洗顔
わたしだって、そんな事言うつもりじゃなかった。
仕事後でみんな疲れていたし、一週間の労働を乗り切った充実感で、やっぱり浮かれている部分もあった。飲みの場での仕事の愚痴はいつものお決まりだったし、特に週末が激しくなるのもわかっていた。それに、わたしも進んで会話に参加して、日頃の鬱憤を吐き出していた。
別に、良い格好をしたいとか、正義感振りたいわけじゃなかった。松島さんはそんなことを言って、わたしの発言を茶化して笑ったけど、そういう振る舞いをする気もないし、したいと思ったこともない。人の真剣を笑いの種にするんだから、悪気はなくても、松島さんも人が悪い。
きっと、飲みの場を盛り上げるだけの、小さな余興ぐらいにしか思われてないんだ。日頃から人を茶化す事ばかり気にしているから、松島さんにとったら格好の餌だったんだ。いつもは笑う立場にいるはずのわたしが、入社したばかりの女社員に対して、あんなにむきになったんだもの、おかしかったはずだ。
悔しい! 小泉部長の悪口を言われたことも、松島さんにからかわれたことも、同僚に指を差されて笑いものにされたことも。それでもまだまし、あんな仕事経験の浅い女に、仕事場の内情も働く上司の立場も知らない女に、自分の不手際を棚に上げて、人を悪く言うなんて。それも、そんなにかわいい顔していないくせに、若いってだけの理由で、課内のみんなにちやほやれされるから、媚びるような仕草をするんだ。ほんと演技のお上手な性悪女だこと。
ああいう女は打算が身についているんだ。小さい頃から、ああやって人の同情を惹くことばかり考えてきたから、すっかり体に染みついているんだ。だから同情を惹かなくていいところでも、無遠慮に同情を惹こうとするんだ。厚かましい。
そんな小細工に引っかかる男もそうだけど、自分の意見なんかとっくに汚物入れに捨てた、人の考えに同調するしか出来ない女にも腹が立つ。自分の立場ばかり気にしちゃって、普段はあんなに表情を変えて仲良く話すのに、ちょっと場所が変われば平気で人の事を笑いものにする。きっと、人間らしい誠実な心なんて持っていないんだ。
わたしは間違っていない。間違っていないからこそ、悔しさがひとしお募って仕方がない。みんななんで平気で笑えるんだろう? 日頃はわたしも笑っていたんだろうな、ああやって実際に味わったから、今になって気がついたんだろう。なんて鈍感な心の持ち主だったんだろう、身をよじる悔しさに、突き刺す恥ずかしさも涌いてくる。
今頃会社のみんなは、浮ついた酒の席に残ったまま、身勝手に怒った女の話を肴に、人の気も知れない嘲りを交わしているんだろう。それで、あの女が変にわたしのことをかばったりするんだろう。ほんと腹が立つ。
別に小泉部長が好きなわけじゃない。話はねちっこいし、話す声は小さくて聞き取りにくいし、説明べたで男らしさが感じられない。自分勝手に仕事の段取りを変えるし、とても一人ではこなせない量の仕事を押しつけるし、鼻の黒子は汚く膨らんでいて、見るだけで気分が悪くなる。理想の男性像からかけ離れた、一緒に並んで歩くのも恥ずかしくなる人だ。
でもあの人は仕事を愛している。要領悪く、決して仕事の出来るほうではないけど、一生懸命に働いているのを感じられる。
そんな人を酒の席で悪く言われて、黙ってなんかいられない。いつもは一緒になって馬鹿にしていたかもしれないけど、今日はなんだかおかしい。あの女の軽々しい発言が妙に心をかき乱す。お酒の飲みすぎかもしれない。会社じゃあんな事絶対に言わない。酒の席でも冷静を装って、気取った振る舞いをして、むしろみんなに影響を与えていたのに。
なんであんな軽率な発言をしてしまったんだろう? あの時は無性に腹が立って、何も考えずに怒りをまくしたててしまった。それに今も腹立たしさは残っている。でも、言わなきゃ良かった。あんな目に合うなら、こんなに後悔するなら、言わなきゃ良かった。あんな小泉部長の為に、わたしの立場を揺るがすような羽目を犯すなんて、ほんとどうかしている。わたしらしくない、やっぱりお酒のせいだ。
会社のみんなのことなんか考えたくない。小泉部長の黒子なんてほんといやだ。週末だというのに、なんでこんな憂鬱な夜を過ごさなきゃならないの? 友人と一緒に一週間のストレスを晴らすつもりだったのに、なんで一人寂しく家路に向かって歩かなきゃならないの? 見慣れた電信柱の灯りが、仕事帰りの夜みたい。ほんと腹立つ。
全部あの女のせいだ。あの女が、無神経に小泉部長を悪く言うからだ。じゃなきゃわたしも今頃、陽気に笑って酒を飲み交わし、次の場所へと移動して、浮かれた夜の街に馴染んでいただろうに。ちょっとばかり乱れた上着を直して、気持ちを新たに同僚と笑い合っているだろうに。あの女、それと小泉部長のせいだ。そう、小泉部長のせいだ。もう、なんで小泉部長なの?
マンションの階段を苛立たしく駆け上がり、肩に提げる鞄から部屋の鍵を取り出した。あたしの部屋はこ洒落ていたのに、今では追いつけない生活に汚されている。照明は明るく、壁も優しい色だけど、なんか空気がよどんでいる。こんな時間に部屋なんかに帰ってきたくない。
鞄をボーリング玉のように投げ、上着を脱いでその辺に放った。洗面所に入ってまず鏡を見た。なんてぶさいくな顔なんだろう、もう死んでしまいたい。
髪を手早くほどき、無造作に一つに結わえた。化粧を落すのなんか面倒くさい。冷たい水を勢いよく流し、両手ですくって火照った顔にあてた。肌を通して、想いにすっと染みる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます