小品集
酒井小言
夜道
膝を抱えて河辺の砂浜に座り、悠々流れる大河を眺めて考えた。どうしよう、此処で夜明けを待つか? それとも歩いて宿へ向かうか? 我が身を傲然と焼きつけた太陽が、色を変えて河面を沈んでしまった。厚く棚引く雲が刻一刻と移りゆく中、小さいエンジン音を広大な景色に響かせて、渡した小舟が対岸のない薄闇の向こうへと戻っていく。ああ、憂愁とはこういう時を言うのだろう。
わたしは立ち上がり、尻を叩いて乾いた砂の上を歩き出した。埋もれるサンダルに砂が入り込み、昼の名残りが感じられる。焼けた砂は次第に熱を冷まし、ひっそりと夜に溶けていくのだろう。夜露が砂を濡らしてしまうだろう。
色のぼけた小舟の脇を抜けて、力強い木々の茂る細い道へ進んだ。もう少し早ければ影絵のように浮くだろうに、すでに木々の輪郭がぼやけて一体となっている。南国の植物から隙間が失せ、密林が濃い。空は深くなる。地面だけがかろうじて色を残している。
ポケットに水一本買うだけの紙幣が潜んでいる。ウエストポーチには夜に向かない本一冊と、数本のジョイントがあるだけだ。物怖じしない友人一人でも隣にいれば、どれだけ心強いだろう。たわいもない会話がどれほどの渇きを満たすだろう。ああ、それでもジョイントがある。不平を漏らすだけの人間を隣にするよりかは、随分と頼りになるだろう。
空が深くなる。無数の星が空を染め始める。萎れたジョイントの先端を歯で切り、火を点けた。熱い煙が肺に染み入る。幾度も繰り返されてきた動作が、ぼやけていく風景の中で、はっきりとわたしを感じさせる。
夜は深くなるが、太陽の名残もなかなか強いものだ。森はただの闇に変わり果てたものの、空の端々は染まりきらない。風に冷たさが加わり、湿った肌を乾かしていく。虫の音が訪れゆく夜のしじまに存在感を与える。ああ、静かだ。
河岸に居るのに耐えきれず歩き出したはいいが、宿は途方もなく遠い。それでもじっとしているよりましだ。歩けば誰かに会うかもしれない。もしかしたら、乗り物に乗せてもらえるかもしれない。
早朝から動かし続けている足はとっくにくたびれ、ところどころ筋が痛む。それでも歩みを止めるわけにはいかない。じっと待つなんて、怖くて出来やしない。気を散らせることが出来るなら、這いつくばってでも動く方がましだろう。
背の高い木々が密集して、道の両側を埋め尽くしている。ただ黒いだけの森が壁になって景色を塞ぐ。道はすでに色を失い、かろうじて周囲との境だけが残っている。夜が深くなる。空だけが明るい。月でもあればまだましだろうに。
遠い前方から強烈な光が発光した。車だろうか、バイクだろうか、闇夜の中の光は強烈すぎる。ゆっくりと強さを増して大きくなるにつれて、何時の間に二つに分かれている。小さかった光が闇夜を裂いて近づいてくる。無遠慮なエンジン音と共に、ヒステリックな速さで膨張する光が、熱にうなされて見る悪夢のように恐怖させる。なんて眩しいんだ。
つんざく音と閃光がわたしの脇を抜ける瞬間、トラックだと気がついた。強烈な風が排気ガスと共に吹き抜けると、即死したように眼がまるで見えない。視覚がついていけず眼が痛い。
純然たる闇が再びわたしを包み、幾重の虫の音と、空間を圧迫する密林、煌びやかな星々が戻ってきた。トラックに向かって、手を挙げることも出来なかった。
夜が深まっていく。空より下は漆黒に染まり、森も道も同一してしまった。足元もおぼろげで、眼が機能しているのか疑ってしまう。体の感覚だけが存在の確かを教えてくれるだけだ。ウエストポーチを探り、ジョイントに火を入れた。
頭は重くない。意識はあるが、景色がはっきりしないせいか、夜に溶けてしまったようだ。足の疲れも気にならない。体の感覚も、心同様に希薄になっているようだ。
朝方までに宿にたどり着けるだろうか? とても無理だろう。それなら歩き続ける意味はあるのか? ああ、止まっているよりましだ。夜の想像力がわたしを支配して、様々な恐怖を拵えてしまうだろう。歩いている今でさえ、気を許せば一気に陥りかねない。歩みが気分を高揚させて、どうにか持ち堪えている。
ヒッチハイクは出来そうか? ほとんど車が通らない。通っても先ほどのようでは、気づかれないだろう。それなら、朝方まで歩き続けることができるか? わからない。ただ今は、それほど苦に感じるどころか、得体の知れない心地好さがある。
ああ、静かだ。まわりには誰もおらず、圧倒的な孤独がある。今日の昼間の記憶も、もはや遠い記憶のようでなつかしい。自分が得たいの知れない別人のように思える。しかし悪くはない。寂しさを突き抜けた、なんとも懐かしい心地好さがある。懐かしい? いったい何が懐かしいんだ? どうもおかしいぞ。
深い夜が何か思い出させているのか? ははは、なにやら変なことを考えている。朝からの疲れ、夜という不可思議な状況、ジョイントの吸いすぎで頭が混乱しているのか? まあ、この闇夜を一人歩き続ければ、誰だって一寸はおかしくなるだろう。冷静でなんかいられやしない。
それにしても、何事にも尻込みして勇気に乏しいこのわたしが、一人見知らぬ異国の夜道を歩けるとは。これだけの気構えがあるなら、生きてきた日常も変わっていただろうに。今考えれば、恐怖を覚えるにしては笑ってしまう出来事ばかりだ。なんであれほど恐れていたのだろうか?
ああ、夜が深い。死ぬ直前が今のような心持なら、ずいぶん安らかに死んでいけるだろう。道は遠く見えず、周りも黒い壁に囲われている。助けてくれる人はどこにも見当たらず、心を落ち着かせる親しい人の言葉もない。
落ち着かせる言葉? はははははは、そんなものがなくても、今こうして落ち着いているじゃないか! 深い闇と満天の夜空が、鳴り止まない虫の音と、肌を触る心地好い風が、確と道を踏みしめる二本の足が、肺を温める渋いジョイントがあるなら! ああ、今日はなんて美しい夜だろう!
夜は深く、静かにわたしを包んでいる。見えぬ朝は遠く、何度も頭を掠める。
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