長靴

 春の連休明けに迎えた四歳の誕生日に、ペチカは黄色い長靴を母親からプレゼントされた。


 それまで履いていた兄のお下がりは、甲虫のアニメキャラクターのプリントされた擦れる薄紺色のゴム靴で、履き口が縒れて使用感が目立っていた。新しい長靴は黄色の光沢を自ら発するように、鬱々した雨雲に負けじと小さな太陽を輝かせ、内気なペチカの心を外へ働きかけてくれる。


 ペチカが生まれた時に三歳上の兄がいたので、成長するに合わせて着古しがまわってきた。親の言うことを素直に聞くペチカは古着を気にしていなかったが、キャラクターのプリントされた長靴だけはどうも馴染めなかった。古い長靴を渡された時は、親の手前、泣き顔にも見える老人臭い笑いを浮かべて、瑞々しい肌理の頬を痛く引き攣らせた。兄の履いている姿を見て何度か予感していたことがやはり訪れ、わかっているけれどわかりきれない思いが、従順な子供の心に歪な振動を起こす。


 逞しく腕を突き上げる甲虫の絵を好きになろうと、ペチカは胡坐をかいて長靴を両手に持ち、線の太い羽、チョコレートのような頬、勇ましい眼球を眺めるも、色褪せた長靴同様に感情がぼやけてしまい、悲しく、侘びしく、愛くるしい想いが交錯しては、大好きな母親の顔と父親、時たま苛められるが、面倒見の良い兄の頼りになる笑顔が滲んでくる。無数の細い線に擦れたゴム面をさすると、表面の粗さが柔らかな手に触れて、新しい長靴を欲しがる気持ちに鑢をかけられて居た堪れなくなり、履き口を力いっぱい抓ってから、長靴に手を突っ込んで腕を上げ、おぼつかない笑い顔と足取りで畳み部屋を駆け抜けた。


 それからというもの、雨が降るとペチカは頭痛を訴えるようになった。それまでは大雨が降ろうと文句言わずに保育園に行くのも、目に見えるか判別のつかないほどの小雨でさえも眉間を顰め、伏目がちに口を横一文字に噤んでしまう。子供らしい愛嬌ともいえる拗ねた顔にも見えなくないが、少し角度を変えてまじまじと見ると、不惑を超えた人間の葛藤に打ち勝とうと耐える横顔のようでもあり、さらに光線の加減を変えると、偽りをその身から漏らさないよう必死に堪える姿にも見える。


 ペチカの頭痛症状が起こる理由を母親はそれとなく飲み込んでいた。


 控えめな三色の傘を腕にかけて、買い物帰りに駅前の繁華街を母親が歩いていると、王冠型の背もたれが幾つも並ぶ喫茶店の隣に、元気な色の子供用品が売られていた。何の気なしにショーウィンドウに眼を向けると、にぎやかなポンチョを着た小さな顔無しが長靴を履いており、母親は首を向けたまま立ち止まり、ふと、快活に育つ息子の姿に思いを馳せた。


 ──無口ナソノ男ノ子ハ静カニ笑ウコトニ慣レテ、声ヲアゲテ顔ヲ皺クチャニスルコトハナク、時折人ノイナイトコロデ小サナ皺ヲ眉間ニ浮カベルコトハアッタガ、黄色イ長靴ヲ手ニシテ、生マレタテノ頃ノ笑顔ヲ取リ戻シ、口数モ増エテ他愛モナイ事ヲ口ニスルヨウニナル──


 包装された長方形のプレゼントを見た瞬間に、ペチカは中身を予想することなく、新しい長靴が入っていることだけを期待した。母親から受け取った瞬間に、何の根拠もなく確信した。些か筋の硬い笑顔を浮かべて、はっきりしない言葉をぶつぶつ呟きながら慎ましやかに包みのリボンを解き、無造作に包装紙を破いて靴箱を取り出すと、プラスチックとインクの混ざったような科学香料の臭いが鼻につく。箱を開くとペチカは悲鳴と紛う叫びを上げて尻餅をつき、眼が潰れたのではないかとしきりに瞼を掻いた。


 ──黄金ノ長靴ガぺちかノふっくらした足ニピッタリト収マリ、大雨ノ降ル晴々シイ空ノ下ヲ、雲ヲ紡イダ三ツ網ノろぉぉぷニ太陽ヲ繋ギ、悠々ト引キ連レテ、互イニ温度ヲ交流サセテ大股ニ進ンデイク、湖水ノ深サノ水溜リモ、岸ニ渦巻ク波濤ノ飛沫モ、揺ラギナイ渺渺タル海面モ──


 ペチカは黄色い長靴を履いて畳を飛び越え、玄関の靴棚に埃被った甲虫の古長靴を手に取り、ついでに傍に置いてあった布切れも掴み、そのまま外へ飛び出す。その日は休日、ペチカは雲の多い午前の陽の下を駆けて公園へ走り、木製アスレチック遊具の陰の一角に座り込み、新旧の長靴を抱いて喜んで、甲虫の絵の描かれたゴム面を感謝を込めて磨いた。磨くたびに涙が溢れて仕方なく、鼻に炎症を起こすほど鼻水を啜って我慢した。母親の顔も父親も、兄の顔も喜ばしく、磨けば磨くほど心が安らかになり、古い長靴の薄れた色が眼に染みてくる。家の中で見る汚れた薄紺色ではなく、優しさを含んだ柔らかい色であり、擦れた面の傷は活発な兄の記録を示して、全体に兄の人柄が満ち溢れているのを、遊具の隙間を抜けて埃を照らす明かりが教えてくれる。


 母親の思ったとおり雨の日の頭痛は収まったが、雨が降らないとペチカは憂鬱な顔を見せるので、晴れの日も長靴を履くことを咎めずに容認した。また予想と違って古い長靴も時々履くようになり、不思議に思った母親が一種の当て付けかと思いそうになったので、それとなくペチカに聞いてみたところ、黄色い長靴が仲直りさせてくれた、そんな意味のことをぼそぼそ言ったので、母親も得々とペチカの頭を撫でて喜んだ。

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