配達
重幸は高校一年生になったばかりの十六歳だ。誕生日が四月の十二日とあって、多くの同級生より先に原動機付自転車の免許を取る事が出来た。中学生の時、風貌乱れた同級生が盗んだスクーターを乗り回していたのを、川原でラジコン飛行機を飛ばしていた重幸がたまたま見かけて、それ以来スクーターの運転に憧れるようになった。スクーターを運転出来ることは、大人の男性へ一歩近づくことであり、かすかな悪の匂いを持つことになると勘違いしていた。
わざわざ誕生日に学校を休んで免許を取りに行き、その日の夕方には、触ればかぶれてしまいそうな紫色のスクーターを購入した。アルバイトをして返済する約束で、何とか親に頼み込み代金を前借した。
それとなく締まった心地好い寒さに、花の香りが揺れる春の夕暮れ、てかてかに光る赤いヘルメットをかぶり、物干し竿を刺したように背筋を伸ばして、川原道を低速で走りながら重幸は雄叫びをあげた。
さっそく重幸はアルバイトを探した。スクーターを買うと決めた時からやりたい仕事が決まっていたので、ほとんど迷うことはなかった。バイクに乗りながら働けるといえば、配達の仕事だ。ピザの配達にするかラーメンの配達にするか、それとも馴染みのないインド料理を配達するか、特に料理の好みはなかったが、乗りたいバイクは幾つかあった。流れるようなラインが格好良い、屋根のついた現代的なピザ屋のスクーターは一般受けする魅力があり、ボディーがすかすかながら、スピード感のある黒いインド料理屋のスクーターも捨てがたく、赤い中華料理屋のスクーターもやたら派手でたまらない。
しかし重幸は寿司屋で働くことにした。スクーターでは味わうことのない技巧を要するギア付きバイク、古いスーパーカブこそ最も求める物だった。オイルの臭いを想起させる昭和の重みを備えたボディーに、ぶっきらぼうに料理を保護する鋼の出前機、それに渋いとしか思わせないくすんだ緑が色を飾る。重幸にとってスーパーカブは仕事人の乗り物であり、高校生臭さをかき消す社会のバイクだった。
ラーメン屋や蕎麦屋もスーパーカブを使っていたが、免許取れたての重幸にとって、汁物を運ぶことは難易度高く、器をこぼして客と店主に怒られる景色をどうしても思い浮かべてしまう。寿司もひっくり返すかもしれないが、汁がない分だけ心にゆとりが出来る。
四月の最後の週から重幸は働き出した。薄汚れた雑居ビルの四階部分に店があり、カウンターが八席と、畳の座敷部屋が三つ連なっているだけだ。宅配専門の寿司屋ではなく、一人の板前とその奥さん、あとは板前の母親が切り盛りする、地域ではある程度馴染みのある店だ。それでも客が食べに来ることはまったくなく、多くが出前で成り立っている。重幸は最初店に入った時、酢で湿気ったような薄暗い店内と、寿司桶が重なり伝票の散らばったカウンター席に、吐き気を催す汚れた不安を覚えた。
一日目は桶さげから始まった。異様に目玉の大きい、角刈りの板前から地図の見方を教わり、酢の匂いが染み込んだ薄手の半被を着て、出前機のぎしぎし揺れるスーパーカブを走らせた。幾度も心に描いたギアチェンジの動きは、実際に行うと予想だにしない強いエンジンブレーキを引き起こし、点火したねずみ花火を手に持つごとく重幸を慌てさせた。何度も道に迷って苦労したものの、宝探しをするほとばしる心持に、重幸の初日は期待に勝るものだった。
それから、暇な時間は皿洗いをして待ち、注文が入ったら配達に行き、ついでに桶を下げるようになった。最初は戸惑ったギアにも慣れ、どの程度のスピードにどのぐらいの坂道なら、いつギアを変えるべきかもなんとなくわかるようになった。大量の桶を出前機に載せて、エンジンを唸らせながら車の脇を抜ける、そんな半被姿の自分に重幸は度々酔いしれた。
忙しい五月の連休を乗り越え、重幸の配達技術は大幅に向上した。道に迷うことは何度もあった。注文していない寿司を届けたこともあった。雨に濡れた地面に滑って寿司をひっくり返してしまい、砂利のついた濡れた手で、必死にマグロの握りを並べ直したこともあった。柔らかい土の上にサイドスタンドを立てて、すこし離れた玄関前に桶を取りに行く間に、不安定なスーパーカブは倒れ、散歩する婆さんを潰しそうになったこともあった。それでも、なんとか仕事を無事にこなしていった。
方向音痴ながらも、繰り返し道を走ることによって、迷う回数は少なくなった。常に全力でアクセルをまわし、際のスピードを保ちつつ道を曲がり、赤信号に変わって三秒までなら平然と道を突っ切り、人がいなければためらいなく信号無視するようになった。下手くそな歌も大声で歌うようになった。
角刈りの板前にも気に入られた。仕事終わりには、刺身の切れ端を丼飯に載せた、具の多いまかないを頂いた。板前は仕事終わりになると必ず酒に酔い、顔を赤くして重幸に大人の雑談を聞かせた。奥さんを卑下して偉そうにする板前に、重幸は今まで見たことのない得体の知れない人間を見た。そもそもこの寿司屋の存在自体が、若い重幸の理解を超えた非日常な世界だった。
梅雨に入ると雨が多くなった。常連客をだいたい覚え、道にもほとんど迷うことはなくなった。スーパーカブの性能も把握し、ガソリンの切れるタイミングもおのずとわかり、給油するスタンドもパターン化された。下り坂のトップスピードは良いとして、上りの馬力の弱さに不満を覚えていた。乗り出した頃は楽しかったギアチェンジも、面倒臭いだけの作業になっていた。屋根のない裸の車体に、何度怒りを覚えただろうか。だらだら洗い物をしているほうが楽だと、次第に思うようになった。板前の愚痴の内容も同じ場所を回わっていると気づいた。
夏になると、スーパーカブに限界を感じるようになった。どう頑張っても、ピザ屋やインド料理屋の機能性に勝てない。いくらショートカットして信号無視したところで、乗り物の性能が変わらないことには、配達時間を縮めることは出来ないと重幸は悟った。
すると、配達の間にどれだけさぼれるか求めるようになった。今までの経験を活かして、配達にかかるであろう時間を割り出し、素早く寿司を届けると、余った時間で自分の好きな事をした。漫画を立ち読みし、友人に電話して、スピードクジを買った。運転中は覚えたばかりのタバコを吸い、飴を舐め、ガムを噛み、唾を吐いてアイスを食べた。特に暑い時期とあって、自動販売機のアイスが重幸の好物になり、仕事の間に必ず二回食べた。半被を着た若い配達員の間抜けな顔してアイスを食べる姿に、なんらも疑問を感じずに。
八月のある日、重幸が配達を終えて、ちょうどアイスを食べながら店に戻る途中、小さな商店の前で友人と出くわした。時間を潰す絶好の機会を見つけ、重幸は快活にスーパーカブを停めてその友人と話し始めた。左手に食べかけのアイスを持ち、右手にタバコを持ったまま、何の警戒もせずに話していると、ちょうど買い物の帰りらしい板前の母親が脇を通り過ぎた。重幸はぎょっとしたが、何くわぬ顔のまま友人と話し続けた。板前の母親は振り返ることをしなかったので、重幸は気がつかなかったのだと、都合の良い解釈をした。
少し不安に思いながら重幸が店に戻ると、板前が眼を血走らせながら近づいて来て、大声と共に思い切り重幸の顔面を殴りつけた。虚をつかれた重幸は言い訳する暇さえ与えられず、そのまま壁に叩きつけられて気を失った。
その日をもって重幸は寿司屋を辞めさせられ、代わりに、自慢のスクーターで歯医者へ通うようになった。
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