交通事故

 ドン!と音がしたので、振り返ると、軽自動車に撥ねられて、女性が路上に倒れていた。その軽自動車は、彼が所有する車と同メーカー同車種のものだった。

 軽とはいえ、すごい音がしたので、かなりのスピードが出ていたに違いない。

 すぐに運転手が車から降りてきて、女性のほうに駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか…?」

 女性は体付きのしっかりしたOL風の女で、着ている服から判断して、かなりの社会的位置にあることが想像できた。

 女性はピクリとも動かず、無言のまま路面に打っ伏していた。

 すぐに男はスマホを取り出して、どこいらに掛けまくった。救急車とかパトカーとか呼んでいるのだろう。

 それを見て、小森暗之助は「ひき逃げせずにちゃんと警察を呼ぶとは、なかなか感心な男もいることはいるもんなんだな」と嬉しくなった。


 女が突然ガバ!!と起き上がって絶叫した。

「どこ見て運転してんのよぉ!!」

「すんません…すんません…」男はペコペコと何度も頭を下げた。

「半端な慰謝料じゃ済ませないからね!!わかってんだろうなあ、おいっ!!」

 男は幾度も頭を下げるばかりだった。

 それよりも小森暗之助が驚いたのは、軽とはいえあれだけの音がしたのだから、相当のスピードが出ていたはずなのに、女の肉体には損傷のようなものが何ひとつ見られなかったことである。しかもショック状態にすらなっていないようなのである。いや、正確には最初の30秒間くらいはショック状態になっていたようであるのだが??

 彼は車のバンパーのあたりと女の体つきとを何度も力一杯見比べ、今度は我が身の身体感覚に全神経を集中させた。するともし我が身だったならば、どうしても損傷を受けざるを得なかったらしいという心臓のドキドキするような実感を得て、ズボンの社会の窓をゴリッ!!と握りしめずにはいられなかった。

(じ、時速は何㎞くらい出ていたのだろう?)

 ぜひとも彼はその質問を運転者に発しなければならないと思った。

 やがてパトカーと救急車が来たが、女はゴネてなかなか救急車に乗ろうとせず、なおも激高して男を怒鳴りつけていた。救急隊員も女がピンピンしているのを見て、無理に乗せるわけにもいかず、困った顔をしていた。

 やっと警察官が女をなだめてから救急車に乗せ、次に男にいろいろ質問を始めた。

 小森暗之助はいまがそのチャンスとばかり警察官のほうへ近づいて行った。

「どうしたんですか?いやあ、交通事故ですかぁ?何か女性はどうもなかったみたいですけど、大したスピードが出てなかったんでしょうね!いやあ、不幸中の幸いですよね!?」

「いや、それが時速は58㎞出ていたらしい。女性がどうもなかったのが、まったく不思議なくらいだよ」

(58㎞か!ふふふ、スピードは得たぞ!!)彼は内心飛び跳ねた。(次に大事なのが身体のどこにぶつかったかだ!ふふふ)

「女性が無傷でまったく良かったですねえ!よほど当たり場所が良かったんでしょうねえ!!」

「うん、ちょうどお尻にぶつかったようで、それが幸いしたらしい…」

(なるほど、お尻なら人体で一番肉厚の部分だし、どうもなかったというのもうなずける。それにしても、こう段取り良く得たい情報をすべて引き出すことができるとは!!)まだこの時点では例の計画は頭に浮かんでいなかったにもかかわらず、彼ははやる興奮を抑えることができなかった。


 それからしばらくの間、彼は自宅のガレージに入れてある自分の愛車の前に座り込んで、車のバンパーと自分の臀部をけたたましく見比べながら、いろいろと考察しているようだった。2週間ばかり経った時、彼の脳内構想が実を結んだのか、スマホを取り出してどこいらに電話をかけだした。

「もしもし、樋口紫?あのさあ、いますっげーぇ紅葉の見頃じゃん?ねえ、樋口紫ぃ今度の日曜日どこぞに紅葉狩りとやらにしゃれこまないか?もちろんボクの車でよ!」

 OKの返事だったので、その日を境に彼は充血しきった眼で鬱屈したいろいろなイメージトレーニングに励んだ。なぜなら、彼女は軽量で細っそりいてはいるものの、空手の有段者であるからだ。空手の有段者・・・格闘技経験者・・・こいつはすこぶるタフだぞぉ!!

(こいつはすごいぞぉ!)

(これならタフだぞぉ!)

 小森暗之助は、樋口紫の臀部のあたりと例のOLの臀部のあたりとを比較検討しながら、ライオンのような声で絶叫し続け、紅葉狩りドライブまでの日々を過ごした。もう胸が一杯になった。


 ドライブ当日、助手席に座る樋口紫のスリムでコンパクトな臀部を「はしゅ~ふっ、はしゅ~ふっ」と息を吐きながら見ては「この臀部がすごいのですから」「この臀部がタフなんですから」と心の中で呟きながら、軽やかな気持ちで運転していた。

「うふふ・・・樋口紫ぃ、大丈夫なんだって!!」突然彼は漫才コンビが相方に語りかけるような茶目っ気たっぷりの口調で切り出した。

「大丈夫って、何が?」

「うふふ・・・あのさあ、もう全然平気なんだから!」そして彼は突如不自然な真顔になって本題を切り出した。

「テレビで見たんだよ。テレビのバラエティで!交通事故の専門家とか人体工学の学者とかが集まって、人体は時速58㎞で向かってくる軽自動車がどこにぶつかれば、びくともしないか?って番組。するとテレビで見たんだけど、驚いたことに後ろからお尻にぶつかればまったく全然平気だってさ。テレビで見たんだけど、その証拠に3人の女性が実験台になって、お尻に時速58㎞で走る軽をぶつけてみたところ、3人ともまったくどうもなかったんだよっ!!!テレビで見たんだけど、まったくすごいよねえ!!!」

「まあ本当なの?人体って意外と頑丈にできてるのね。それはすごいわ!!」

「うん本当だよ、全然平気!!キミはどうかなぁ?ねえ樋口紫、キミはどうかなぁ?」

「それが本当なら、あたしだって大丈夫でしょうよ」

「ははそうだよねえ、それが本当ならキミだって大丈夫だよねえっ!!ねえ、ちょっとやってみない?キミは格闘技やっててふつーの女より頑丈だし。テレビでやってたから、テレビで見たから、キミならもうすっかり大丈夫だよねえへへへへへぇぇーーーーーーーん!!!」

「興奮しすぎだぞ。小森暗之助!いいから、ここで後ろ向きに立っているから、後ろから車ぶつけてみてよ!」

「いくぞぉ~!!」小森暗之助は樋口紫が降りた地点から100メートルばかり車を走らせると、Uターンして速度を調整しながら、ちょうど58㎞になったくらいの感じで車を彼女のお尻にぶつけた。

 ドン!とちょうど彼が3週間ばかり前に聞いた時と同じ音がした。

 彼女は車が停車して位置から5メートルばかり離れた場所まで吹っ飛んで、そこにうっ伏していた。ピクリとも動かなかった。動かないのはちょうどあの時のOLとまったく同じだ!彼は晴れやかな気持ちで駆け寄って、彼女を見下ろした。

「お~うい、うふふ…まだかなかな~あ?お~うい、そろそろですよ~、うふふ…」

 彼女はピクリとも動かなかった。

「あれっ!?まだなのかな~あれっ?お~うい、時間ですよ~お、うふふ…」

 OLが起き上がったと思われる時間はとっくに過ぎているはずだが、彼女はピクリとも動かなかった。

「………」

「あれっ!!お~うい」

「………」

「あれっ!!お~うい」

「………」

 彼は無言になったり声を掛けたりしながら、次第に全身から力が抜けていくのを抑えることができなかった。


「おいっこらっ!!そこで何してるんだ!?」

 車のブレーキの音がして、男の荒々しい声がした。

「あっ!!あんたあの時の!」

 振り返ると彼の愛車と同型の軽自動車が止まっていて、例のOLを撥ねた男が立っていた。

「えっ!?これはどういうことなんだ?どうしてあの時とそっくり同じ状況なんだ、えっ!?」

「………」

「さあ、答えろ!!!」

「あ~う゛~~う゛~くぇ~~っ!!あっ、う゛ぁ~~~っ!!」

 本能的に彼は知能障害者の真似をして意味不明の言葉を喚いた。

 女の胸元に屈み込んで容態を見ていた男は、突然彼を睨み付けて絶叫した。

「心臓が動いてないぞ!!おい、死んでるじゃないか!!おい、おいっ!!」

「あ~う゛~~う゛~ほくろえ~~ん!!う゛ぁっ、はっぷきゅう゛ぁ~~~っ!!!」

「警察には電話したのか?救急車は呼んだのか?えっ!!」

「はぷきっしゅ、すとろまえん、ぺにしりん、う゛ぁっ、はっぷきゅう゛ぇぇぇぇ~~~ん!!!」

「この間とそっくり同じなのは、なぜだっ!?」

 彼はひたすら馬鹿の真似をするしかなかった。


 やがて救急車とパトカーが着た。

 小森暗之助は警察官の質問には一切答えず、ひたすら、

「ぶんどう、ぶんどう、ぶぶんどぉーーーん!!めろぷっしゅ~~ん、なやまん、なやまん、ぁ~~~ぷう~~~!!」

と奇声を発するばかりだった。

 男は彼が数日前に自分が起こした交通事故を目撃したこと。この事故はその時と状況がまったく同じであること。また彼がやけに熱心に出ていた時速と車がぶつかった身体部位を聞いていたことなどをペラペラと警官に喋っていた。小森暗之助の目から涙が出た…。


 樋口紫は車がぶつかった時のショックのために心肺停止を起こしたらしかった。

 彼はすぐに逮捕され、これは単なる事故ではなく、故意の疑いもあるということで、罪状は業務上過失致死罪から殺人罪へと切り替わった。

 小森暗之助は取り調べの警官とも弁護士ともまったく口をきかず、ひたすら、

「ああ~むん、ふしゅる、しゅるしゅる、ぷしゅるしゅる、げっけーかんのばはむぅ~~~と!!!」

 と、奇声を発するばかりだった。それは心神喪失による責任能力逃れのためというよりも、人格が崩壊してしまうくらい恥ずかしい例の内的世界をごまかずための一世一代の演技であった。

 そこで彼が一番心配していたのは、この事件がマスコミに大々的に報じられて、目撃した事故とそっくり同じ状況を作っての殺人っていかなる動機によるものなのか?を識者たちにしつこく分析されることであった。

 案の定、弁護士から「いまお茶の間ではキミの事件が毎日取り上げられているよ。ふふふそして学者とか犯罪心理の専門家とか作家とかが、ああでもないこうでもない、と異常に執拗にキミの起こした事件について地の果てまでを追い込む勢いで、ふふふ狂ったように分析しているところなんだよ、うふふぅ~!」を聞いたときには、「ヴっヴヴヴ、はひゃぁ~~~~ん!!ヴるっヴるっ、げすとりを~~~~~ん!!!」と奇声を発しながら、生きた心地がせず自暴自棄になった。

 独房の中で彼は毎日「どうか真の動機がバレませんように!!」と祈りながら、一方で樋口紫が死んだことに合点がいかない節もあるのか、「格闘技だよ。空手だって……どうして?どうして?タフなのにぃ~はひやあああ~~~なんでぇーーーっ!!!」と、自分の股間をめちゃくちゃ弄り回さずにはいられなかった。

 そんな時看守は、奇声ばかりでなく独房の中では意味の通った日本語を呟くこともあるということを、日誌に綴るのだった。

 ある日独房が一日中静かなので、看守が不審に思って中に入ってみると、衰弱死した小森暗之介の遺体が発見された。とても臭い匂いがして看守は鼻をつまんだ。

 医者によると、ズボンにおびただしい量の精液が付着していたことから、腎虚による衰弱死と診断された。立ち会った者たちの証言によると、彼の死に顔はとても切ないそうであったことが印象に残ったという。

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