〇1月21日(水)

「……今年はいい年にしたいね」


 目の前の女性は、目の縁をほんのり赤く染めながらそう言うのであった。


 西新宿の、三角形の三つの頂点を切り落としたかのような形のビル。ワインバーは高層ちょうど五十階にあり、窓枠に切り取られてなお広がりを見せる夜景は、写真を撮るのも忘れるくらいの煌びやかさで迫って来ている。


 そんな百万ドルくらいの景色も、引き立てる背景へと追いやるかのように、自身と相対している女性は輝きを放っているように見えるのであった。向かい合う四人掛けのテーブルには純白のクロスが掛けられており、柔らかな間接照明を受け、薄いオレンジ色に染まっている。落ち着いた、いい雰囲気の店であり、大当たりの夜景も相まって、必死こいて検索したかいはあったなあ、と安堵するのであった。


 しかし何気なく紡ぎ出されただろうその言葉に、本日重大な決意を胸にこの場に臨んでいる男は、え見透かされてる? やばいやばい、みたいな持ち前のびびり性根を悟られまいと、無表情と半笑いの中間のような顔面を保持することだけに脳の演算能力のほとんどを使用しているかのようで、ぎこちない事この上ない。


 久我 学途、27歳の決断の年なのであった。


 都内にある中堅食品原料メーカーに何とか大学のコネを使って潜り込めたのが三年前の超氷河期。営業として配属されてからは、絶対こいつ向いてないだろ、という周囲の視線も物ともせず、ただただ得意先に愚直に通い続けるといった単純かつ愚鈍なスタイルが、頭使えよ、みたいな嘲笑を尻目に、いくつもの受託先に刺さっていったのであった。


 よほどの事がない限り弾かれることは無い副主任試験も無事通り、今年の四月には昇格を控えているのである。しかし彼はそれよりも、目の前の女性との事の方がよっぽど重大に感じているのであった。


 ワインバーなんだからワイン頼もうよ、とリストを向けて来るほろ酔い加減の女性の名は、鬼怒川 佳苗。かなり珍しい苗字であり、十人に十人が栃木日光の出身ですかと尋ねてくるのだが、あにはからんや、宮城の出身である。勤め先も仙台市内の大手食品会社で商品開発を行っている。からりさっぱりとした性格であるが、時折久我の失態を叱責する際に見せる強力なる迫力は、さすが名は体といった感じを存分に与えてくる。


 出会いはベタにもほどがあるが、公私混同も甚だしい、営業とその得意先の担当というカップルなのであった。何を営業しに行ってるんだ、との先輩の苦言を受けながらも、しっかりと仕事も取って来ていたので、あまり強くは言われずに済んでいるのである。課長以上には当然内緒なわけで、週末のみこうして会うことも含めて、ちょっとした遠距離であるその事が、逆に「秘密」を守るのには、まあちょうどいい距離感でいいなあ、などと久我は呑気にもそう構えていた。


 しかし、今年の四月から状況が変わる。


 東北支店への転勤が決まったのである。青葉区の一等地にあるそこは、社内においては今後十年の命運がかかると見られる最重要地域の拠点であり、ここに配属されるイコール出世街道まっしぐら……とはいかないまでも、まあまあの順風路線を歩むことの出来るだろう、羨まれるコースなのであった。


 久我の異例とも思える抜擢は、得体の知れない、「本人は意図してへりくだっているわけではないが、外見や物腰から醸される明らかにへりくだっている感が、何かわからないけど、憐憫を誘って何とかしてあげよう感をかき立てる」という類まれな営業能力を買われてのことであり、本人はあまりよく分かってはいないものの、え、じゃあ佳苗さんの近くになるじゃんラッキー、と、昨今いろいろと問題になっているワーカホリックなどからは程遠い、日本のサラリーマンには珍しいメンタルで、この異動を喜んだのである。


 が、それと共に、このままでいいのか、との思いも切実に久我の頭によぎったことは確かであった。他ならぬ、二人の今後についてである。


 出逢いから、およそ一年。付き合ってからは、およそ七か月。


 まだいいんじゃないの? 早いんじゃないの? との思いが無いわけではない。ただ久我にとっては、一緒にいて心安らぐ……たまに面罵されて委縮するが、そういった自然体で向き合える女性は、今後の己の人生において、もう現れないのだろうとの確信めいたものが常に頭の片隅にあるわけであり。


 やはり、ここ一番の勇気を振り絞って、決断するしかないのであった。鼻から大きく息を吸い込み、大一番の台詞を吐こうと気合いを入れる。しかし、


「ぼ、僕は……佳苗さんといると、楽しい」


 渡されたワインリストで顔を隠しながら、そんな中学英語構文のような言葉を、蚊の鳴く声で何とか紡ぎ出すくらいが関の山の久我なのであった。百点満点中、十五点くらいの切り出し方である。今日びAIの方が気の利いたことを言うようにも思われるが、それを自然な微笑みと頷きで受け取った佳苗は、テーブルの上に身を乗り出すようにして、肘を突いた右手の掌に顎を乗せると、鼻と口を指で覆う姿勢で、その続きを待つ。どこか悪戯っぽい流し目で。


 そんな視線を見ずとも感じてしまうと、ますます顔面と言語中枢あたりが硬直していってしまうダメな男なのであった。


 席に着いた時にさりげなく取り出し、股の間に挟み込んでおいた、ベルベットの小箱に指先で触れ、落ち着こうとしてみる。そんな所に手を差し込んでいたら、あらぬ誤解を招くだろ、と思うが、本人は至って必死なのである。


「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく、く、ぼ、く、ぼ」


 僕、久保、のような小二くらいが考え付いて得意気に披露するような初級回文的な文句を口にし始めたところで、顔の前に立てるようにして持っていたワインリストを取り上げられる。


 そこにはアルコールのせいだけでは無く真っ赤になった丸い顔が、めり込むことによって完全に顔の一部になっている丸いフレームの眼鏡を汗で曇らせながら、何かを言おうとぱくぱくと口を動かしているという、何とも言えない画があるのであった。


「いいよ、落ち着いてからでいいから言ってよ。ガクちゃんのいいタイミングでいいからさぁ。言って」


 佳苗はあくまで自然体である。二歳年上の彼女は、何につけてもイニシアチブを取って物事をすいすいと軽やかに鮮やかに進めてしまう行動力の持ち主であり、まるで真逆の二人ではあったが、案外根っこのところではしっくりくるのもこういったカップルである。


 でも、ここは一発、決めてもらわないと。と、佳苗は普段は着ないドレス調の深いワインレッドのワンピースの肩の結び目を指で弄びながら、そう久我の言葉を待っていてくれるのであった。一瞬の沈黙の後、


「……ぼ、僕は……佳苗さんといる時がいちばん楽しくて……嬉しくて興奮もするんだけど、逆にすごい落ち着いたりもして」


 「興奮」というワードは今、挟まなくてもいいだろ、と思わせるものの、感情の全部を素直に表すとそうなるのであった。佳苗はただ微笑んで待っている。


「僕は……佳苗さんのことが、す、好きで……す、す、す好きなん、だ……な」


 肝心の台詞も噛み気味であり、どうにもしっくりくる語尾が見つからなかったのか、往年の大将感も滲ませつつ蛇足的に言い直してしまうものの、隠しようもない真っすぐな思いは、目の前の相手にだけは伝わっていくのであった。


 意を決し、自分の股間の体温で少しぬくまった小箱を、テーブルの上に震える手で乗せる。浅い呼吸を繰り返しながらも、言うんだ言うんだ言うんだッと、強い思いで、ままならない口をどうにか開かせるのであった。


「ぼ、僕とっ、結婚を前提としたお付き合いをしてください」


 はっきり言えたじゃん、と思いつつも、そこは「結婚してください」でいいんじゃないの? と、自分に向けられた一直線の思いが流石に気恥ずかしくなって佳苗は心中でそうはぐらかそうとするが、


「……」


 自分の目の前で何故か泣きそうになっている丸顔に対して、ちゃんと向き合わなきゃ、と突いていた肘を戻して、すっと背筋を伸ばす。と、


「ぼ、僕は、中学の時に結構いじめられていて、本当、何もやる気力も無くなって、ただ学校に行って、何か言われてもやられても受け流して、ぼんやりとただ黒板に書かれた文字を忠実にノートに写経するだけの毎日で、体育の時とかは端っこで見学みたいに座ってたり、若い先生からも小馬鹿にされて無茶な振りをされたりして、とにかく、お、同じ目線で話をしてくれる人なんていなかった……」


 承諾の返事をしようと思っていた矢先に、そんな過去の心の澱をちゅるちゅると歯の隙間から絞り出すように吐露されてしまい、正直、あれれと面食らってしまった佳苗だったが、とにかく全部吐き戻させてあげよう、と、テーブルの上で握りしめられていた丸みのある右拳を、自分の左の掌で包み込むように握る。


 その上にぽつぽつと降ってきた生ぬるい水滴には気付かない振りでそのままに置いて、便意を我慢しているかのようにも見える歪んだ丸顔に焦点を合わせる。意識して眼輪筋に力を込めないと、佳苗の視界も何だかぼやけてきてしまいそうなのであった。だが、


「……そんな僕に図書室で、綾辻行人の『十角館の殺人』を勧めてくれたのが、伊駒さんていう図書委員のコで……」


 脱輪しかけていた話が、いま完全にレールを逸れた感触を確かに知覚し、ん? と真顔になる佳苗を置いて、久我の片輪暴走は続いていく。


「伊駒さんは唯一僕にまともに話しかけてくれる女子で……あ、いや人で……いろいろ本の話を昼休みとかにするようになって、ええとその、学校に行くのがそんなきつくなくなったというか……何というか、すごい自然な、自然感がとても心地よかったわけであって……」


 このシチュエーションから伊駒ルートへ分岐という滅裂な展開に迷い込んでいく久我であったが、ふと目を上げた瞬間に網膜に刺し込むようにして入ってきた愛しい人の見たこともないような満面の笑顔に本能的な危険を察知すると、何とか修正出来うる軌道を求めて、己のヒートした大脳におっぴろげた両鼻の穴から必死で酸素を送り込んでいく。


「……」


 が、そんな伊駒さんに似ている佳苗さんが好きです、がバッドエンド直行の選択肢であることは、その手の疑似恋愛体験型養成プログラムに精通した久我には分かり過ぎるほどに分かっているのであった。よって一度、己の人生という大局観のあるものに視野を俯瞰させてみる。


「その出会いから……は、はじめて人が見えた気がして……それから僕は、本を読むということから、自分のやりたい事が見えてきて、人生が、自分で何とか出来る、何とかしてやるぞっていう思いが湧いてきたんです」


 丁寧な口調になってしまっているが、まあ丁寧に向き合おうとしてくれてるんだからそこはいいか、と、佳苗は思うものの、まだ脱線の気配も消えない予感がするので、渾身の笑顔は解かないままで続きを待つ。


「……仕事はまだよく把握できていないし、自分の中でも何をやりたいのか、うまく説明できないんだけど……佳苗さんといると、佳苗さんの存在をいつも見て聞いて、えーと嗅いで味わって触れて感じていると……」


 「嗅いで」の辺りからまた怪しくなってきたが、


「な、何だかわからないけど、平常心になれるんだ……透明で澄み切った、それでいて体温みたいに温かい水で、肺が満たされていくような感覚を常に感じている……今でも」


 「心が」だと思う「肺」だったら死んじゃうよ、と照れ隠しで心の中でつっこみを入れてみるものの、こんなところで許してやるか、と殊更に芝居がかった感じでふっと鼻から息をつく。


 いつの間にか作られたものから自然なものへと変化していた柔らかな表情で、目の前の全力を出し切ったと思われる男の方を改めて見つつ、耳にかかった髪を後ろに撫でつける振りをして目じりに溜まった水を払う。


「ニュートラル。私もガクちゃんといるとニュートラルな気持ちになれるんだ。いや、自然となっている、無理やりならされている?」


 心地よい歌詞を口ずさむかのように、佳苗は悪戯っぽい視線を丸顔に送り続ける。


「一緒に暮らそうよ。私は私のままだけど、そんな私を好きだと言ってくれる人と生活するのは、何か楽しみ。違うか、楽しんでばかりもいられないとは思うけど」


 いろいろあるもんね、と佳苗はそう言い直してみるが、瞬間、目の前にえらい勢いで突き出された小箱の中には、暖色のスポットライトを受けてその輪郭すらはっきりと掴ませないような、そんな嘘みたいな輝きを放つ、地球から産出される最も硬い物質が鎮座しているのであった。


 「給料の三か月分」という旧約にも程がある神話を頭から信じている久我は、それに合致する指輪を、ひと月ほどかけて探し出したのである。大き目のひとつ石。装飾はシンプルな方が絶対佳苗さんには似合う、と、割と己以外のものには意外なセンスの良さを垣間見せる選択が、ここ一番でも十全に発揮された。そして、


「た、楽しんでばっかりの人生を、笑ってばっかいられる人生を、死ぬまで君と送り続けることを、ここに誓うっ」


 必死で絞り出した解答には、愛しい人から笑顔と涙が半々の表情で、自己最高得点がつけられるのであった。

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