皿洗い
おれのごつい手じゃ無理だろ。大ジョッキのグラスにさえ入れられないんだぜ? ビールの小グラスなんか、人差し指一本入るぐらいがやっとだ。それにやたら力が強いもんだから、加減するのが難しくて、とてもスポンジなんかじゃ洗えねえよ。慣れれば器用に洗えるかもしれねえけど、アルバイト初日じゃどうやったって早く洗えねえよ。柄付きのスポンジも慣れねえから、グラスを貫通しそうでおっかないぜ。
いや無理だろ。『ぼけっとしてねえで、とっとと洗え』って言われたってよ、こんな量の洗い物を一人でやれるわけねえじゃん。だって、アルバイト一日目だぜ? それに下谷君だっけ? 五つ下の先輩だってよ、グラスで手を切って、たくさん血を流して帰っちゃったじゃん。いつも二人でこなす量なんだろ? それを一人でやる時点で無理だぜ? それも洗い物見習いの、機関車でも洗わせた方がよっぽど役に立ちそうな男だぜ?
だいたいよ、ちっぽけな大衆居酒屋の板前のくせに偉そうなんだよ。たかが魚を綺麗にさばけるだけだろ? それだけのくせに、『ぼけっとしてねえで、とっとと洗え』ってよ、何がそんなに偉いんだよ。料理の腕磨く前に、もっと人格磨いてこいってんだよ。まったく、どうしてこうひねくれた人が多いのかな、だから職人は嫌なんだよ。
このお通しの器さあ、いったい何を考えて作られてんのかな? カタツムリの殻みたいな形して、奥を洗うのがすげえ面倒くえんだけど。普通の小鉢でいいじゃん、なんでわざわざ客が食べにくいような器を使うのかな? 新しいとか思ってんのかな? すげえ気持ち悪いんだけど。
ほらまただよ、カタツムリの殻が割れちまった。ちょっと握っただけですぐに割れるんだから、もっと頑丈に作れよな、まるで蝉の抜殻だよ。いくらおれの力が強いったって、ちょっともろすぎるぜ。これで二十六個目だよ。これなら全部割っちまおうかな、そうすりゃこれからカタツムリを洗うこともねえ。その前に今日でアルバイトを辞めるか。
おい、ホールの女の子さあ、忙しいのはわかるけど、もうちょっとましな片付け方してくれない? なんでカクテルグラスに納豆巻きをぶち込むのかな、ええっ? もっとさ、捨てるものは捨てるもので、一ヶ所にまとめてくれよな。ねばねばがこびりついて、洗うのが超めんどうくせえんだけど。それに『おねがいします』と一声かけて、目を合わせてくれてもいいじゃん。何も言わずにがしゃんと置かれると、洗うほうもすげえ気分悪いんだけど。
しかしあわただしい店だよな。無駄にだだっ広いくせに客が入るから、洗い物が止まらねえよ。こうなるなら、一度食べに来てからアルバイトの応募すれば良かったよ。電話連絡で採用してくれるから簡単で喜んだけど、実際来てみればひでえ所だ。そもそも高い時給に誘われて、皿洗いなんて選ぶんじゃなかった。皿洗いなんて誰でも出来るものだと甘くみていたけどよ、やりがいも何もねえひでえ仕事だよ。鼻糞ほどの楽しみもねえ。これなら、近所にあるゼウス洗車所とかいうところで、車洗ってるほうがよっぽどましだな。あれなんか力で擦りつければいいんだもんな、皿なんてすぐ割れちまうから、神経ばかり使って背中がむずむずするぜ。
しかしひでえ洗い物の量だ。なんでこんなに皿があるんだよ、ほんと食いすぎだって。あの板前、ほとんど汚れていない皿もぶち込むから、逆に皿を汚しているよ。小さな洗い物ぐらい、刺し場近くのシンクで洗えよ。いくら皿洗いがいるからって、横着して全部任せるなよ、こっちも大変なんだから。
おいおい、ホールの女の子、割り箸ぐらいまとめて片付けてくれよ。なんでわざわざ焚き火を起こす様に、円を描いて並べてあるんだ。これ絶対いやがらせだよな? 洗い場にいる新人の男が一人であたふたしてるからって、わざと困らせようってんだな? 性格悪いよほんと。
いてっ、また爪楊枝が刺さったよ。大葉の陰に隠れてちゃ全然わからねえよ。客もこんな変なところに爪楊枝を置くなよな、あっ、だれか変なおっさんが使ったりしたのか? 絶対刺さったところが化膿するよ、おっさんの歯についた雑菌がしみついているんだぜ、ほんときたねえよ。
まったく自分でも嫌になる手の大きさと力だよ、どうひいきしても皿洗いに適してねえよな。こういう仕事はもっと小さな手で、あまり力のない人がやるもんだ。もっと几帳面で、素早い動きができるようなさあ、おれなんか図体でかいくせに素早いから、むしろ魚を捕まえる方が適してるだろうな。ああ壊してえ、この皿を洗うより、全部割るほうがおれはうまくできるぜ、畜生。
だからさあ、もっときれいに片付けて、『よろしくおねがいします』の一声くれよな、中途半端にかわいいから、顔面をぶん殴りたくなるぜ、ほんと。ひでえ、トレンチの中に醤油さしを全部こぼしてるじゃん、慌てるにもほどがあるよ。おい、カクテルグラスが割れたままじゃんかよ、これじゃあ、気をつけて取り除かないとシンクにガラスの破片が入っちまうよ。
なんだよこれ、本気の帆船じゃん! 刺身に船の器はわかるけどよ、もっと簡単な作りの船でいいだろ、なんでこんなに部品が分かれるんだ? いくら船の所々に食材を細工したくても、これじゃあ食べる人だって嫌気がさしちまうよ。おれなんかプラモデル作るの苦手だから、説明書がなきゃ、こんな複雑な船二度と組み立てられねえよ。ああ面倒くせえ、いいや、もう知らねえ。
やべえ、全然洗えてねえ。洗い物を持ってくる速度にちっとも追いつかねえ。そもそも洗浄器がない時点でやってられねえよ。こんな量の食器を全部手洗いで済ませる時点で、すでにこの店は間違っているんだよ。
下谷君もひでえよな、『今日はぼくの動きを見て、一生懸命ついてくるんだ。わかった?』なんて言いながら、三十分もしねえで消えちまうんだもん、偉そう話ばかりして、全然動き見せてくれねえじゃん。無理に早く洗おうと調子づいて、グラスを割って、血を流しながらいなくなるんじゃ、むしろダメな動きを見せただけだよ。ほんと恨むよ。
ああうるせえ! またあの板前が愚痴々々言ってるぜ、ほんと人格曲がっているよな、新人が困っているんだから、いびるんじゃなくて助けろよ。この皿の量見れば、どれだけ困っているかわかるだろ? おれだって一生懸命働いているんだよ。ああうるせえな、こういう奴にかぎって家庭の立場が弱くて、友達も少ないんだぜ。ほんと困るよ。
ああやっちまった。つい頭に血が上ったせいで、大ジョッキが破裂しちまった。弱っちいジョッキグラスだよな、大ジョッキのくせに簡単に割れるなよ。おいおい、破片がシンクに飛び散ってんじゃん、これじゃ一度湯を切らなきゃあぶねえよ。
面倒くせえ、超めんどうくせえ、これでまた時間が食われるよ。絶望するほど皿が溜まっているのに、洗うのを中断してガラスの破片を取り除かなきゃ、はああ、大きな地震でも起きて、皿を全部割ってくれないかな。おれも下谷君みたいに手首をすぱっと切って、病院にでも逃げようかな。
おい! ホールの福耳女! だから『よろしくお願いします』と声をかけて、人の顔を見てから下げた食器を置けよ。ほんと腹が立つぜ。ああまただよ、今度は七味唐辛子をぶちまけてやがる!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます