カラオケ
彼は所属する野球チームの関係者と一緒にカラオケに来た。輪の中には、同年代や少し歳の離れた仲間と共に、コーチや監督も混じっている。
ここ来る前に試合があったはずだ。テレビで観戦していたのか、それとも実際に参加していたのかはっきりしないが、関係者通路で搬入の車が出入りするのを見たのだから、よほど親しい所に彼はいたのだろう。一般の観客にはとても目にすることのない光景だった。注意を意味する赤い標識もたしかに見ていた。
大きなブラウン管モニターは部屋の高い位置に据えつけられ、室内には明るくも暗くもない蛍光灯が、安っぽい擬似の夜光を放っている。パーティールームのような広さであり、横に長い座席がやけに安っぽく、彼は窮屈に座り、チームメイトと一緒にモニターを眺めた。
現役時代は渋いキャラクターで通っていたピッチングコーチが、陽気に笑いながらも落ちつきのある調子で話しながら、リモコンを操作して曲を予約していく。理由はわからないが、何か喜ばしいことでもあったのだろう。
彼は歌うのが苦手だった。出来ることなら歌わずにやり過ごしたかった。しかしバックスクリーンのメンバー表を見るように、モニターには七番の打順で彼の名前がある。曲名は聞いたこともないが、彼だけに与える多くの意味を含んだ漢字が、ゴシック体ではっきりと記されている。
まず彼は七番という歌順に不満を覚えた。六番の男は小学校以来の知人であり、日頃から付きあいの多い友人でもある。自分の方が打力は上だと思いこんでいるので、彼の前を打つ友人が気に食わなかった。
カラオケは始まり、すぐに四番目に回ってきた。イントロが始まり、水商売風の不恰好なスーツの男がモニターに映し出されると、聞き覚えのある歌が流れた。茶色い髪の男が分厚い唇を開かせ、まぶしそうに顔を歪めてモニター内で歌うのを見ながら、彼は息を吐いて体の緊張を弛ませる。歌う人の歌唱力の是非ではなく、自分の知らない曲名でも、聞き覚えのある曲が流れるのだと安心した。
するとすぐに、五番目の曲名が青いモニター画面の端に記された。見たこともないアルファベットの曲名に、意識障害を起こしかねない真っ青な画面の色だ。それもなぜか彼の名前も一緒に記されている。五番目の曲なのに、いったいなぜだろう。チャンスでも回ってきたのか。
予期も出来ない唐突な事態に彼は驚き、ただ目を見張ってモニター画面を眺めるしかなかった。とにかく歌わなければならない。彼はふと、予約が消去されて順番が早くなったのだと思った。
彼は細い通路へ歩き出した。メトロへ続く地下道らしく、筒型の通りは奥行きが長く、不気味な静かさに包まれている。壁面はやけに色の強い橙のレンガに貼られ、壁の裏に隠れた無数の配線からもたらされる、焼けた銅と解けたゴムの臭いが充満し、天井は鳥肌を催させる銀色のタイルに埋められる。松かさのようにとげとげしく、まるで単一色の魚鱗にしか見えない。
人々は左側通行で黙々と歩いている。彼は背後から急かされる様に、足早に人々を抜かして行く。急ぐ理由は彼にもわからない。向かいから歩いてくる人を見ては、黙々と歩く人の列に割り込んで入り、通る人と服を擦れ交わしてやり過ごす。
人種と文化が入り混じっている。力士らしき出で立ちの黒人がいれば、モンゴルの民族衣装を着て歩く白人、古い西洋貴族らしい南洋の人種もいる。長い時をかけて区分された堰は壊れてしまい、すべてが混一してしまったようだ。
人々を不思議に思いながらも、彼は追い詰められるように先へと進んでいく。通路は突き当たり、左右へと別れる。彼は歩調を緩めずに右へと曲がった。
筒型の通りは渡り廊下のようになり、先の見えない通路に沿ってガラスのない窓枠が狭い間隔に続き、外の景色が広く覗ける。通路は高い位置に通っており、生い茂った色艶のよい木々の頭が、雲海のごとく外の底面を占めている。彼は歩を遅めて景色に目をやった。人々が一切見られない。
彼の目に、白いドーム型の建物が、異様な存在の象徴として映った。外は快晴らしく、輪郭を彫りこまれたように浮き出て、おそらく日光は射しているのだろうが、ドームにも緑の木々にも陽は当たっていない。それでも、ドームは体を白光させているかのように、空間を膨張して威圧している。
すると突然、おだやかに処理された耳心地の良いノイズ音が鳴り響き、その上を愛くるしい信号音が残響を残しながら、ブルースギターのように転がり出す。はっとして彼は立ち止まった。生き物のような信号音は勝手気ままに動き回るも、存在の小ささに、ノイズを飛び越えさえることをさせず、皿の上からはみ出ることは決してない。
深海からゆっくりと優しいリズムで、単純な旋律が浮かびあがってくる。エフェクトを撫でつけられ、ワンループごとに色彩をぼかされ、明調を変えてノイズと気持ちよく溶け合っていく。
リバーブをかけられた若い男の声が、原始意識に問いかけて歌い出し、短いフレーズをまじないさながら繰り返す。怖気をかもす祈祷でなく、曙光を眼窩の奥に見出す神々しさだ。
彼は瞬間笑顔を浮かべた。この曲を知っている、この曲を知っているのだ! 白いドームが音に震えて、あたりの空間は振動に占められる。鼓膜でなく細胞自身が音に喜び悶え、透写する音の波動が肉体を通過し、精神に直接訴えかけるようだ。男の声は五度高く歌いだし、上と下にかぶせられ、上は協和、下は不協和を、長い間延びした声でもって、神経症のビブラートを響かせながら、バンドネオンの胴のように広げていく。
軽快なギター音が曲の展開を変えたところで、彼は道を引き返して駆け出した。まばらに歩いている人々を颯爽と追い越して、先ほどの突き当りから見て、左手の道へと進む。
雄々しく叩かれる太いドラム音に合わせて、関節を失ったように首を振りながら、彼は上半身を前に突き出し、腕を大きく振って駆けていく。彼はマイクを欲しがった。この曲は日本語の曲ではない、たしかに英語の曲だ。彼は英語の曲なんか歌えない。カラオケに恐怖する。しかし確かにこの身に響いてくる、絶頂に向かう音のうねりを体感しては、叫びださずにはいられなかった。
曲が進んでいく。加速して駆ける彼と共に、曲は刻一刻と命を削り取られていく。密度のつまった旋律の動き、さりげなくオレンジの陽気を与えるギターのループ、雲間から差し込む光を駆け上っていくような解放された男の唸り声、一つ一つが彼の心を高潮させて、歌い出したい気持ちを煽り立てる。
表情を変えずに歩く異民が、静脈のような地下通路に無機質な足音を立てる中、彼一人がたぎる感情を足音に変えて駆けていく。段数の少ない階段を幾つか跳び越えて、ペースを落さずに、音の切れ端でも掴もうと必死にもがく。
ふとすると、緑色の人工芝が開けた。彼は一塁側のダグアウトに開かれた目を向けた。チームメイトはすでに誰もおらず、空間を流れていた曲も既に果てていた。広い球場にとってはあたり前の静寂が戻っていた。彼は一人取り残されたような心持ちを感じ、わびしい思いにさらされた。
曲は終わり、チームメイトもいない。ベンチの上にはチームメイトの名残らしい、なにやら書類らしき物が雑然と散らばっている。彼は近づいて一番上の書類を手に取った。それはルーズリーフを区分する、名の書かれていない付箋だった。
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