三時

 あの時計の針は曲がっている。なのに、秒針はスズメバチの尻から突き出た毒針のごとく、今後一切折れ曲がることはなさそうだ。根元は太く、先端は細く、水滴を保つことはとても出来そうにない。針の進みは合っているのだろうか? わからない。コンマ単位で狂っているのならわかりそうだが、きっかり三秒遅れで動いているとしたら、とてもじゃないが気づきそうにもない。せめて二秒、一秒、十秒? 時計の針は正確に進んでいるだろう。


 あの時計は黒檀だろうか? それともポリエチレンだろうか? 時計の針が曲がっている。横っ腹を鉄パイプで思い切りぶっ叩かれたように、赤く熱された鉄パイプで横っ腹を思い切りぶっ叩いたように、気味の悪いほど曲がっている。へこんでいる? いや、存分に曲がっている。


 昔、ある喫茶店に入ったことがある。排気ガスの煙る道路のちょうど目の前にその店があり、二階の窓からは仲良く立ち並ぶ百日紅が見えた。桃色に近い紅色の花がたわわに、たわわに、とてもたわわに、冷房の効いた二階席だった。その店でわたしは古ぼけた置時計を見た。何時を指し示していたか覚えていない。そもそも針が存在していたのかさえ定かではない。


 曲がった分針をずるそうに伸ばす時計など、とても信用なんかできるものか。コンマ一秒、二秒、三秒ずれていても、真っ直ぐ張った分針のほうが時針よりも短くても、真っ直ぐに指す分だけ信用におけるだろう。いくら正確に時刻を指し示したとしても、曲がった分針ではたまったものじゃない。


 時計が三時を指す。部屋の中央に飾られていた油彩の絵画から、赤の顔料が滲み出し、額縁を派手に汚してしまった。青の顔料は破裂して、フローリングに反吐をぶちまける。黄色は使われていない。


 転がっていた松脂が忙しなく走り出す。琥珀色からはほど遠い角張った松脂が、フローリングの上を分別のない赤ん坊のように暴れる。癇に触ったので思い切り蹴飛ばした。中指が折れてしまう。


 扇風機が宙を飛び始める。羽を持っているからといっていい気なものだ。細長い胴を水平にして、蜻蛉気取りかヘリコプター気取りか、悠々と宙を旋回している。それも間抜なことに、電源コードを垂らしいる。やはりこいつも癇にさわる。手元にあった赤い辞書を思い切り扇風機に投げつけた。


 突然カバーを外した扇風機の羽に巻き込まれ、辞書はずたずたにされる。ページの切れ端が部屋全体に飛び散り、おもわず目の中に入った。切れ端を急いで取り出すと、“御覧”の意味が書かれている。


 扇風機の平に張った尻をつかまえて、そのまま地面めがけて垂直に叩きつけた。しまったことに、丁度真下にはソファーが待ち構えていて、柔らかい弾力に跳ね返されてしまい、そのまま扇風機と一緒に窓から放り出されてしまった。ついつい思い切り力を入れすぎてしまった。


 しかしおかしなことに、松脂まで一緒に放り出されている。松脂が何故? 松脂を叩きつけていないはずだ。たしか、つま先で蹴り上げたような気がする。爪が割れて血が滲んでいるのだから、やはり蹴り上げたのだろう。痛みはないが妙に腹がたつ。あの絵画、赤い顔料を滲ませたのはあてつけだったのか? 


 松脂がわたしの踵にへばりつく。得意の粘着性を発揮しているのだろう、コバンザメよりも大胆に付着している。足を振ってみるがぴったり離れない。手を使って剥したいが、両手は扇風機を掴んでいる。こんな時はライターでも使って、蛭を剥がすように火であぶるのがよいだろう。いや、むしろバーナーで焼き焦がすぐらいがちょうど好いかもしれない。踵が焼けてしまうのが難点だが、我慢すれば問題ないだろう。


 問題は意気揚々と空を飛んでいる扇風機だ。この小さな扇風機にこれだけの力があると、誰が予想できるだろう。見れば、開発者だって涙を流して驚かずにはいられないだろう。


 以前、動画サイトにラジコンヘリコプターを操る者が投稿されていた。その人物は自然界では有り得ないほどの神がかった動きで、奇怪なヘリコプターを操縦していた。この扇風機も似たようなものだ。弱・中・強のスイッチをはるかに超えた、最強とでもいうべきスイッチが押されたように、指を突っ込む者を容赦なくスライスするほど、羽は凄まじい速度で回転している。風ではなく、火でも噴きそうな勢いだ。


 気がつけばはるか上空にいる。インターネットサイトの航空写真地図を生で見るように、下界がはるか下方に見えている。やはり生で見ると爽快だ。それにしても、扇風機の分際でどこまでわたしを運ぶのだろう。しかしよく見てみると、電源コードはとっくにコンセントを離れている。


 すると羽の回転が止んでしまった。重力に引っ張られたわたしと扇風機、それと松脂は、地上めがけて落下を始めた。


 どうしてこうなったのだろう? このまま扇風機が目を覚まさなければ、わたしは地上に潰れて死んでしまう。松脂などなんの期待も持てない。大変深刻な状況に陥っている。


 これも全部、あの時計の針が曲がっているからだ!

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