでに踊り、四方へ散り散りに煽られる。額の際から始まり、次に脳天をわさわさ弄り、徐々に後方へと蚕食する。


「おいっ! 髪の毛がぬけるぞ! 帽子かぶれよぉ!」せるりあんぶるぅぅの芋虫が叫ぶ。


「うるさい!」マナケルは大音声に怒鳴る。


 芋虫潰れる。颶風は唸り、体液に浸る死体は一瞬にして拭われた。


 鋭利な笹の葉は陽炎に揺らめき、細い茎は密集して揃わず、そろそろと気怠く上せる。熱れる青草は粘っこく、鬱陶しく力みながら蒸散して、その鼻を刺す香料を発する。


「おいっ! なんか臭うぞ! 風呂はいれよぉ!」すぷれいぐりぃぃんの飛蝗が叫ぶ。


「うるさい!」マナケルは大音声に怒鳴る。


 飛蝗潰れる。千草は戦ぎ、捥げた触角が茎に絡みついた。


 陽光は塵の晴れた大気をつき抜け、鋭く照りつける。水気のない肌は刻一刻と皺を伸ばし、二度と戻らない荒地として、草木を生やさぬ砂漠に仕立てる。蜥蜴はただただ、生きるに忍びない劣悪な環境の中、苦しむ為だけに潜んでいる。


「おいっ! 肌いてえぞ! くりぃぃむ塗れよぉ!」こぉぉひぃぃぶらうんの甲虫が叫ぶ。


「うるさい!」マナケルは大音声に怒鳴る。


 甲虫潰れる。陽は煌き、刺々しく硬い節足が地面に縺れた。


 巻雲は天を刻んでひた走り、斜線の稲妻を架空する。積雲はでっぷりと上空に膨れて、端近に禍根の薄雲を引き伸ばす。飛行機雲はのけ者に、箒星を涙の雫、青みの天板に境を記す。プロペラ機は頼りなげに飛んでいく。


「おいっ! 眼を悪くするぞ! サングラスかけろよぉ!」すぴねるれっどの蜻蛉が叫ぶ。


「うるさい!」マナケルは大音声に怒鳴る。


 蜻蛉潰れる。雲が降り、柔らかい黴に羽は包まれた。


 マナケルは視線を遠く先へ向けて──桜ノ色ハ夢ノ園、波状ニ揺レル草葉ノ緑、渡シ船ニ水面ハ泳ギ、忙シゲニ走ッテイク。もぉぉたぁぁノ音ガ中空ニ劈イテハ、晴レ渡ル中ヲ面白ゲニ駆ケテ、タラリタラリ蜜ヲ滴ラスノヲ、見上ゲタ破顔ニオモワズ──拳を硬く握る。


 曇る天道虫が爆発した。


「爪が気色悪いんですよ、ほらっ、見てください。くねりくねって手首を刺しているじゃありませんか、ねえぇ、あれはなにかを循環しているんでしょうかね? へへへ、なんでもありませんね、いえいえ、なんでもないどころか、終わりのないジェットコースターのレールですね、考えるだけで気色が悪くなります。『ほえぇぇる、内臓いりますか?』こんな売り子に来られても、ぷいと手首ではなのけて、じゃなくて、はねのけてしまいます。臓器の値段はそりゃお買い得ですけど、持ってたって邪魔ですよ、だって、すっとするあの、胃袋を透写する感覚が増えるのですから、ねえぇ、そいつは物好きってやつですよ。これ以上腸を伸ばしてどうするんですか? 菜食主義から草食胃腸へ様変わり、いえいえ、爪ですよ爪、まあ、あれだけ汚く生えまわすのだから、よほどの理由でもないと、なかなか理屈っぽい頭の人に理解してもらうにはねえ……」


 猛る蟷螂が共食いした。


「あの尻見てみろよ、蹴っ飛ばしたくならねえ? ならねえなら、おまえどうかしてるぜ? 『ぽんぴぃぃん!』なんて弾みながら、電飾光らして回転するぜ、ああ蹴りてえぇ、だからといって俺がひどいんじゃねえぞ、誰だって蹴りたいって思うはずさ、見ろよ、むかつく尻してんだろ? つま先でもかかとでもいいから、ああ、ああ、くるぶしだってかまわねえから、渾身の力をこめて蹴り飛ばしてやりてえ。しかたねえよ、おいしい物は食べたくなる、むかつくやつは蹴りたくなる、こいつは動物本能か人間理性かしらねえが、ああ蹴りてえぇ、なあ、蹴飛ばしていいかい?」


 潜る蠅が窒息した。


「ようするに臭い、とにかく臭い、この一点にすべては集約される、というわけじゃないが、やたら臭い。洗ってないんだろねぇ、はあぁ、毎日とは言わないから、せめて週に一度は石けんでこすって欲しいよ、でもそれもしてなさそうだからねぇ。『いつ風呂入った?』、『ちゃんと体洗っている?』、『洗い足りないところない?』、『本当に? 確かめてみた?』、『レポートにして提出してよ』、こんなふうに先生に言われても、『うるさい!』の一点張りだ。かっこいいと思い込んでるのか、勇気あると思い込んでんのか、まったく迷惑だよね、臭みによる心身の傷害はありえると思う? そうだよねぇ、聞くまでもない……」 


 マナケルは唾を一飲み──石造リノ家並ヲ抜ケテ、薬局前ノ三叉路ヲ左ニ折レルト、板張ノ窓ガ見エル。右手ニ見エル一段低マッタ石積ミノ塀ニハ、背景ニ点々トスルよっとノ白ニ紛レテ、平タイ嘴ヲ突キ出ス鷗ガ留マッテイル。右手ノ棍棒ヲ握リシメ、早足ニ坂ヲ下ッテ近ヅクト、矢ノ速サデ鷗ガ向カッテ、嘴ガ右手首ヲ貫ク──腕を振って歩き続ける。


「無茶な注文ってのがあるでしょ? 頼む当人はなんでもないことだと思って、できるだけ同情を求めるけどさあぁ、それがとんでもないわけ。目の前に転がっているビー玉を拾ってと、その当人は頼むけど、頼まれる方としては、右腕を付け根から引っこ抜いて、それを口にくわえたまま、犬の走りでかけ回って右手で弓を引け、いやいや無理でしょ、だれもがそう思うことを泣きそうな顔して頼み込むから、それが冗談だか本当だか判別したくなるけど、さあぁ、もちろん簡単なことだからやれるでしょ? そんな気でいるのは疑うまでもないわけでね、そりゃ頼む当人は何もしないから平気なものだけど、頼まれる方の失うものといったらねえ……、わかるでしょ?」


 尻から出る糸を弄び、枡形の晒し蜘蛛は語る。 


 マナケルは唇を舌で濡らし──黒目ノ格子ヲ擦リ抜ケテ、足ヲ地ニ着ケ息ヲ飲メバ、荒イ削リノ杉柱ハ並ビ、茶皮ノそふぁぁト三角窓、此処彼処ニ舞ウ射光ノ芥ハ硝子ノ破片ト覚シク、ヒラヒラ肌ヲ掠メテ蚯蚓腫レ。絹布ニ覆ワレタ紡錘形ノ盛上リハ、天井ヲ突キ刺サンバカリニ斜トシテイル。視界ノ上端ガボヤケテ扇模様ノ記号ノ羅列、線は歪ミナガラ太ク濃ク、淡イ下地ヲ埋メテ装飾ヲ複雑ニ見入ッテ、椅子ニ近ヅキしゃつノ裾ヲ引ッ掛ケル──鼻翼を震わせる。


「それでも頼みを引き受ける馬鹿がいるんだよねぇ、それも思ったよりたくさん、受ける態度も色々で、鼻をほじりながら視線は右前方に見える蛇のおもちゃに、かったんかったん口を開いては閉じて、目をくるくる、びよぉぉんと伸ばす。三歳児の喜ぶたわいもないおもちゃに興味は注がれて、はいはいはいと返事をするんだ。ほんと考えることをしないんだから、ある意味うらやましい、そう思う仕事に疲れきった人もそりゃでてくるさ。頼む当人としては、引き受けてくれればそれで十分でしょ? はい、ありがとう、じゃあ行ってきてね、それから次だ」


 糸はワックスに光り、枡形の晒し蜘蛛は語る。


 マナケルは頭を掻くと──電子基盤ノ網目ノ工場地帯ハ聳エ、一ツハどらむ缶ニ拙イ絵文字、二ツハ断頭スルニ都合ノ良イ縞柄ノくれぇぇん台、三ツハ剣玉シテイル三連機械、四ツハ走ルとらっくト踊ルふぉぉくりふと。見下ロシナガラ先ヲ急イデ景色ヲ流シ、目線ヲ戻スソノ先ニハ、深紫ノ枕木ガ遠近ニ並ンデ、表情ノ失ッタ鉄道工夫ノ曲ッタ腰ツキト、束ネラレタ剥キ出シノ銅線ガ打チ上ゲラレ、横タワル海豚ニ及バナイ腹ヲ見セテイル。燻ラス煙ハ靄ノカカッタ景観ヲ、ソボ濡レタ電信柱ト、霜枯レタ葉末ニ──手にびっしり毛が絡まる。


「意味を取り違えて笑顔でガッツポーズするのもいるし、口を曲げて冷静に引き受けるのもいるし、やたら喋くるのもいれば、尻を掻きながら鼻をすするのもいるから、なんとも不思議な光景だよ、そりゃこんな頼みを受けるぐらいだから、まともな奴はほとんどいないだろうね。でも中にはまともそうに見える奴もいて、『上司の命令です』と繰り返し述べて、やたら周りを見回し、何か勲章を頂いたような誇りがましいのもいて、とても整った身なりだったなぁ……、なんだろうなあれ、なにか喜ばしいことだというのは見受けられるけど、まともな頭の取り巻き達は、表情を崩さないかわりに、しっかりと目顔に不可解をあらわしていたよ。ほんと色々さ、特別褒賞があるわけでもないしねぇ、いったい何が得かといえば、得らしいものはどこにも見当たらないから、それぞれの頭に得がぶら下がっているだろうけど、ぶら下がっていないのもいるだろうねぇ。頼まれた、断りきれないから受けた、こんな連中も数多くいただろうよ」


 糸を吊るし、枡形の晒し蜘蛛は語る。


 木々の擦れ合う騒めきを抜け出れば、そこは野外れ、渺茫とした荒野に容赦ない風は吹き荒ぶ。密雲に覆われた空に稲光が幾重に走り、轟き、塵埃の乱れる最中を鏃の形した木の葉が飛び交う。所々に円柱の巨石が互いに牽制してそそり立ち、百目の穴から象牙色の蒸気を噴出して、膿の汁を垂らして大地を汚すのを、三本足の両生類が湯浴みしている。


 磯の生物らしい触手の草々にマナケルは足を踏み入れた。 


「その中でただ一人だけ熱に浮かされたのがいてさぁ、まず素っ裸でやって来た、次に待っている間に糞便をもらした、そして泣きわめいて踊り出した、周りの人は見るにも聞くにも、嗅ぐにも耐えない汚物に困って、ありったけの嫌悪を空気にあらわしていたけど、さすが頼む当人もおかしなもので、誰に接するにも変わらないからねぇ、そりゃ聖人様ですよ」 


 糸を編み、枡形の晒し蜘蛛は語る。


 マナケルは目を見開き──小沼ニ湧イタ水泡ノ如ク刻マレタソノ眉間ノ皺ニ、繋ガル鼻梁ガ際疾イ角度デ獲物ヲ掴ムヨウデ、正シク鷲ソノモノ。猛禽ニ捕食サレル喜ビハ何物ニモ換エガタク、女ノ動作ニ、首カラ下ニ確カナ法悦ヲ感ジテ、仏倒シニ床ニ伏セ、男ノ頭ハ踏ミシダカレタ。盆ノ窪ニひぃぃるガ落チ込ミ、頭部ノ顫動シタママ奇声ヲ発スルノハ、或イハ感嘆カ、或イハ──視線を据える。


「とにかくその男は喜んで頼みを受けて、絶叫したまま走って行ったわけ、なんの用意も下調べもしないでね、金も食料も何も、衣服さえ身につけていないんだからひどいもんさ。まあ準備していったところで、この世にない物を手に入れるのに、何も役に立ちはしないからねぇ、案外間違ったことはしてないかもよ。……頼みを受ける奴らは変わっているけどさぁ、中でもあの男は図抜けておかしな人だね、うん、よくこれまで生きてこれたと不思議になるもんだけど、ああいうのに限って、生存本能に長けているのかもしれないな。なにせ制限を持たないのだから、どこで眠って、どんな物食べても構わない、人の迷惑になることさえしなければ、生きるだけならできるだろう……、社会の立場なんて考慮しないから、気楽っていえば気楽だね」


 罠を仕掛け、枡形の晒し蜘蛛は語る。


 マナケルは歩く。


「ほんとお願い、必ずとって来てね、必ずよ、必ず、絶対にとって来てよ! お願いだからとって来て、絶対だからね! わかった? いいね、絶対よ!」


 マナケルは歩く。


「は、はい、はい、必ず、必ず、必ずもぎとります」


 マナケルは歩く。


「なんだろうね? 知らないよ。あの男じゃなくても、目の前に歩いているそこのサラリーマンだって、なんの目的で動いているのかわからないからね。その人が口で理由を説明しても本当にはわからないし、その人がそれなりの理由を自覚しても、実際わかったもんじゃないからねぇ、誰にもわからないことさ。……まあ、とにかく、とてもうれしそうに引き受けて、生き生きとした動きで向かったように見えたね」


 獲物を待ち、枡形の晒し蜘蛛は語る。 


「それに、頼んだ人以外から何を言われても聴かないし、放っておくしかないさ、たかが人間の一人だしねえ」

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