水槽
男は、電車で二駅の距離の、自宅からさほど遠くない都立の高校へ進学した。目立って学力が高いわけではなく、かといって高校を選べないほど成績は悪くない。中学のクラスには四十人ほどの生徒がいて、たいていはそのなかで十から二十のあいだに入る成績をおさめていた。
通っていた塾は駅前にある個人塾だった。授業は先生一人にたいして生徒は四人でおこなわれ、レベルの高い高校を意気込んで狙うような雰囲気ではなく、学校の勉強をすこしばかり補う程度の内容だった。生徒達は陽に焼けた若い男の先生と仲が良くて、授業を脱線して雑談に盛りあがることもわりとあった。男はそんな塾の授業を嫌がることなく、学校とは違ったコミュニケーションを味わえる場として好んでいた。
男は部活動中心の高校生活を送ろうと思っていた。中学ではテニス部に所属していて、病気や身辺の都合以外では休むことなく参加していた。テニス部に入った理由は簡単だった。仲の良い友人に誘われたからだ。三年の夏の大会で、市でベスト六十四の成績をおさめたぐらいで、あとは一回戦負けばかりだった。男は自宅に戻ればテニスのことをほとんど忘れるぐらいに部活動に励んでいた。試合の成績はさほど気にしておらず、日々の適度な練習になによりも重きをおいていた。
入学式から数日過ぎ、男はうしろの座席の男に誘われてバレーボール部に体験入部した。将来プロになるわけではないので、テニスは中学校で終わりだった。それに、男は日焼けしない部活動をしたかった。
バレーボール部には三年生が六人、二年生が八人、マネージャーの女が一人いた。とびぬけて上手な男が三年生に一人いた。二年生は全員似かよった実力で、下手でもなく、上手くもない。体育館内の練習は蒸し暑くて、健康的な汗臭さがただよい、男はほこりっぽさのない清潔感が気にいった。試合の成績をみごとにあらわした練習内容は、中学校の部活よりほんのすこしきついていどで、さほど苦にならなかった。それよりも、初めて団体競技における選手の責任について知った。テニスとは違い自分のミスがチームに直接関わる。男はバレーボール部に思ってもみなかった魅力を感じた。
男は一週間の体験入部を終え、自分を誘ってくれた友人と共に正式に入部した。
入部して二週間が過ぎた。毎週月曜日は部活が休みなので、放課後に予定のなかった男は、うしろの座席の友人の自宅へ遊びに行くことになった。知り合いはほかにもできたが、とくにこの友人と親しくなり、一緒に登下校するようになっていた。
友人は二つ隣の中学校の出身なので、男と共通の地理を持っていた。男は私服に着替えたかったので、男の自宅から自転車で二十分ほどの距離にある、二車線の大通り沿いのマクドナルドの前で友人と待ち合わせした。
男がマクドナルドの前へ近づくと、排気ガスでうっすらと汚れたガードレールに尻を乗せた友人がいた。友人はうつむき、足をばたばたとさせて危なげに座っている。大声をあげて驚かせば、うしろにのけぞり、後頭部をごつんと道路にぶつけるだろう。
男は黒いシティーサイクルから降りて、ゆっくりと友人へ近づいた。友人は左方から自転車を押して歩く男に気がつき、にこりと笑った。ガードレールへななめにたてかけられた赤いマウンテンバイクに手をかけると、軽々しく起こして、男に向かって近づいた。
友人は店内に入るのが面倒なので、ドライブスルーを使って一番安いハンバーガーを二つ注文した。男は自転車に乗ったままドライブスルーを使っていいのかわからず、友人と店員の対応を見て、うしろを振りかえった。角ばった白いワンボックスの車が停まっている。運転席に座っている男は、顔が四角く太り、中年のように見えた。助手席に座っている明るい色のウェーブヘアーの女は、首をまわして運転席の男に話しかけている。二人とも笑っている。
女はふいに、前を向き、男と視線があった。男は瞬間的に首を元の位置に戻した。友人は、優しい目の女性店員から、ガサガサした袋を受けとっていた。若い女性店員が笑顔を崩さずにおじぎしたのを見て、男はほっとした。
赤茶色のレンガの家のそばで、友人は自転車の速度をゆるめた。さすがに団地には住んでいないだろう、と男は思っていたが、こうもシャレた家に住んでいるとは思っていなかった。男にとって、赤茶色のレンガは外国を象徴していて、自分の世界からかけ離れた物だった。
くすんでいない灰色のシャッターが自動でうえにあがり、カー用品の入った戸棚やタイヤ付のアルミホイール、ゴルフバッグなどが広いガレージの奥隅に見えた。車は停まっていない。だが、整頓された明灰色のガレージには、高級な車がありありと目に浮かんだ。
ガレージのわきに自転車を停めると、黒いシティーサイクルも、停める場所によっては都会的に映えるのだと男は思った。ただ、友人の情熱的な赤いマウンテンバイクを見てしまうと、しょせん、大型ショッピングセンターで安売りされる物だと気づかされてしまう。
だからといって、男は友人の持っている赤いマウンテンバイクや、赤茶色の自宅がうらやましくは思わなかった。自分には、そんなたいそうな物はもてあますだけで、価値を味わい尽くすだけの感覚は持たない。もったところで、このガレージに停められたシティーサイクルのように、バランスが悪く、本当には、似合わないだろう。そうはっきりと考えたわけではないが、男は無意識にそんなことを感じていた。
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