二階から目薬

@YAMAYO

二階から目薬

二階から目薬


【読み】

 にかいから―めぐすり


【意味】

 物事が思うようにいかず、もどかしいさま。また、回りくどくて効果が得られないことのたとえ。


              ☆★☆★☆


 「ほ~らよっっと!」


 それはそれは柔らかな放物線だった。


 突き抜けるような青空をなぞるように。

  恨めしい真夏の太陽に挑むように。

   ポツポツと浮かんだ浮雲をさらうように。


 彼女の手から放られたその小さな物体はゆっくりと弧を描き、されど真っすぐに俺をめがけて落ちてくる。


「は?」


 俺はその時、一体どんな顔をしていただろう?

 

 きっと驚きで目を見開いていただろう。

  あるいは突然の出来事にあんぐりと口を開いていたりしたんだろう。

 

 時間の流れが年老いた亀の歩みくらいひどく鈍重に感じられたような気もする。

  逆に走馬燈が猛った競走馬並みの健脚で駆け巡っていったような気もする。


 ……まぁ、なんにせよ、だ。


 ゆっくりと流れいく景色の中で視界に映り込んだのは、俺の間抜け面を見てニヤニヤとする彼女の憎たらしい顔だったし。

 

 走馬燈として蘇った幾つかの記憶の中の大半を占めたのも、やっぱり彼女の笑顔だった。


              ☆★☆★☆


 「どうすればいいと思う?」


 「は?」


 時は日曜、場所は玄関。


 一週間の激務による蓄積疲労を昼過ぎまで貪った惰眠で帳消しにしようと木曜日あたりから固く心に誓っていた俺の思惑を、午前六時を回るか回らないかという段階で早々に粉砕せしめた女がドアを開けるなりそう言った。


 主語だ述語だがない云々以前に、脈略がない。


 いや、というよりもコイツのことだから思いつくまま喋っているだけで計略も考えも初めからないんだろう。


 ないついでに言わせてもらえば、日曜日の穏やかな朝、安普請のマンションの呼び鈴をあんな風に連打すれば隣近所さんにご迷惑をおかけすることになるだろうという配慮も遠慮も思慮もなければ常識だってない。


 服装だって流行りでもなければサイズも微妙に合ってない……そもそも俺の部屋から勝手に持って行ったまま返す気も色気も袖もないTシャツ姿。


 「…………」


 ここまで言えばわかるだろうけれど、毎日を限りなくブラックに近いグレーな会社と、ホワイトなようでどこまでもブラックに見えてしょうがない社会の循環のために身を粉にしている勤労青年に対する思いやりなど、もちろん一かけらもこの女にあるわけがなかった。


 「ちょっと聞いてる?」


 「あ、ああ……」


 「何?寝ぼけてるの?」


 「ああ……」


 「『ああ』しか言えない機械なの?なっちゃったの?グレー、グレーと自分に言い聞かせなければとてもじゃないけど正気を保っていられないディープブラックな会社に辞表を出す度胸がない代わりについに人間でいることを諦めちゃったの?」


 「……ああ」


 「ふーん。でもまぁ安心なさいな。アンタが機械の体を手に入れようが、大半を眠って過ごす非生産的な日曜日が唯一の娯楽となりつつある毎日に魂をすり減らしながらそれでも人であることに無様に縋り付いていようが、この絶世の美女がアンタの幼馴染であるという現実に何ら変わりはないんだから。どう?嬉しいでしょ?」


 「……ああ」


 「とにかく部屋に上がらせて。まだ朝も早いってのに暑いったらありゃしない。階段昇っただけでもう汗かいちゃった。……ああ、そうだ。この前置いていった高いアイス、まだちゃんと冷凍庫に入ってる?私はそれ食べながら扇風機で涼んでるから、その間に顔でも洗ってシャッキリしなさい。それから話、ちゃんと聞きなさいよね」


 「…………」


 彼女がのべつ捲し立てた中身のない言葉の羅列は、寝起きの耳から入り込んでそのまま覚醒しきらない俺の頭をフリーズさせるには十分過ぎる殺傷力を持っていた。


 「ところでディープブラックってフツーに競走馬にいそうよね?そこそこ勝ってからまずまず優良な種馬としてなかなかな余生をのほほんと過ごしそうな」


 「…………」


 もはや『ああ』という言葉さえ失くしてしまった俺は、ただズレ落ちそうな自分の眼鏡を指で直すだけの機械と化していた。


                ☆★☆★☆


 俺たちの関係を表す言葉として『幼馴染』以外、他に何があるというのだろう。


 むしろ俺と彼女が幼い時からの馴染みだったということである日新語として誕生したんじゃないかと思うくらい、俺たちはどこまでも『幼馴染』だった。


 かたや上場企業の社長令嬢、かたや質実剛健な公務員の次男坊。


 あまり接点のなさそうな互いの出自ではあったが、そもそも両親自体も幼馴染同士で、家もごくごく近所。


 誕生日こそ彼女の方が一日早けれど、同じ病院の同じくらいの時刻、こんな時まで仲良しな母二人が産気づき、かたや午後11:55に女児を、かたや翌午前0:05に男児を無事出産したことで俺たちはこの世に生を受けた。


 物心がつく前も後も、俺と彼女はいつも一緒だった。


 どちらも結局一人っ子のまま成人を迎えたとはいえ、どちらかが大抵どちらかの家にいたことで時に俺は彼女のことを姉のようにも妹のようにも感じ、時に彼女は俺のことを兄のようにも弟のようにも感じて育った。


 互いにとって初めて出来た友達であり、悪友であり、本気で競い合うことのできるライバルだった。


 互いにとって初めて性差を感じさせられた相手であり、性別など越えた次元で親愛を抱けた対等な相手でもあった。


 たぶん、互いに初恋の相手であったりもしたんだろう。


 随分と曖昧な表現になってしまうけれど、あまりにも近すぎた距離感のせいで、当時は自分の恋心に俺たちはまったく気が付かなかった。


 恋愛の対象というよりも、やっぱり気の置けない幼馴染という色の方が濃く出すぎていたのだ。


 あるいは俺の方が先に日に日に女らしくなっていく彼女の身体的変化を意識し始めたかもしれない。


 あるいは彼女の方が先に俺の段々と低くなる声や高くなる身長に心をざわつかせていたかもしれない。


 もしかしたらその期間が互いに重なっていたかもしれないし、どちらかがそれを『恋』なのだと明確に自覚していたなら俺たちの関係は今とはもう少しだけ違っていたかもしれない。


 ……いや、よそう。


 あったかもしれない過去の可能性について語りだしたらキリがない。


 ただ俺たちの関係は生まれた時のそれから何一つ変化することなくあり続けているこの現実がそこに粛々と横たわっているだけだ。


 そう、すべてはもう過ぎ去ったこと。


 彼女から『先輩から告白されたんだけど……』と報告を受けたあの高校一年の夏の日。


 彼女の前では適当に茶化したりして笑っていたものの、その蒸し暑い夜に厚手の布団と言い知れぬ喪失感にくるまれるままに夜明けを迎えた過去を。


『ああ、俺はアイツのことが好きだったんだな』と自覚したのと同時に失恋をした初恋を。


 なかったことにはできないのだ。

 

 彼女がその彼氏とあっさりと別れた後も、しばらくして俺がクラスメートの女の子と付き合ってあっけなく別れてしまった後も。


 またどちらかが別の誰かと恋人となり、長く続いたりしなかったりした後も。

やっぱり俺たちの関係だけは何も変わらなかった。


 どこまでも彼女は『幼馴染』として俺のそばにいたし。

  いつまでも俺たちは『幼馴染』のままであり続けた。


 ……あり続けるしかなかった。

 

               ☆★☆★☆


 「ちょっとぉ、なんで牛乳がないのよ」


 顔を洗ったくらいではまともな思考を取り戻せないと判断した俺がシャワーを浴びて居間の方に戻ると、宣言通り扇風機の前を陣取り、高いカップアイスにパクついていた彼女が不満を垂れた。


 「この時期の牛乳は傷みやすいからあんまり買いたくないんだよ」


 「昔から私のアイスのお供といったら牛乳だって知ってるでしょ?気を利かせて常備しておきなさいよ、もぉ」


 「その昔から言ってると思うけどアイスのお供に牛乳はあり得ないから」


 「なんでよ?甘ったるくなった口のリセットに牛乳の爽やかなのど越しは必要不可欠でしょうに」


 「だったら大人しく水かお茶を飲め。リセットどころか乳脂肪分ブーストしてんじゃねぇか」


 「水なんか飲んだら口の中がさっぱりしちゃうじゃない」


 「……お前が何を言ってるのかが俺にはさっぱりだよ……」


 「だからぁ、アイスを食す時……もっと言えばそれがお高めのアイスである時……迎え撃つ方もそれなりの気構えを持ってして臨まなければいけないと私は常々思ってるわけ。具体的に言えばこの直情的な甘さを感じる舌も、しっとりと溶かす口の粘膜も、糖分を吸収する細胞も、そして心も、すべてをアイス仕様に調整しなければ失礼にあたるでしょ?」


 「……いや、あたらんと思うけど……」


 何様だよ、アイス。

 

 取引先?取引先なの?


 俺が電話で無意識に頭を下げてへりくだってしまうお得意様と同列なの?


 「確かに喉は乾く。高くても安くてもカップでもモナカでも、バニラでもミントでも期間限定スイートポテト味でも、カレらは押し並べて私の口内から容赦なく水分を奪っていく。さながら悪辣な圧政者の搾取のごとく、砂に書いた小さな夏の恋心をさらう白波のごとく……。それはアイスを食す以上絶対に避けては通れない世の中の真理の一つなの。しかし、その乾きに耐えられなくなったからといってそれを水だとかお茶だとかブラックコーヒーだとかいうもので紛らわせるのはあまりにも安易。あまりにも邪道。もはや新たな大罪として認可されてもおかしくはないこの愚行はアイスに対する冒とく以外の何物でもないわ。……苦節云年。時には涙し、時には嗚咽し、時にはお腹を壊しながら私は遂に辿りついた。同じ乳製品である……いえ、すべてのアイスクリームの原点である牛乳こそが同時に口に入れることを許された唯一の存在であるのだと!!」


 「……アイス信仰を謳ったカルト教団でも作りたいのか?」


 「……乳脂肪……『NEW SIBOU』……新しい脂肪……女にとってなんて悪魔的な響き。いけないとはわかっていても、その誘惑には抗いがたいところなんてまさに神代の悪魔……」


 「邪神信仰じゃねーか……」

 

 「汝のアイスを愛せよ!!」

 

 「……朝飯、食うか?食パンしかねーけど」


 「うん、二枚」


 「それじゃバターたんまり塗って乳脂肪様のご神託でも受けてくれ」


 「あ、今日はイチゴジャムの気分だから」


 「おい、異端者」

 

 ……こんなイカレタ女を一度でも好きだと思い、失恋に心を痛めたあの時の俺が不憫でならない。

 

                ☆★☆★☆


 「…………」


 「…………」


 それから俺たちはテーブルに向かい合って座り朝食を摂った。


 彼女はイチゴジャムをたっぷりとつけたトーストとヨーグルト(またしても乳製品)。


 寝起きや寝覚めといよりも、起き抜けが酷かったせいで食欲の沸かない俺はたっぷりと氷を入れたアイスコーヒーだけというメニューだ。


 「…………」


 「…………」


 会話は特になかった。


 彼女が食パンの耳部分をカリッ、といわせる音。

  俺が傾けたグラスの中で氷がカラン、と鳴る音。


 そしてなんとなく点けていた情報バラエティー番組のMCが、一週間の世情をダイジェストとして振りかえっている声だけが、気怠くも平和な日曜朝の静寂をざわつかせるばかりだった。


 「……で?」


 どれくらいそんな風にしていただろう。

 

 満を持して……という程に大仰なものではなかったが、このまま只でさえ今日もまた不毛に終わりそうな休日をより灰色に彩ってしまいかねない無為な時間に耐えきれなくなった俺がついに彼女に尋ねた。


 「んん?」


 「『んん?』じゃなくて。何か話、あったんじゃなかったのか?」


 「……ああ……」


 まるで機械化した俺への意趣返しをしているみたいにボンヤリとした気のない返事。


 返事をし、トーストを齧りながらも彼女の視線はジッとテレビから離れることはなかった。


 朝食への気構えなんて人それぞれだし、お行儀云々などと説教をたれるつもりも毛頭ない。


 ただ、それにしたって随分と平坦で、妙に真剣そうな眼差しなのが気になった。


 そんな彼女の視線の先に映るテレビの内容はちょうど、長きにわたる軋轢のせいでもはや修復不可能なまでに関係がこじれにこじれていたはずの、日本から遠くて近い某国と、近くて遥かに遠い某国とが歴史的な歩みよりを見せたところ。


 確かに世界情勢的には大きな一歩を踏み出したのかもしれない。


 しかし、俺の情緒的には貴重な安息日を脅かしてまで話さなければならなかったことを忘れるほどショッキングな出来事ではないのだと強く訴えさせていただきたい。


 「いや、だからさ……」


 「こういうのってさ、どう思う?」


 「……何?」


 「こーゆーの。アンタはどう思う?」


 ようやく言葉らしい言葉を発したと思ったらまた訳のわからないことを言い始めた。


 「お互いの黒い腹積もりだとか駆け引きだとか、歴史に名を刻みたいが為の名誉欲とか色んなものが見え透いているし、必ずしも百パーセント誰もが納得できる結果が出るわけじゃないこともわかっているのに、総合的に見れば双方に若干のプラス査定に偏るからといって握手を交わす、そんな打算と妥協が満載の関係ってどう思う?」


 「…………」


 こういうのとは、つまりテレビ、ひいては海の向こう側で交わされた一つの握手のことだったのだろうし。


 こーゆーのとは、その握手に込められた政治的で世界的で、多義的で広義的な意味合いのことだったのだろう。


 「……別に、いいんじゃないか?」


 「いい?」


 「俺には政治のことも、一国を背負って立つ人間の重みもわかんないけれど、とりあえず世界が平和に近づくのは悪いことじゃないだろ?」


 「……世界って、平和じゃなかったの?」


 「そりゃ……まぁ……平和かそうじゃないかと言われれば、たぶん……」


 そう、たぶん。


 こうしている今でも誰かがアイスやパンさえ食べられずに飢えていたりするかもしれない。

 

 その一つのパンを巡って本気で殺し合っていたりするかもしれない。


 サービス残業の方がそのうち正規の就労時間を越えてしまうのではないかという不満が募り。

 

 どれだけ頑張って仕事を取ってきて会社の利益に貢献しているつもりでも、いつクビを切られるのかわからないという不安が常に付きまとう世界なんて、平和なわけがないじゃないか。


 「ってゆーか、そんなことはどうでもいいの」


 「は?」


 「そもそもなんで急に世界平和についてのあっさ~い所感を述べ始めたのよ?」


 「いやいや、お前が聞いてきたんだろーに」


 「はい?」


 彼女は心底から心当たりがないという怪訝そうな声を上げた。


 それどころか、テレビに向けていた視線を真っすぐにこちらに向け、俺の正気を本気で心配しているような顔までした。


 「そんな話、パンの一欠片ほどもしてないけど。私が話してるのは、この前お見合いをした男と結婚を前提としたお付き合いをするのかどうか迷ってるってことでしょうに」


 「パン屑ほども話してねーよ……」


 頭が痛くなってきた。


 ……いや、そうだった、そうだった。

  この頭の痛みのおかげで思い出した。


 昔からコイツはこんな風に自分の世界の中から、自分の言語と思考回路と常識で持って話をするヤツだった。


 こんな風に自分の世界の中で自分の言語や倫理観や常識でもって組み上げられた発言なり考えなりを、最低限、他人にも理解できるような言語や倫理観や常識へと変換してアウトプットするという工程が、いつだって欠けていた。


 そのクセこちらの反応が鈍いと途端に不機嫌になるのだから、近かろうが遠かろうがコイツの治める国とは永遠に分かり合えることなんてできないんだ……ろ……う?


 「ん?お見合い?」


 「ん、お見合い」


 「……ケッコン?」


 「そう、結婚」


 「……結婚……」


 「言っておくけど『血痕』じゃないからね」


 いや、『お見合い』から『血痕』とはまず連想しない。

  どんな二時間サスペンスだ。

 

 「つまりは正式にプロられたってわけ」

 

 「プロ……られ??」


 「あ、もちろんプロポーズのことね。アマられの反対ではないから」


 ややこしいから造語に造語の反意語を重ねるな。

  なんでも動詞にしたがる現代っ子め。


 「…………」


 と、心の中では彼女の発言のいちいちにツッコミを入れていたわけだが、実際に俺の口からは真っ当な返しは一語たりとも出てこなかった。


 お見合い?

  結婚?

   プロポーズ?


 妙な造語はともかくとして、俺にもすんなりと理解できるはずの単語たちの意味が、何故だか頭の中に入ってこない。


 「パパがね、春の健康診断でちょっとひっかかっちゃったのよ、胃のレントゲン。ポリープだって。……まぁ、実際は引き潰された米粒よりも小っちゃいうえに陽性だったんだけれど、健康には人一倍自信のあった人だからえらくショックを受けて弱気になったんだと思う。『お前は気楽に大学生活を満喫してなさい』って言ってたくせに急に『孫の顔が見たい』とか宗旨替えしちゃって。ほとんど無理やりにセッティングされたのよ、お見合い」


 「…………」


 ポリープ?

  孫の顔?

   宗旨替え?


 「相手はパパの会社とも取引のある企業の跡取り息子。それはまぁ、絵にかいたようなイケメン御曹司だったわよ。幾らか年上だったけれどその分余裕みたいなものもあったし、スラっと手足が長くて物腰も柔らか、性格も品行も良さげ。お金も持ってるでしょうに嫌味なところも全然なくて、将来有望どころか将来の成功を遺伝子レベルで約束されているような完璧超人ね」


 「……ああ」


 御曹司?

  品行方正?

   完璧超人?


 「そんな超人様が何を血迷ったのか私のことを気に入っちゃたらしいのよ。……いいえ、超人であるからこそ普通の人の価値観なんて超越してるのかもね。お見合いの席で私、お着物とか余所行きとかじゃなく普段着を着ていった上に、最初から最後まで露骨に不貞腐れていたんだけど、逆にそれが新鮮だったみたい。『貴女のその素直さは僕にはとてもとても眩しく美しい。どうかそのままの飾らない貴女で僕の伴侶となって下さい』って言ってニコォって笑うの。信じられる?私のブゥたれた顔って眩しくて美しくて蠱惑的なんだってさ」


 「……ああ」


 眩しい?

  美しい?

   蠱惑……的???


 「ソソるんだって。エロイんだって。発情するんだって」


 「盛るんじゃねーよ」


 品行方正な爽やかイケメンの口からそんな俗っぽい単語はこぼれてほしくない。


 「……まぁ、そっか、うん……」


 ツッコミどころを満載に搭載した、盛大で大盛な過言のおかげでボンヤリとした意識が一息に醒めてくれた。


 「つーか、珍しいな。男と付き合うだなんだのことで俺に相談なんて」


 相談なんてされたことがない。

  相談だってした覚えはない。


 俺も彼女も恋人ができるその前後やその最中。


 もしも何かしらの不安を抱き、誰かに話を聞いてほしくなったとしても、もっと相談するに相応しい人に胸の内を明かしてきた。


 「うーん、一応ね……」


 別に申し合わせたわけじゃない。

  相手が頼りなかったからじゃない。

   気の置けない者同士だからこそ逆に恥ずかしかったなんてこともない。


 「さすがに結婚とか大きい話になっちゃってるからさ……なんとなく……」 

 

 ただ、なんとなく。

  そう、あくまで、ただただなんとなく。


 お互いに愛だの恋だのといった話題を避けて通ってきた。


 まるで、何かを守るように固く、強く。

  まるで、何かを壊さぬように優しく、弱く。


 「大きい……まぁ、大きくて重いはな、そりゃ……」

   

 まるで何かから……。


 いつも一緒にいることを囃し立てる周りの声や。

  言葉にはせずともいつか一緒になるのだろうという親たちの期待や。

   思春期から成年期にかけて抱え始めた異性に対する興味や欲望や。


 そんな自分たちの預かり知らないところからくる圧力みたいなものから、俺たちは手に手を取り合って必死で逃げてきた。


 「でも、何者か知らんけど、良い人そうだけどな、話を聞いた感じでは」


 何者にも犯されたくないし、犯したくない。

  何物にも侵されたくないし、侵されたくない。


 たとえその何者が当人同士であったとしても。

  たとえその何物が当人たちの淡い想いであったとしても。


 「少なくても、変な反骨心から親が薦める公務員試験を蹴った挙句に絶賛社畜中のどこぞの幼馴染のボンクラの百倍マシだな。ははは……」


 ごくごく狭く局地的で極致な、簡潔に完結した俺たちの『幼馴染』という居心地の良過ぎる関係を決して崩されたくはなかったのだ。


 「……どうすればいいと思う?」


 気持ちが悪い。

 

 気持ちの不快さからではなく、そんなうすら笑いしか浮かべられない自分自身が気持ち悪い。


 彼女の真剣な問いかけに。

  言外に切実さをありったけに詰め込んだ彼女の言葉に。

   いつも通りの傍若無人さを装いながらも迷いの中にいた彼女の心に、想いに。

 

 真正面から向き合う事の出来ない自分が、本当に、本当に……。


 気持ちが悪い。 


 『先輩から告白されたんだけど……』


 ああ、そういえば。

  そういえば過去に一度だけ……。 

 

 こんな風に、切羽詰まった彼女を見たことがあった。


 「ねぇ……」

 『ねぇ……』


 後に彼女の最初の恋人となる学校の先輩からの告白。

  後に俺と彼女が『幼馴染』から抜け出せなくなった一つのきっかけ。


 最初にして最後の恋愛相談。

  唯一にして最大の後悔。


 まるで、その時の状況をなぞるかのように。

  まるで、あの日確立した関係性に挑むように。

   まるで、自らを胡麻化し続けた虚構をさらうように。

 

 同じ声、同じ言葉、同じ顔、同じ心で……。


 「……私、どうすればいい?」

 『……私、どうすればいい?』


 彼女は問いかけるのだった。


 「……俺は……」


 「……うん……」


 「俺……は……」


 「……うん……」


 「っく……俺は!!」


 prrrr……prrrr……


 空気を読まない電子音。

  もしくは空気を読んだとも言える電子音。

 

 「……俺は」


 prrrr……prrrr……


 俺の勇気に水を差すコール音。

  俺の覚悟を逆撫でるディスプレイ。


 「だから……俺は……」


 prrrr……prrrr……


 「出なよ、電話」


 「そんなものは後で……」


 「会社からでしょ?いっぱしの社会人がそんなこと言ってちゃダメ」


 「いや、だけど……」


 「ダメ」


 「…………」


 普段、奔放で一般常識から大いにはみ出しているような女子大生に、まさか社会人としての心構えを諭される日が来ようとは……。


 そんな少しの驚きと戸惑いと、何故だか大きな安堵感を抱いた心持のまま。


 執拗にコールを繰り返す相手も、そいつが口にする用件も、この後の俺の安息日が瞬く間もなく真っ黒に染め上げられるであろうこともわかっている電話の通話ボタンを。


 俺は押すのであった。


 ピ……


               ☆★☆★☆


 「ああ、もう!!」


 「ほらほら、ハリーハリー♪」


 取るものも取らず、おっとり刀で……とは行かないのがいっぱしの社会人である。


 「愛されてるねぇ~。わざわざ日曜日にまでアンタに会いたいっていう、その上司ちゃんに」


 「ちゃんはやめろ。脂ぎったハゲオヤジなのになんか萌えキャラに擬人化されたみたいで虫唾が走る」


 ボサボサの寝ぐせを整髪料で無理矢理になでつけ、ここぞとばかりに無精をしようとした髭を容赦なく剃り、ヨレヨレの部屋着からクローゼットの中に吊るされたパリッとしたスーツへと着替え、ネクタイをしめる。

 

 そして仕上げとばかりに『眼鏡をかけた男は軟弱だ』とかいう、時代錯誤というかむしろ一周回って新時代の価値観みたいな上司の好みに合わせるようコンタクトを入れれば、あら不思議。


 鏡の向こう側には社会を回す大事な使命を帯びた、正義にも悪にもなり切れない代わりにやり切れなさをふんだんに抱え込んだ、サラリーマンという傷だらけの戦士が降臨する。


 「ったく……『今度、酒でも奢る』と言っておけば何でも許されるかと思いやがって……。懐のでかい上司を気取るなら、休日出勤よりもその酒の席を一緒にしたくないという部下の気持ちをまずは汲めってんだ」


 「うわ~休日出勤のがマシとか言い始めたよ。いよいよ手遅れじゃない、社畜ちゃん?」


 「あん!?」


 「はいはい、八つ当たりもお仕事もおつおつ♪」


 「いってきます!!」


 「いってらぁ~。カギはいつものトコに入れておくからぁ~」


 その間延びした語尾を最後まで聞くこともなく、玄関のドアが閉まる。


 部屋と外。

  休日と仕事。

   俺と彼女とを隔てるドアが閉まる。


 「…………」


 いや、そんな感傷はいい。

 

 そんなナイーブな精神を持った社畜ちゃんでは萌えられない。

 

 名も顔も知らない誰かの明るくて元気で健やかな毎日のために、暗くて鬱で不健康な毎日を送ってこそのサラリーマンだ。


 「……やば……」



 走ってマンションの階段を下りながら腕時計を見る。


 とくに時間を指定されたわけではなかったが、一分でも早く着けば、一秒でも遅くなって露骨に不機嫌になる気難しい上司と接しなければならないリスクが減る。


 ……そうだ、今はとにかく急げ。


 過去の恋心なんてどうでもいい。

  いつかの胸にポッカリと穴が開いたような喪失感なんてどうでもいい。


 イケメン御曹司との幸せな未来を歩む彼女なんてどうでもいい。

  そのうち出会うであろう俺の結婚相手との未来なんてどうでもいい。


 「…………」

 

 そうやって徐々に徐々に俺たちが会わなくなっていくことなんてどうでもいい。


 盆や暮れに実家へと戻った時、偶然に顔を合わせて、互いの近況や子供の自慢なんかをしあうことなんてどうでもいい。


 ちょっとした昔ばなしに花を咲かせることなんてどうでもいい。

  随分と老けたんじゃないかと軽口を言い合うことなんてどうでもいい。


 やっぱり楽しいなと思うこと。

  在りし日の追憶を懐かしむこと。

   ほんの少しだけ寂しくなること。


 そうしてまた、それぞれがそれぞれの帰る場所へと。


 それぞれがそれぞれに築き上げた、『幼馴染』のままではついぞ辿り着けなかった、『家族』という繋がりで結ばれた人たちのところへと戻っていくことなんて……。


 今更もう……


  どうだっていいじゃないか……



 「っく……」


 ああ、やっぱりコンタクトレンズは苦手だ。


 目が無性にグズグズとする。

  

 この異物感が嫌でずっと眼鏡一筋でやってきたというのに。


 彼女と喧嘩をするたびに『このヘタレ眼鏡!!』と罵倒されるのも我慢してきたというのに。


「なんなんだよ……ホント……」


 だから今の俺には目薬が欠かせない。


 気休め程度のものではあるが、目がいずくなったらいつでも点せるようスーツの胸ポケットに入れている。


 無意識に手が伸びる。


 もはや中毒だ。


 こんなイケメンでもなければ性格だって別に良くもなく。

  

 年上の余裕も、お金も、成功が刻まれた遺伝子も、コンタクトレンズの適正も。


 度胸も、覚悟も、甲斐性も何もないヘタレ男だとしても。


 目薬だけは裏切らずに、いつだって俺に優しくしてくれる。


 「あ……れ?」


 けれど、さすがにそんな奇特な目薬でも、家に置き忘れさられてしまえば優しくしようもない。


 「は?……なんで……」


 立ち止まり、ポケットというポケットをまさぐってみても、通勤カバンの中を漁ってみても見当たらない。


 ……ああ、そうだ。


 ゆっくりとした休日を送らんがために昨日は常時より更に輪をかけて激務に勤しみ、帰宅後、皮膚もろとも引きはがさんばかりにスーツを脱ぎ捨てた。


 たぶん、目薬は今もソファーの上に放り出されたままの上着の胸ポケットに入り、役目を全うできないストレスからくすぶっていることだろう。


 「……はぁ……」


 取りに戻るか?


 距離はさほど離れていない……というか、立ち止まっていたのはちょうど俺のマンションの裏手に伸びる路地の上。


 時間的にはまだどうにか上司が勝手に設定しているであろうタイムリミットの許容範囲内だと思う。


 取りに戻るか?


 「はぁ……」


 いや、いい。


 なんだかんだで所詮、ただの目薬だ。

  別に命がかかっているわけでもない。


 それに何故、上司のリミット内だと決めつけたんだ、俺は?


 『勝手にお前が判断するんじゃない!』と『それくらい自分で考えろ!』が口癖の上司のことだ。


 どうせこれもまた自分で考えた末に勝手な判断だと怒鳴りつけられるパターンだろう。


 「…………」


 なんならもっと全速力で走って一本早い電車に乗ることができれば、あるいは途中で新しい物を買う時間くらいできるかもしれない。


 「……よし、行こう……」


 決して逃げているわけじゃない。

  むしろこれは攻めているんだ。


 決して逃げているわけじゃない。

  むしろこれは……これでいいんだ。


 今、部屋に戻ってしまえば。

  今、彼女の顔をまた見てしまえば。


 俺はもう戻れない。

  俺たちはもう『幼馴染』には戻れない。


 失う、

  損なう、

   壊れてしまう。


 この居心地の良い関係が。

  何ら責任も生じない、気ままで気楽な関係が。

 

 今は幾らか交っている人生の道がゆっくりと違え、そのうち互いの顔も見えなくなるほど遠のいてしまったとしても、良い思い出だったとシミジミと懐古することのできる特別な関係が、思い出ごと全部壊れてしまう。


 怖い、

  恐い、

   コワい……。


 何も持たない俺がただ一つ。

  

 いつか死に際に、自分の子供か孫にでも誇らしく語って聞かせることができる唯一のものを失くしてしまう。


 俺にはとてもとても仲の良い『幼馴染』がいたんだよ、と。

 

 仲が良すぎて、相性が良すぎて、一緒にいると楽しすぎて。


 笑いすぎて、怒りすぎて、思い出の一つ一つが眩しすぎて。 


 好きすぎて……愛だとか恋だとかいう次元では計り知れないくらい大好きで。


 だけど大好きすぎて結局、一緒にはいられなかった人がいたんだよ、と。


 語る日が、きっと、きっと、きっと……。


 「ほ~らよっっと!」


 彼女の声がする。

    

 「は?」


 聞き間違えるわけはない。

 

 思い出の中でも、追想の中でも、描いた未来の中からでもなく。


 実際に小さな卵くらいなら簡単に茹ってしまいそうなくらい、夏が夏らしさを存分に振りまく酷暑の現実を刺し穿ち、切り裂くように。


 彼女の真っすぐな声が高らかに響き渡る。


 「忘れ物だよぉ、ヘッタレ~!!」


 そうして描かれる放物線。


 小さな小さな琥珀色のアーチ。


 目薬だ。


 スーツの胸ポケットに入れたままにしていた愛用の目薬だ。


 割と値段の高い物で、その高級感の演出のためか金色に近い琥珀色した容器が、夏の光を反射させる。


 「な……」


 『何考えてんだ』と言葉を紡ぐ間もなく。

  『なんて無茶苦茶をする女だ』と呆れる間もなく。


 目薬が落ちてくる。


 ……いや、なんだかんだ言ってもマンションの二階層分であり、どうだかあだと言っても所詮は小さなプラスチックの容器だ。


 俺が取り損なったところで大ケガを負うことはないだろうし、体に当たらずともアスファルトの上に落ちてしまっても壊れることはないだろうし、なまじ割れてしまっても別に幾らでも買い替えの利く消耗品だ。


 肉体的にも懐的にも大して痛手にはならない。


 しかし、それ以前に……。


 「…………」


 『ほらよ』と同時に放る前にまず名前なりを呼んで俺を振り向かせようと、どうして思えない?


 他の通行人に当たって迷惑をかけるのではないかと、どうして配慮できない?


 「…………」


 絶対に俺の元へ届くと、どうして自分の投球コントールを信じられる?

 絶対に俺が気が付き見事キャッチするのだと、どうして疑いもしない?


 「………(ポス……)」


 「ナイスキャ~~ッチ」


 どうしてそんなに楽しそうなんだ?

  どうして俺が今まさに目薬を欲していたことがわかったんだ?


 「てゆーかナイスピッチ、私ぃ~」


 「……うるせーよ」


 なぁ、なんなんだ?


 必ず俺が自分の声に気づき、目薬を確実に掴むだろうというあの信頼感は。

  

 なぁ、なんなんだよ?

 

 彼女が放ったものならば、短すぎず長すぎず、通行人はおろか誰一人として傷つけることなく確実に俺の取りやすい位置に落ちてくるだろうというこの安心感は。



 なぁ、なんだってんだよ……

  

  こんなにも誰かと分かり合えているという……


    この幸福感は……



 ………

 ……

 …


 「ほらぁ~な~にボーっと突っ立ってんのぉ~」


 「……なぁ?(ボソリ)」


 「早く行ってやんなさいなぁ~」


 「……なぁ?」


 「んん?」


 「なぁ?」


 「んんん??聞こえな~い」


 「(すぅ……)……なぁ!?」


 「うん、な~にぃ?」


 「やめろよ」


 「んんん??」


 「やめろって」


 「だからぁ~声小さいってばぁ~」


 「やめろよぉ!!結婚なんてぇ!!」


 「……ん?……」


 「お前みたいな変な女ぁ!!誰と一緒になったって上手くいくわけねーんだからぁ!!」

 

 「…………」


 「旦那になるヤツが可哀そう過ぎるだろぉ!!だから、結婚なんてやめちまえ!!」


 「……ちょっとぉ~それ、酷すぎないぃ~!?」


 「……俺ぐらいしかいねーよ。お前の傍にずっといてやれるのは(ボソ)……」


 ベランダの欄干に頬杖をつきながら、ニマニマとしている彼女。


 ああ、あの顔は知っている。

  ああ、ホント、知りたくもないのに知りすぎている。


 「なに恥ずかしいこと言ってんのぉ~?」


 「聞こえてんじゃねーか!!」


 走馬燈でよぎった過去でも。

      

 「それってプロですかぁ~?プロっちゃったんですかぁ~?」


 「そんなイカレタ造語は喋ってねー!!」


 今まさにこの現在進行形でも。


 「でも演出にロマンチックさの欠片もないとこはまだまだアマチュアだねぇ~。アマったねぇ~。アマちゃんだねぇ~」


 「うまくねーよ!!」


 そして思い描く遠い遠い未来でも。


 「……あ、そういえばこのシチュエーションってさぁ~?」


 「あん!?」


 彼女が本当にうれしい時……。

  彼女が心からの幸福を感じたであろう時には。


 「まさに『二階から目薬』だよね~?」


 「うまくねーよ!!!」


 

 真夏の太陽にも負けないくらい、大きな笑顔を浮かべるのだった。

 


                 ☆★☆★☆

 

 二階から目薬


【読み】

 にかいから―めぐすり


【意味】

 あまりにも近すぎる距離感にある男女がそれ以上の関係を望む時、どうしても普通の恋よりも遠回り気味になってしまうもどかしさの例え。

 この距離を二人が詰めようとするなら、一階では何も変わらないし、三階以上では少しだけ高い。

 たぶん、二階分くらいの刺激が丁度いい。


  

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二階から目薬 @YAMAYO

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