靴売り場
若者の見かけない町外れのデパートに、審美眼を備えた人の足を止めることのできない靴売り場があり、虚ろな眼をした男が一人座っていた。試し履きをするわけでもなく、小作りな円形の椅子に尻を載せて、背筋を伸ばし、杖を立てて靴売り場に威厳を保っている。後方から覗くと、背筋の衰えていない気骨な男だが、正面から眺めると、生気の抜けた眼に身体全体は暗く落ちこみ、気が確かでない人間だと判断できる。
(……ドウスレバ、刺激ノアルかれぇぇニアリツケル? ……妻ノ作ルかれぇぇハ甘ッタルク、丸ミガアリ、愛情ノすぱいすデワタシヲ満足サセルガ、モウゥ、ソノ優シイ味ニモスッカリ慣レテシマッタ。唾ヲ吐キカケタクナルホド色ガ黒カッタリ、こぉぉるたぁぁる臭カッタリ、温カナ湯気ガ極メテ酸ッパケレバ、文句ノ一ツデモ口ニシテ、微笑ヲ休メルコトノナイ妻ノ顔ヲ歪メルコトモデキルノニ……、ホトンド調理ヲシクジルコトノナイ良妻ガ相手デハ、ドウシタッテ褒メ言葉ガ出テシマウ……、愛情ミナギル周到ナ心クバリニカカッテ、操リ人形ニナッタ旦那ハ喜ブダケダ……)
一昔前の歌謡曲がオルゴールにアレンジされて、たっかたっか、ふんふん、黄ばんだ天井の下を安閑に揺曳する。周囲に客はおらず、杖を立てた男が座るのみ。離れた場所に立つ中年の女性店員は男に関心を寄せず、眼球の形がわかるほど瞼を開かせて、縮れた赤い巻き毛を爪先でいじっている。
(……タマニハ火花ヲ散ラスかれぇぇニ悩マサレタイ。一口食ベタラ、予想デキナイ凶暴サニ驚キ、喉ニ焼鏝ヲ押シツケラレ、全部食ベキレルカ気ガ気デナク、働キヲ失ッタ思考回路ハ早トチリシテ、ウロウロ目ヲ泳ガセナガラ汗ヲカク。……金ダワシノ絡マル鞭デ引ッパタカレテ、蚯蚓腫レヲ背中ニ太ク這ワセタママ、曼荼羅華ナ香辛料ニ悶絶スル……、ソンナノガ理想ダナァ、トテモ妻ノ作ルかれぇぇデハ味ワエナイ、酷薄ナ旨ミノ凝縮シタ錆色ヲシテイルノナンカ、血圧ガ上ガッテ麻痺スルダロウナァ……)
白藍色の蛍光灯は古いからだろう、ちっかちっか、ふうふう、広い売り場をなんとか照らしている。棚に並ぶ丈の短いワークブーツは困惑しているのか、灯りの加減に合わせて舌を蒼くしては、憂いがちに曇りもする。どの靴もくすんだ小雪に降られたように、また長髪の浮浪者が頭を掻きむしったかのように、流れのない場所だと示す埃に表面を覆われている。
(……妻ニ頼ンデ作ッテモラウカ? ……イヤイヤ、トテモ無理ダ。希望スル味ヲ伝エタトコロデ、ドウイウ物カ想像デキナイダロウシ、例エデキタトシテモ、間違イナク自分ノ望ム物デハナイ。ドンナニ激烈ナかれぇぇヲ作ロウトモ、ショセン慈愛ノ存在デシカナイ妻デハ、甘辛イかれぇぇヲ拵エルマデダ。頼ンデモ無駄ダ、薄情ニナンカナレヤシナイ。第一、『ソンナかれぇぇ、体ニ悪イワ』ト言ッテ作ッテクレナイダロウ)
男の正面に据えられた木製の棚には、縞のストッキングを穿いた女性の脚だけが、鋭利な鉈で付け根から水平に切り離されたように飾られており、魅惑的に脚を組んでロングブーツを際立たせている。目的とする客を中年女性に定めているからだろう、無駄のない若い線ではなく、適度に肉付いたふくよかな両脚だ。相当な距離を歩くことができる、実生活に役立つ頼もしさをありあり感じられる。
(自分デ作ルベキダナ。……デモドウヤッテ作ルンダァ? ソウイエバ小学生ノ頃ニ、地域ノ子供ト一緒ニキャンプニ行ッテ、夕食ニかれぇぇヲ作ッタッケナ。デモ人ニ任セッキリニシテ、指示サレルママニ人参ヲ切ッタダケダカラ、チットモ作リ方ナンテ覚エテイナイ、ソレニ米ノ炊キ方モワカラナインジャ、出発地点ガウシロスギテ、望ムかれぇぇヲ作ルノニ時間ガ掛カリスギル。……ヤハリ妻ニ頼ムカ? イヤ駄目ダ、妻ガ関ワルト甘クナッテシマウ……)
天井に陣取る正方形の空調が脳に黴の生える臭い空気を吐き出すと、釣り下がる大手靴メーカーの擦れた黄色の垂れ幕に吹きかかり、じっとり流れて男の頭の上に落ちた。前部の禿げかかった半白の頭部には、油で固めそこなった縮れ毛がゆらゆらする。
(……踏ミ切リ正面ニアッタナァ、怪シゲナいんどかれぇぇノ店、イヤ、ソコマデ怪シクナイガ、一目デいんどトワカル、さふらんいえろぉぉトぐりぃぃんノ外観カラスルト、望ム刺激ト同ジクライノ衝撃ヲ味ワエソウダガ、方向ノ違ッタ場所ニ連レテ行カレ、変ナ味ヲ覚エテシマイ、元ノ生活ニ戻レナクナリソウダ。刺激ガ欲シイトイッテモ、味覚ト目ノ色ガ変ワルホド深入リシタクハナイ。イイヤ、ソウデモナイカ、ケド、いんどかれぇぇハチョット違ウ気ガスル。何ヨリモ、金ヲ払ッテかれぇぇヲ食ベルノデハ、自分ダケ特別ニ食ベラレルワケデハナイノデ、ナンカ金デ解決スルヨウデ味気ナイ気モシナイコトハ……)
傍でフライパンを使って炒め物でもしたのか、濃厚なスープの汁が飛び散ったのか、それとも消化不良の大量のゲロがこびりついたのか、天井同様に黄ばんだ図太い柱には、こってりした彩りの染みが斑に点出されている。壁にかかる商品広告のポスターも同様、時代遅れの赤色を背景に一昔前の男優が脚を抱えて屈み込み、皺の多い快活な表情を浮かべているものの、その顔面は不潔な雀斑に侵されている。
(知人ニ頼ンデ作ッテモラウカァ? ……駄目ダ、仕事ノ同僚ニ依頼スルトナルト、特別変ワッタかれぇぇヲ変ニ受ケ止メラレテシマイ、ハッキリシナイ陰口ヲ言ワレルカモシレナイ。社会上ノ建前ガアルカラ、仕事上ノ自分ノ姿ニ一致シナイ突飛ナ言動ハ、ヤハリ慎マナケレバナラナイ。……大学時代ノ友人ハ? 喜ンデ作ッテクレソウダ、ガッ、軽薄ナ味ノかれぇぇニナリソウダ。タダ辛イダケノ表面的ナ刺激ニトドマリ、後味モ悪ク、香辛料モ偏ッテイルダロウカラ……)
靴売り場とスポーツ用品売り場を分ける中心の道を、おさげ髪の男の子の手をのこのこひいて、仏頂面した母親が大股に通り過ぎる。赤い巻き毛の女性店員は眼球を飛び出しそうに、蚤取る親子の猿を一人で演じて、変わらない自分の枝毛を気にしている。スポーツ用品売り場に立つ男の店員は、白いポロシャツの生地が薄いらしく胸に乳首を立たせ、黒い毛を腋にぼんやり透かせながら、性欲の強い純粋無垢な瞳で母親を目送している。
(自分デ作ルコトハデキナイ、店デ食ベルノデハツマラナイ、知人ニ作ッテモラウノハ余所余所シイ、友人ノハ馴レ馴レシイ、自分ノ心ヲ打チ明ケルコトガデキ、且ツ理解シテクレテ、遠慮ナク接ッスルコトノデキル誰カガイナイダロウカ? ソンナ人物ナラ、自分ノ望ム味ヲ呑ミコンデ、ソノ人ノ色ガ表ワレタ激シイかれぇぇヲ用意シテクレル。互イノ心情ヲ解リ合ウ関係ガ、刺激アル中ニモ恍惚トサセル一味ヲ含マセ、一層深イ旨ミヲ持タセルハズダ)
靴売り場の並びにある下着売り場から、床面を叩く硬いヒールの音がつっかつっか近づいて、菖蒲色の中年女性が印象強く姿を現す。固太りした体型にパンツスーツは半端に密着して、目尻に刻むと同じ細かい皺が腰周りに浮いている。女は杖つく男に気がつくと、表情変えず、ガラス棚に展示されたローヒールに目を遣る。
(……ダガ深ミトイッタラ、ドンナかれぇぇダッテ妻ニハ及バナイ、ヤタラ甘クテ、コクガアリ、厳シイトコロナド全クナイクセニ、味ワイ深サダケハ顕著ニ感ジラレル、ソノウエ温モリモ込メラレテイルノダカラ、文句ノ言イヨウガナイ、……デモ辛クナインダヨナァァ、アアァ……、昔ハ妻ノかれぇぇモ刺激的ニ感ジテイタダロウニ、ソウ、素直ナ味ノ美味シサニ、驚イテ吐キ出シソウニナッタッケナァ……)
菖蒲色の女は江戸紫色のローヒールを手に取り、杖の男の右前方に据えられた白い革張りの椅子に腰掛けた。上半身を屈め、額に太い皺を重ねて、上目にちらと一瞥、肉の食み出た靴を脱ぐと、煙立つむくんだ足の甲を晒した。
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