第27話得体のしれない悪寒

朝。太陽光が地上に降り注ぐ頃、蝉が本格的に鳴き始めた。照りつけられたアスファルトにゆらゆらと陽炎が立ち昇り、向こう側の大地と空の境目を朧に霞ませる。


「この体になって一番良いことって、蒸し暑さを感じないことだね。そして眠気も食欲も感じないからとっても便利」


雫は熱で焼かれたアスファルトの道路の線に立ち、手を広げる。


「いや、それはいいことなのかな………はぁ、ドーナツもう食べられないんだよなぁ。食欲は感じないのに心が求めている」


「雫さん、今日のことなんですが」


玖月はがっくりと大げさに項垂れる雫に構わず、話しかけた。


「………せっかく人が珍しく感傷的になってるのに」


「そうですか、それで今日はどうしますか?」


「まぁ、いいけど」


雫は肩を竦めながらくるりと辺りを見渡す。夜闇に包まれていた住宅地は夜明けを迎え、見晴らしをよくさせた。家々の色彩や輪郭も夕刻とは違い、はっきりと視認できる。


「私が死んだ現場に行ってみよっか。朝になった今のほうが周辺のものとかよく見えると思うし」


「そうですね」


ここからそう遠くはない。雫と玖月はさっそく現場に向かう。


移動している最中、数人の歩行者とすれ違うが、当然幽霊である雫に気づく人間は一人もいなかった。


「もし、私がここで裸踊りとかしても気づく人とかいないんだよね」


「するつもりですか?」


「いやいやしないよ。ただ、気づく人間がいたら面白そうだなって。人ごみのなかにずっといたら、霊能力者とかに会えたりして」


「霊能力者はともかく、ずっとは無理ですよ」


雫の軽口に玖月は妙にきっぱりと断言した。


「それって………っ!あらら、面白い人がいる。全身黒タイツだ」


雫たちの行く先に奇妙な人物がいる。

全身黒づくめで、目も口も黒に覆っている。それは人間というよりも人型の黒い影と言ったほうがいいかもしれない。黒づくめはゆらゆらと不気味に動きながらその場を行ったり来たりしていた。


「大道芸人?それとも不審者?こんな朝っぱらから?」


奇妙なことに気づく。あれほど目立った姿形で不気味な動きを繰り返しているのに通行人は、不快な表情もちらりとも見ることもしない。不審者だから関りを避けようとしていると片付けてしまうのはあまりにも妙に思えてしまうほどだった。


「皆、やっぱり関わりたくないから見ないのかな。どう思う?玖月く―」


「そのまま、歩いて」


玖月は低く凛とした声音で呟き、ぐいっと雫の手を握り引き寄せる。


「玖月くん?」


「あれと目を合わせないように」


「………わかった」


雫は玖月の様子から事態がただならないことだとすぐに察し、素直に従う。

二人はすれ違う周囲の歩行者と同じように、黒づくめを一切意に返さないように早歩きで通り過ぎる。


「うっ!」


通り過ぎる瞬間、強烈な悪寒が雫の背筋に走る。何とも言えない得体の知れなさに顔と体が無意識に強張るのを感じた。


(何だ、この感じ)


雫は幾千もの修羅場を潜った殺し屋の中でも特に鋼の心臓の持ち主だった。たとえ、惨たらしい死体の山が降ってこうが非人道的な行いが目の前で繰り広がっていようが、滅多なことでは動じない感性を持っている。感情が未発達の幼児期から言い尽くせないほど凄惨なものを目にしてきたため、恐怖心という感性が一般よりも鈍くなっていた。


そんな雫でさえ心臓が脈打つほどの悪寒。人間が放つ殺気とはまったく違う、言葉には言い表せない気配。


「絶対に振り返らないで」


冷静さを必死で保とうとしていが、玖月も雫と同様に悪寒を感じ取っているようで声音にわずかな焦りが見え隠れしていた。黒い影はそんな二人にまったく反応することなく、ただゆらゆらと揺れてる。二人は背中の悪寒や黒い影の気配が完全に消えるまで足を進めた


黒づくめが完全に見えなくなったところで足を止め、二人は息を一気に噴き出した。


「何だったんだろ、あれ。背中に衝撃が走る悪寒なんて私、久しぶりだったよ」


そう言いながら、雫は見えなくなった黒づくめがいる方向を眺める。

あの姿形、周囲の反応、玖月の行動を統合すると一つの結論にたどり着く。


「あれって人間じゃない、よね?」


「ええ、あれは『カゲオチ』です」


「カゲオチ?」


「まずは………現場に行きましょう」


「いいけど、大丈夫?」


現場に向かおうとする玖月の首筋にはうっすらと汗が滲み出ていた。


二人は雫が死んだ街道で辺りを見回した。しかし昨日3人が雫の遺体を即座に回収し、掃除のプロである穂積が徹底的に処理したせいなのか、わずかな血痕すら残っていない。


「やっぱり何にも残ってないね。見事なまでに」


「ええ、明るくなれば多少の痕跡ぐらいは確認できると思ったのですが」


二人は何も痕跡が残っていないと結論付け、視線をすれ違う歩行者に向ける。昨日、人一人死んだはずの街道を歩行者は何の違和感も感じ取ってる様子もない。いつも通りの日常がその現場にも流れている。

雫はそれを静かに眺める。


「………で?」


「何です?」


「何ですじゃないよ。さっきのあれの説明がまだだったよね」


常に冷淡に振舞っている玖月が黒づくめに遭遇した途端、見るからに焦りを表していた。


「あれは霊の成れの果てです」


落ち着きを取り戻していた玖月はゆっくりと口を開いた。


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