蟷螂

 冬入り前の休日の午前、薄ら棚引く雲の下に、頑丈なトンベは洗濯物を干していた。汚れの染みた青竹色の作業服を物干し竿にかけて、薄色のタンクトップを洗濯挟みにかけるところ、とっくるぽんぽん、とっくるぽんぽん、畳みの上の携帯電話が鳴りだした。  


「もしもし」開いた窓から冷やかな風がすり抜ける。


「もしもし、トンベン? 今話しても大丈夫か?」逸る男の声が聞こえる。


「ああ大丈夫だ、どうしたポプポン?」トンベはポスターの貼られた真正面の壁を見る。


「おおトンベン、昨日の夜、プットンが死んだらしい。さっき……」声の調子に事の深刻さが含まれている。


「プットンが死んだ? はっ? プットンが死んだのか? 本当か? どうして死んだん……」トンベの目に、骨組みの露出したバイクに跨る女が映る。 


「おれもサムオから聞いたばかりで、死因はまったくわからないけど、死んだことだけは確かで、明日の夜には通夜が行われるらしい。それを伝えようと……」ポプポの話す声は鼻にかかっている。


「おいおい明日か? 今日じゃないのか? 明日は仕事だから今日のほうがいいぞ。明日の何時だ? 行けないことはないが、時間によっては……」女は緋色のビキニを身につけ、弛んだ肉を重力に垂らし、頬の辺りまで裂けた口は笑っている。


「はっきりした時間と場所はまだわからないけど、サムオの言うには、明日の夜に行うとパタスから聞いたらしく、後々に……」電話越しに掃除機の唸る音が聞こえる。


「明日の夜に行うと決まっているなら、時間も場所も決まっているはずだろ? なぜ場所も時間もわからないんだ? サムオの奴、慌てて聞き漏らしたんじゃないのか? なあ? 何時行われるかはっきりしないと困るから、ポプポンすまないが、一度サムオに連絡し……」ポスターから目を離さずに、トンベは畳みの上に尻をつける。


「それだけど、通夜の詳細は後からメールで送られてくるらしい。どうもパタスの言うには、多くの人に訃報を早く伝える為に、まず電話を使って広く伝達するとのことだそうだ」掃除機の音がわずかに遠ざかった。


「電話で伝えてからメールを送るなんて、わざわざそんな二度手間をせずに、はっきりした詳しい内容を電話で伝えればいいだろ。メールで詳細を伝えるとは、人が死んだというのに、随分と事務的なやり方をするんだな。なんだ、プットンの死因を電話越しで伝えるのは不便だから、その代わりとして、メールが詳らかに説明してくれるのか? サムオだかパタスだか知らないが、器用なやり方にかんしんす……」風が一度に吹き抜けて、埃の塊が畳を転がった。


「まあまあ、パタスもサムオも電話を受けて、言われたままに伝達しただけだからさぁ、それに親族か友人か知らないけど、いち早く伝えることが相手の為になると思っての行為だろう? それにしても突然のことだよ、プットンとはここ二年ほど会っていないからさ、もう二度と話すことはないという実感がすぐに湧かないにしても、思い出があるせいかやけに寂しくな……」声の調子を変えることなくポプポは話す。


「おれも一年前ぐらいに会ったきりで、それから連絡することはほとんどなく、誰かから噂を聞くこともなかったな。まさかこんな若くて死ぬとは思いもしないから、連絡しておけば良かったよ。ポプポン、二年間会っていないなら知らないだろうが、プットンの奴、彼女ができてから付き合いが悪くなりだして、一緒に同棲すると決まってから、一切連絡をよこさなくなったんだ」転がる埃を捕まえて、薄鈍色の屑箱に入れる。


「ああ、それなら知っているよ。最後に会った時、熱っぽく彼女の話ばかりして、一緒に住んでからの生活を嬉しそうに語っていたから。それから半月ほどして引っ越したという話を聞いたけど、トンベンの言う彼女と同じ人物かな? 時期に離れがあるよな?」話の途中に掃除機の音が止んだ。


「おれが知っているのはタマコさんという女だ。その女と付き合い始めるまで、彼氏が数人いたというのは知っているが、そう、彼氏がな。けれども、彼女がいたという話は聞いたことがない」畳の上のティッシュペーパーがひらひら揺れる。


「タマコだったっけ? んん、名前を聞いたようだけど、覚えていないなぁ」思い出しながら話しているせいか、間延びした言い方になる。


「額の狭い下膨れした顔立ちで、ボールペンで点を押したような目と鼻と口の、一言で表せば洋梨顔の女だ。どうだ同じ女か?」再びポスター上の派手な女に目を向ける。


「いったいどんな顔の女だ? おいおい、いくら他人の女とはいえ、ちょっときつい説明だぞ。おれは会ったことないけど、プットンの言っていたのは、瓜実顔の京美人だった……」ポプポの声に微かな丸みが表われる。


「恋に曇った見方では、下水のマンホールだって京美人になるぞ。故人に申し訳ないが、プットンの眼識は乱れている。見ればおれの言っていることが真実に近いと、声をあげて納得するはずだ」窓の外から男の粋なくしゃみが聞こえた。


「なら、見て判断するから、それまで女の顔についての話はおあずけにしよう。にしても、細かい時期は別として、トンベンも会っていないんだな。サムオも長いことプットンに会っていないらしく、同じようにタマコという女の話をしていたよ。なんでも……」ポプポの声はすぐに真面目になる。


「サムオはタマコさんの顔をどう評価していた?」畳みに置かれた週刊誌に手を伸ばした。


「細かいことは言っていなかったけど、まあ、相当に不細工だと言っていたよ」落ち着いて言葉を口にする。


「間違っちゃいないが、簡単に言いすぎだ。さすがサムオ」表紙を飾る女性芸能人に目を落す。


「不幸な出来事があったのだから、もう不謹慎な話は止めよう。それより通夜には参加できそう?」ういぃん、再び掃除機の音が響きだす。


「仕事の進行によっては遅くなるかもしれないが、会場がよほど遠くない限り参加できるはずだ。なるべくなら、同棲していた場所じゃなくて、プットンの実家近くで行われると助かる。ほらっ、たしか車で二時間はかかるから……」強めにカールのかかったボブカットは笑っている。


「そうか、遅くなるかもしれないか、サムオとも約束して、一緒に行こうと思っていたけど……」掃除機にかき消されないよう声量を大きくする。


「ああ、明日にならないとわからないから、今は約束はできない。ポプポンは何時に会場へ行くつもりだ? ああ、まだ時間も場所もわからないか」表紙の下の見出しは若手芸人の不倫を報じている。


「決まってないけど、おそらく仕事は早引きできるから、サムオも早めにパチンコを切り上げると言っていることだし、早い時間に会場へ向かおうと思っているよ。けど、トンベンも早い時間に仕事をあがれるなら、サムオと一緒に待っていても……」ぼふっ、なにやら薄い生地を吸い込んだせいか、掃除機がこもった音を漏らした。


「いやいや、いいって、待たないで先行ってくれ。早く行ったほうがプットンも喜ぶだろう。おれは後から一人で行くから、サムオにもそう伝えておいてくれ」トンベンは表紙に向かって右手を振る。


「時間も場所もまだわからないから、もし、一緒に行けるようなら……」ゆっくりした口調にわずかな情味が含まれる。


「いいって、いいって、そんな気を使わなくていいか……」わずかに声が裏返っている。


「まあ明日、仕事の調子がわかったら、夕方までに一度連絡してくれよ。あとは、詳細がわかったらメールを転送するから、それを見てどうなるかだ」掃除機の音は勢いを取り戻す。


「ああ、わかった、わかった。本当に無理して待たなくっていいからな」週刊誌を無造作に捲る


「まだ話したいところだけど、次は痰査君に連絡するから、そろそろ電話を切るよ。トンベンもプットンに関わりのある知り合いがいたら、この事を連絡しておいてくれないか?」掃除機の音は急に遠くなった。


「そうか痰査に連絡するのか、あいつも驚くだろうな。……わかった、知り合いに伝えておく。じゃあ、ポプポン、明日一度連絡するから」電話を切ると同時に、週刊誌をつかんで畳に放り投げた。


(明日ノ夜カァ……、予定ハナイガ、仕事ノ終ワッテカラデハ面倒臭イナ……)携帯電話を座布団に置いて、一つ溜息をついた。


 部屋に抜ける一陣の秋風に襟首を撫でられ、トンベは開きっ放しの窓へ目を向けた(アア、洗濯物干サナイト……)。重ねられたプロレス雑誌に右手を置き、立てた膝に左手を乗せ、一息漏らして立ち上がる(プットンノ奴、死ンジマッタカ)。激甚な試合模様を顔に表す、緑青色のプロレスパンツの男に湿気た手形が付く。


 泥に汚れたベランダに裸足のまま踏み入り、(知リ合イニ連絡スルノモ面倒ダナ……)腰を屈めて網状の洗濯籠に手を伸ばす。萎れた紅のブリーフパンツと襟元の伸びた萌黄のシャツ、(ココ数年ハ地元ノ仲間トアマリ会ッテイナイシ、ドウセ狭イ輪ノ中ニシカイナイカラ、オレガ連絡シナクテモ勝手ニ回ルダロウ)茶枯れたフェイスタオル等を手につかむ。


 二階のベランダ正面には、隣アパートの臙脂色の階段があり、その脇の小道のアスファルトを、緩やかに髪を垂らす女性が歩いている。


(サムオダケナラ話ハ盛リアガルガ、ポプポンモ一緒トナルト、プロレスノ話題ニツイテコレズニ黙リコムカラ、ソレニツラレテ自分モ途中カラ気マズクナリ、三人ノ口ハ重クナル……)新橋色のプラスチックハンガーに、燃えるブリーフの端を挟む。 


(マダ三十歳ナノニ、死ヌノガ早イヨナァ……、アイツナンデ死ンダ……)タオルと下着類をハンガーにかけ終えると、再び衣類の詰まった洗濯籠に手を伸ばし、藍鼠色のパーカと鉄紺色のスェットシャツを手に取る。面を広げて腿に叩きつけ、服の皺を伸ばしてハンガーに襟を通す──蒸シ暑イ陽気ニ真夏ノ陽射シ、原動機付キ自転車ノエンジンハ高温ニ達シ、頬ノ痩ケタプットンハ薄ラ笑イニ振リ返リ、ペットボトルノコーラヲ上空ニ撒キ散ラスト、褐色ノ水滴ハ熱風ニ乗リ、散弾トナッテトンベノ顔ト車体ニ降リカカル──、頭を使わぬ一連の作業が追憶へと向かわせ、ささやかな哀惜の念を汲み上げる。


(憎タラシイ奴ダッタナァ……、人ノ嫌ガル事バカリシテ、全然謝ル素振リヲミセナイ。ヘラヘラ笑ッテ人ヲ小馬鹿ニシテバカリデ、愛嬌ノ足リナイ……)どこからか囀る雀が二羽舞い降りて、ぴょっこ、ぴょっこ、庇を軽快に渡っていく。


(アイツモ彼女ガデキテ随分ト変ワッタヨナ……、行クノハ億劫ダシ、香典ヲ出スノモ勿体無イガ、ソウ悪イ奴デハナカッタシナ……、死ニ顔ヲ拝ンデ見送ッテヤルカ)洗濯物を干し終えたトンベの眼は、憂いと困惑を、ある種の落ち着きが包含していた。


 洗濯籠を浴槽の前に戻し(礼服ハ確カアッタハズダ)、座敷の押入れ襖を引いて、ポールにかかった衣類を調べる。毛の立った黄土のムートンコート、目立って膨らんだ黒茶のダウンジャケット、人目を逸らす梅紫のシングルスーツ、その隣に皺くちゃの礼服が隠れていた(オオ、アッタアッタ)。汗と埃に樟脳が加わり、光の当たらない押入れに澱んだ空気は充満する。臭いを醸成するのに、最も効果のある役を礼服は担っているらしく、トンベが取り出すと渦巻く紫煙を漂わせた(少シ臭ウナ)。


 眼前にぶら下げて、老人らしく縮んだ礼服を見つめる(ナンデコンナニボロボロナンダ?)。外の空気に触れてか、礼服は形状を些か膨らまして、だるそうに皺の線を変えていく。


 礼服を小刻みに揺らし(前回着タノハイツダ?)、下衿を撫で(今年ハ出シタ記憶ガナイナ)、フロントカットをつまんで擦る(去年カ? 一昨年カ?)。袖口にべっとりした染みがついている(アッ、ニイツウェンノ通夜ダ!)。裏返して背縫い線をなぞり(コノ汚レ、通夜ブルマイノ時ダ!)、水しぶきを浴びた点々と色褪せる背面に目を凝らす──波状模様ノ大皿ニ、深緋、藍白、赤橙、色々刺身ハ乱レ散リ、空ノ瓶ハ乱立シ、天麩羅屑ヲ散リバメテ、会議机ト擾乱スル──。


 ぼん、ぼん、布団を叩く音がした。トンベは渋い顔をしている。


(アレ以来カ……、酷イ騒ギダッタナァ……)皺のスーツを数度叩くと、舌を這わせて紫煙は宙へ踊りだす。幼稚園が一緒のニイツウェン、同じ部活のニイツウェン、馴染んだ故人の追懐よりも、遠くない汚濁が染みたスーツと立ち昇る。


(……コレハ着テ行ケナイナ。新シイノヲ買ワナイト)深く考えることせず、見たままの反応らしく、丸めてゴミ袋に突っ込んだ。

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