最後部座席

 ダミリンは女、シペプは男、二人は薄汚れたコンクリートに尻をつけて、互いに向き合って口づけを交わしていた。バスステーション内には陽が射し込まず、酸素は薄く、排気ガスの臭いが充満している。出発のバスを待つ人々には、荷物を足元に置いて静かに待つもいれば、小さな子供を相手に笑うもいる。不満げに周りに目を向けるもいれば、肌の色の違う三人が淡々と話すのもある。  


 チュッと、小さく息を吸い込んで唇の吸いつく音が聞こえる。切れのある乾いた音でありながら、どこか水気を含んで粘り気がある。立ちながらバスを待つ人々の中、ダミリンとシペブだけが座り込んでいた。


 ダミリンが両手でシペプの頬を押さえて、巻き込むように口づけをする。シペプは慣れた様に口づけを吸い込み、ダミリンの背中を滑るようやたらにさする。


 長い口づけが一休みすると、顔を寄せて頬の肉を静かにすり合わせた。二人の腕は互いの背中にまわり、接地面をすこしでも逃さぬように手の平を広げて、虫のような動きをする。ちょっとでも右の頬に飽きると、我慢することなく左の頬に変え、背中を触る腕は腰のあたりや腋の下に移動することもあった。


 頬のなすりつけ合いが終わると、次は額のぶつけ合いをした。疑うことのない甘い笑みを浮かべて、白眼に浮かぶ血管の一本一本を数えるよう互いの眼を見つめ合う。シペプは力を抜いてダミリンの頭を抱え、ダミリンは首の力を抜いて瞳に意識を集中させる。手はシペプの太腿あたりを這いずりまわっている。


 ようやく人々の待つバスが到着した。慌しく群がり始めた人々に気がつき、二人は十度口づけを交わしてから、それぞれ重い荷物を手に取る。空いた方の手で互いの尻のあたりに手をまわす。ダミリンは瞼を大袈裟に動かしてから、シペプの口に四度口づけして、重い荷物を手渡す。シペプが三度口づけすると、ダミリンは大型バスの乗車口に移動して扇型の列に加わった。シペプは重そうに体を動かして、バスの横腹に移動した。


 シペプがバスに乗り込むと、ダミリンは最後部座席の窓側に陣取っていた。シペプは五秒間の口づけを一度と、小刻みを四度、唇に吸いつくのを一度して、席に座った。最後部の座席は五人席、ダミリンから数えて、シペプ、長身長髪眼鏡の男、若白髪の青年、頭の禿げた肥えた男が座っている。


 一人は小さなカメラを手に携えて窓の外に目を向け、一人は目の前の座席に目を据えたままじっと動かず、一人は顎を手で支えてうなだれている。一人は一人の頭をつかんで、錠の下りない鍵を回すように、やたらに口づけをしている。一人は一人のわき腹あたりに両手をあてて、腋の下の間をさすりながら唾液を交換している。


 バスが出発するまでに三十分かかった。その間にダミリンとシペプの口づけした回数は、大中小合わせて、計百四十六回、その内一番長いのは七分三十二秒間続いた。


 満席のバスの車内は人々の会話でほどよく埋められていた。ダミリンとシペプは互いの側面を密着させ、腕を絡ませて会話しつつ、箸休めのごとく口づけする。最後部から二列目の席は肌の黒い人達に占められ、フライドポテトを食べながら陽気に会話している。後ろ三人の男は一言も口を利かず、笑いの耐えない話し声と耳にへばりつく口づけの音を耳に、固まったそれぞれの表情を浮かべている。


 一時間もするとダミリンは小型のノートパソコンを開いて、なにやら画像ファイルを整理し始めた。シペプは小さな文庫本を開いて文字に集中した。それでも水面顔出すハイギョさながら、三分に一度は長い口づけを交わす。男三人は体制をほとんど崩さず、小さな座席の上に変わらず収まっている。肌の黒い人達の会話の勢いもまるで変わらない。


 三十分もすると、ダミリンの腋の下にはシペプの顔面がうずくまった。背中より胸に近い肉の盛りあがりに、呼吸のしづらさを構うことなく、赤子のように無遠慮に押しつけている。腕はややたるんだ腹と腰を回っている。ダミリンは嫌な顔一つせずにパソコン作業を続ける。真ん中の席に座る長髪の男は、すこし前から眉間に皺を寄せたままの顔でいる。


 三十分も過ぎない内にシペプは目を覚まし、目覚めの長い口づけを交わす。ちょうどダミリンのパソコン作業も終了したので、二人は狭い座席内で体を向き合わせた。シペプが上半身をひねり、ダミリンは靴を脱いで、シペプの太腿の上に細くも太くもない脚を乗せる。それから糸蚯蚓のようにくねらせて絡み合い、熱のこもったしつこい口づけをした。長髪の男は横をちらちら気にするようになり、まるで関心を寄せていなかった若白髪の青年も、表情変えずに何度か二人の姿を確認し、肥えた禿げ頭の男も興味深そうに二人を見る。肌の黒い人達はまるで変わらない会話を続けている。そんな状態が約一時間続いた。


 シペプの太腿の上に今度はダミリンの頭が乗った。膝を曲げて体は卵型になり、狭い座席で、寝心地悪そうに横になる。シペプは左手に本を開き、空いている右手はダミリンの柔らかい横腹を這う。ちらちら視線を注いでいた長髪眼鏡の男も、痛めそうなほど首を下に曲げてどうにか寝入っている。若白髪の男は変わらず、やけに眼をぎらつかせて前を見たままだ。肥えた男は窓に禿げた頭を持たせて、気持ち良さそうに眠っている。肌の黒い人達はビールを飲みだしていた。


 ふとすると、若白髪の耳に聴きなれない調子の声が聞こえた。横を見ると、シペプが本を朗読し、ダミリンが甘えた表情で見上げている。


 三十分もすると外は暗くなり始め、街灯が目立つようになった。暗闇の深くなるにつれて、車内の会話は少なくなり、ダミリンとシペプの絡み方もねちっこくなる。目を覚ました長身長髪の男も、苛立ちを投げるよう二人の姿に目をとばす。


 互いの唾液を循環させて、二人は手と口だけに神経を集中させていた。一分間に行う口づけの回数も、長さも、密度も、太陽が顔を出していた時に比べて格段に深みを増していた。チュッの音も、愛らしさよりも汁っぽさが目立つ。


 バスはブリュッセルに到着した。多くの乗客が安堵の息を漏らし、狭苦しい空間に立ち上がり、地を歩く心地好さ欲しさに素早く降車する。肌の黒い人達が降り、長身長髪眼鏡の男が降り、肥えた禿げ頭が降り、満席だった車内にはわずか十人ばかりの人が残った。


 様相変えたバスは出発した。若白髪の男は窓側に移り、ヘッドフォンをつけて外の景色だけを眺めた。最後部座席反対側では、広々とした空間と、線と色をぼかす闇にまぎれるダミリンとシペプが、溌剌と淫気を漂わせて絡み合っている。腫れあがる口づけの音は湧きあがる性のたぎり、這いずる手の動きは肉の同化を表している。


 窓ガラスに融けるように抱き合い、蛙の鳴くように愛撫の音を立てるも、しばらくすると普通の乗客のように横に並んで座る。狭く柔らかい座席に横になり、窮屈な空間をものともせずに密着して、蛆虫が這うよう重なった体を奇妙に伸縮させるも、やはりある程度すると、何事もなかったごとく横に並んできちんと座る。シペプが胡坐をかき、その上にダミリンが座り、背を胸にもたせて、首を曲げてねじれるように口づけし、首の付け根に指をかけ、頭に手を回して髪の毛をなでて、物欲しそうに頬をさすり、腹から胸にかけて肉の弾力を押し上げたり、混ぜ返したり、足の付け根をなぞり、太腿を引っ張って、今にも股間に手が伸びそうになるも、それ以上進展することなく普通の乗客の姿勢へと体勢を戻す。


 ブリュッセルを出発して約二時間、若白髪の青年は外を眺める以外に、たったの一度も二人へ眼を動かさなかった。だが、ふと視界の脇の怪しいシルエットに驚いて、思わず目を向けた。一人が座席にもたれかかり、もう一人がその上に馬乗りになっている。乗っているほうの黒い輪郭が、やたらゆっくりと、滑らかに腰を動かしている。窓の外には燈色が遠く、ぽつぽつと火に見える。


 若白髪は大変驚き、盗むように二人を確認した。シルエットは腰を動かしながら、座席に持たれかかっている上半身と重なった。馬乗りしているのが相手の首に両手を回している。頭から垂れる柔らかい線が見えるから、こっちが女だ、女が腰を動かしている。若白髪の青年は声を確認しようと、ヘッドフォンをさりげなくずらした。服の擦れる音と、湿った吸盤を思わせる聞き飽きた口づけの音、それから二人の笑い声? 喘ぎ声ではなく、笑い声だ。


 それから三十分もすると、やはり二人は、どこにでもいる乗客のようにちょこんと最後部座席に座り直した。勢いの衰えない口づけと、冷えた肌をさすり合うのを緩めることなく、長いバスの移動に疲れを見せずに笑い合う。


 間もなくバスはケルンに到着した。

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