第29話小野寺藍

「眠い」


藍はまどろみの中から目を覚ました。カーテンの隙間から入る光が眩しく、無意識に顔を背ける。


けたたましい蝉の声がずっと鳴り響くせいで、徐々に思考が覚醒していく。鳥のさえずりではなく虫の音が多く耳に入るのはきっと夏の間だけだろう。


藍は頭をずらし、時計をちらりと見た。

7時30分。


「起きないと」


か細い声を零しながら目をこする。


「おはよう、藍」


「おはよう、雫」


藍はむくっとベッドから体を起こし、身体を伸ばす。


「昨日の夜はずいぶん寝苦しかったみたいだね。掛け布団、ベッドから落ちてる」


「まったくだ。毎日毎日、嫌になる」


あくびをしながら、ベッドから立ち上がる。


眠い。低血圧の自分には朝起きはきつい。まだ、ふわふわと眠気が残っている。


「こういう日のプールって気持ち良さそうだね」


「ああ、だからわた………し」


藍はぼんやりとした返しをやめ、天井をゆっくりと仰いだ。


「わぁぁ!!」


藍の思考が一気に覚醒した。その場にへたり込み、目を見開く。


「やっと気づいてくれた。いいリアクションだ、ドッキリを仕掛ける人間の気持ちってこんなだろうね」


雫は呆然としている藍の反応を満足げに天井から見下ろしていた。


「雫さんの話、本当だったんですね」


「私も実は驚いてるんだ。半信半疑だったから」


隣には藍を観察するような視線を送る玖月がいる。


「し、雫!?な、なんで」


「やっぱり、見えてるんだ。すごいすごい」


雫は興味深そうに、藍に近づく。


「ここにどうやって入れて、なんでこんな風に浮かんでいられるのか、という意味での『なんで』だったら藍だって知ってるんじゃない?」


藍はふらりと立ち上がった。


「…………雫、死んだのか?」


たどたどしくもゆっくりと言葉を紡ぐ。


「一体、どうして―」



コンコンコン。



藍が雫に尋ねようとした瞬間、誰かが部屋のドアを叩いた。


「藍、大きな声を出してどうしたんだい?」


心配そうな男の声だった。おそらく、藍の父親だろう。


「もしかして、また霊が入り込んだのか?」


がちゃりとドアノブが回された。


「父さんごめん、なんでもない。ちょっと悪い夢を見て」


藍はできるだけ落ち着き払った声で返した。


「そっか、朝食がもうすぐできるから準備ができたら来るんだよ?」


「わかった」


藍とのやりとりを済ませた父親が部屋の前から離れていった。


「別に入ってきてもよかったんじゃない?たしか君にしか見えないんだよね?」


雫はノックされたドアを眺めながら言い放った。


「それじゃあ、ちゃんと雫と話せないだろ?」


藍はベッドに腰かけると大きく息を吸い、一気に吐き出した。


「………少し落ち着きたいから5分間だけ一人にしてほしい。それに着替えたいし」


よっぽど動揺しているのか、心臓が大きく脈打っているらしく呼吸が荒い。

藍の首筋にはうっすらと汗が滲み出ていた。


「わかった。じゃあ、5分後に」


雫は手を軽く振り、外に出た。



◇◇◇



「それにしても入れてよかったよ。もしかして入り口あたりで弾かれちゃうのかなぁって思ったから」


「弾かれる?」


「だってここ神社だから」


雫は軽く手を広げ、視線を上部に向ける。視線の先にあるのは境内の前に位置する大きな赤い鳥居だった。鳥居のくすんだ額には『小野寺神社』と記されている。


小野寺神社は市街地の郊外に位置する古い神社。広い敷地内を等間隔に葉の生い茂った木が取り囲み、拝殿の傍には一際目立つ注連縄が張られた神木があった。


そして小野寺神社は昨日、夕刻まで雫が訪れていた場所でもあった。


「私って俗にいう悪霊かなって思うからさ。地獄に逝くし」


雫は鳥居の傍に立ち、首を上方に動かす。

神社は神々が祠れている神聖な建物。効力は穢れを祓い、浄化すると謳われている。

その領域にたくさんの人間を屠ってきた霊が入り込んだら、何かしらの影響ができるのかと身構えていた。しかし、こうして鳥居の傍に立ったり、何度もくぐったりを繰り返しても何の違和感も感じない。


「上司が言うにはこちら側と人間の霊への認識のズレが多少あると聞いたことがあります」


「認識のズレ?それって悪霊って呼ばれる存在の正体って基本、あのカゲオチだったりする?」


「かもしれません」


玖月も鳥居を見上げながら呟いた。


「それにしても、驚きました」


玖月は視線を藍の部屋にゆっくりと向ける。


「驚いた?あの子の背の低さに?」


実は小野寺藍はかなり小柄な少女だった。

140センチより少しある程度の背丈で藍と同学年の生徒は必ず目線を下方に向けながら対面している。背丈だけではなく、顔立ちも幼い。水分を含んだ大きな瞳にうっすらと赤みを帯びた頬。

柔らかな長い髪質は寝起きのためか寝ぐせがいくらかついていた。


「私、初めて見たとき小学生だと思ったんだ」


「違います。あなたと話をしたことについてです。僕、初めて会いました。「視える」人間はかなり少ないので。しかも言葉も交わせるほどだなんて」


藍が見えていたのは雫だけではなかった。隣にいた玖月にも視線を移してもいた。


「前に話してくれたんだ。幽霊が見えるって。さっきも言ったけど、それを聞かされた時半分ぐらいしか信じていなかった。私、幽霊とかお化けはいたら面白そうだなっていう程度の認識だったから」


藍の霊視を話してくれた時の印象はただ単に「面白そう」だけであった。しかし、一時の興味で真偽を確かめようと思うほどの頓着は雫にはなかった。


「そんな幽霊に自分がなっちゃうなんてさ」


雫は皮肉めいた笑みを浮かべる。


「あなたと会って、本当に色んな初めてを経験しますよ、生きていた時でも今でも」


玖月は雫の隣に並び、静かに語った。


生前、雫を目にした瞬間、生まれた初めて痛いくらいに心臓が脈打った。

初めて、汗だくになりながら全力疾走というものをやった。

初めて、人の名前を覚えたいと思った。


送り人となってからは淡々と業務に勤しんでいたが雫と再会してからは、日を追うごとに目まぐるしくなっている。


初めて、狭間から地獄に逝く人間を現世に戻した。

初めて、規則を破った。

初めて、霊と話す人間を見た。


こんなに長く、一人の霊と一緒にいるのも初めてだ。


「そう?」


「悪い意味でのほうが大きいですけど」


「あらら」


「それで、一体どうやって協力を取り付けるんですか?彼女はあなたが殺し屋だというのは………」


「もちろん、教えてない」


「じゃあ、教えるんですか?」


「まさか、そんなことしなくても協力させることはできる、たぶん」


藍の能力が自分たちの状況を改善してくれるかもしれないと思い、雫は藍のもとにやってきた。


雫が藍の部屋のほうに目を向けると窓が少し開いたのが見える。おそらく、もう部屋に入ってきてもいいという藍なりの合図だろう。


「私に考えがある」


二人は鳥居から離れ、窓の向こう側にいる藍のもとに向かった。


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