第26話
久しぶりの道場は空気がとても澄んでいた。
いや、澄んでいるというより、緊張感があるとでも言うべきなのだろうか。
義久さんは袴に着替え、上半身の胴着を脱いでいた。
その腕や胸には無数に傷跡が残っている。
型の確認をしているのか様々な動きをし、空気を切り裂く音が途切れない。
特筆すべきは、鍛えられたその背中に傷跡が全くないことだった。
昔、義久さんが言っていたことを思い出す。
「男ってのはな背中を向けて逃げちゃいけねえんだ」
と。
小さかった僕はその意味が分からず、理由を聞いてみたが自分で考えろと一蹴されてしまった。
結局は分からずじまいだったが、義久さんの覚悟を何となく感じ取ったことは覚えている。
「ユウ坊。準備は出来たか?」
「はい、大丈夫です」
義久さんに呼ばれて畳の上から降りる。
道場はそこそこの広さで、準備をする人や順番待ちの人は端にある畳の上で待機するようになっている。
畳から降り、道場の中央に立つ義久さんの元へと歩いていく。
板張りの床の冷たさが素足に染みる。
「実戦を何度か経験したとのことだが、正直な所どうだった?」
「どうだった、ですか…。地域史研究会のみんなが助けてくれてるから何とかなっているって感じます」
「まだ一人では対処しきれないと?」
「はい、そうです」
これは本心である。怪異のことなど全く知らなかった僕が、何の因果からか関わるようになってしまった。初めてその存在と対峙した時から時間は経ったが、ここまで僕が五体満足で生きてこれているのは全て彼女たちのお陰である。いざという時は彼女たちを助けられる人間になりたい、これは僕が常々思っていることだ。
「ふむ。嘘は吐いていないようだな。ヤツらと関わるようになったというから少し心配をしていたのだ」
「心配…ですか」
「そうだ。生半可な者が怪異と関わり続けると、精神がヤツらと同化してしまう」
「僕は大丈夫ですか?」
「まだまだ若輩とはいえ四季の次期当主が集まっているのだ、最低限は保証されているだろう」
後で褒めてやらねば、と義久さんは微笑んだ。
「本当に助けられてばかりです」
「だがなユウ坊。周囲がある程度は守ってくれるとは言え、ヤツらに隙を見せてはならないぞ」
義久さんは太い腕を組んだ。
「大丈夫ですよ、義久さん。義久さんもさっき言ってくれていたように、僕には心強い味方が居ますから」
「物理的には、だがな。儂の言っている隙とは心のことだ」
義久さんは人差し指で僕の左胸を小突く。
「心の隙を突いてくるなんて、何だかオカルトチックですね」
と僕は小さく笑うが、義久さんには通用しなかった。
「その反応を見るに、ユウ坊は心当たりがあるようだな」
「…はい」
「いつだ?」
「少し前です」
義久さんの顔に哀愁が現れる。きっと僕も同じ表情になっていたことだろう。
「ならば儂の言いたいことは分かるな?」
「出来る限りの努力はしているつもりです。でも、もし望まない結果になってしまったのなら、その時は…」
自然と言葉が途切れた。
「それは自分勝手な考えだぞ。ユウ坊はそれでいいかもしれんが、後に残された者たち、愛紀や夏木、秋音、冬間の娘がどのように思う?」
僕は答えられない。
「命は自分だけの物だけではない。最後まで足掻いて足掻いて足掻き続けろ。それがユウ坊の責任だ」
頭の中に両親の存在が浮かび上がる。もちろん義久さんは両親を失っていることを知っている。話には挙がらなかったが、きっとそういう意味も含んでいると思う。
「…分かりました。出来る限りやってみます」
「儂も人の親だからか、似合わずに説教を垂れてしまったな。どれ、早速鍛錬を始めるとするか!」
ガハハと笑う義久さん。
この豪快さと優しさに僕は幾度となく助けられた。小さい時も、一人戻ってきた時も。春場家は僕を受け入れてくれた。その温かさに甘えてしまえれば、少しは僕も幸せだったのかもしれない。
でも、その好意に寄りかかることはなかった。
もし再び大切な人たちを失うことになったら、という恐怖が心に住み着いていたためだ。
それが功を奏したため…とは言切れないが、何とか今は一人で生きることが出来ている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます