承 俺はゾンビに襲われない

 壊れた車両の外は、ゾンビにまみれていた。積み上がる死体を踏み越え、まだ動くゾンビが次から次へと殺到する。

「どうするんだ。降りるか!?」

「僕に聞くなよ!! クソが、どうしてこんな……! お前も少しは考えろよ!!」

 汗にまみれた端正な顔には、見るに堪えない青筋が走っていた。パニックを起こして、お互いがお互いを罵り合う。

「そもそも逃げようってのが間違いだったんだ。備蓄の存在を知っていたのは俺だけだ。教えてやったのに、お前は、こんな!」

「この車は僕のだ! ローン組んで買ったのに、どうしてくれるんだよ!! お前なんか乗せるんじゃなかった!!」

 しかし時間は止まらない。無常にも進む状況は、我を忘れて罵りあった二人を否応なしに現実へと引き戻す。

 耳障りな音とともに、窓に亀裂が走った。ゾンビが石を持って車を壊そうとしているのだ。ボディはそう簡単に壊れることなど無い。しかしサイドやリアのウィンドウは、緊急時の脱出口にするために意図的に耐久力を落としているのだ。それが仇になった。

「こうなったら賭けだ! いっせーので飛び出すぞ!!」

 俺の言葉に、しかし中山は首を横に振る。

「……君が先に出てけよ。これは僕の車だ。君が囮になってくれよ!」

「囮がなんの役に立つ!?」

「知らないよ! 僕は死にたくないだけだ!!」

 掴み合いの喧嘩を繰り広げている間にも、小さな穴は広がっていく。時間がない。イチかバチかで俺が飛び出そうとしたその時、遂にガラスを砕いたゾンビの腕が中山の頭を鷲掴みにする!!

「ああ、チクショウ! クソが!!」

 悪態と共に腕を振り払うも、数には打ち勝つことができない。遂に彼は車の外へと引きずり出されてしまう。

「ああ、悪かったよ! 助けてくれ! 僕が悪かった!! 謝るか

 彼の姿が見えなくなる。耳鳴りの中に嫌な音が混ざっていく。噴き出す血しぶきや飛び散る彼の遺物。ああ、次は俺の番だ。

 しかし、ゾンビはなぜか俺にはなにもしてこなかった。中山を食い散らかして満足したのか、俺を置いてどこかへ立ち去っていく。

 わからない。わからないが、とにかく助かった。

「俺と中山、なにが違ったんだ……」

 相手を売り飛ばそうとしなかったから、神が助けてくれたのか?

 いいや、そんなことはありえない。良心に祝福をもたらす神が実在するのであれば、こんな事件は起きなかったはずだ。このゾンビ騒動で死んだ人間は全員悪人だった――なんてことはないだろう。

 であれば、違いは……。

「……このメットか」

 中山は運転するためにメットを外していた。しかしその必要がない俺は外していなかった。メット越しでは、ゾンビが人間を判別できないというのか?

 とにかくこれは幸運だ。会社に支給された防護服が、こんな時に命運を左右するだなんて思わなかった。

 安心したら腹が減る。思えば、今朝からなにも食べていなかった。俺は保存食を取り出し、車の中で隠れながらコソコソと食事を摂る。少しでも防護メットを外す時間が短くて済むように、食料を口に運ぶ瞬間だけメットを脱ぐ。すぐにメットを被り咀嚼して……こんな慌ただしい食事をしているからか、あるいは会社がケチったからか、保存食はまともに味がしなかった。肉の味が恋しい。



 それから俺は、破棄されていた自動車を拝借し、来た道を引き返していた。カーナビを起動し、近くのガソリンスタンドを探す。動かすことのできた車は、ガソリンのが尽きかけていた。会社まで戻れば俺の車があるのだが、軽自動車なので積載量が心許ない。備蓄はできる限り運び出しておきたかった。

 最寄りのスタンドは、観光地と市街地のちょうど中間地点。思ったよりも近くにあったため、なんとかガス欠にならずに済む。

 スタンドに着くと、生き残りが一人だけ居た。

「ああ、よかった! 久々に人と会えた!」

 喜ぶ女性はこのスタンドのバイトらしい。恐らく大学生ぐらいで、名前は三浦。掃除に手間取って泊まり込んだ結果、こんなことになってしまったようだ。これで正規の手段でガソリンを補給できる。

「ちょうど良かったです。ウチまででいいから、乗せてもらえませんか? バス止まってるみたいで帰れなくて。お代はタダにしておきますので」

「いいぜ」

 別にカネに困っているわけではないが、女子大生を見捨てるのも嫌なので了承した。彼女はパッと明るく微笑む。

 それから、少しばかり話をしながらガソリンを入れた。どうやら彼女はプチ家出中らしく、バイトで生活費を稼いでいるらしい。しかし今回の騒動で、久しぶりに親の顔が見たくなったそうだ。

「電話したら、家に立て籠もってるみたいで、すぐに帰ってきなさいって……あんなに嫌いだったのに、今は生きててくれてほんとに良かったって思うんです」

 良い話だ。素直にそう思った。絶望に溢れた世界の中でも、確かに人情は生きている。俺は人情物のドラマが大好きなので、罵り合うよりこっちの方が性に合った。

「ところで、そのマスクはずっとつけてるんですか?」

「ああ。さっきはこれのおかげでなんとか生き延びたんだ」

 そんなわけで給油を終え、彼女の家へと向かう。幸いにも、彼女の家はそこまで離れていなかった。家出中であっても、無意識では家族を求めていたのだろう。

「ママ? 親切な人が家まで乗せてってくれるって」

 彼女の声は弾んでいる。良いことをした。

 家につくまでの間、彼女は良心と通話を続けていた。だから、彼らの身に降り掛かった不幸も、しっかりと把握することになってしまう。

「絵美里、逃げろ!」

「パパ!? どうしたの!? パパ!?」

「ウチはもう駄目だ! 絵美里は逃げろ!!」

「パパ!? 待って!? パパ!?」

 通話はどこで途切れてしまった。

「ねえ、ヨシミチさん!? パパどうしちゃったの!?」

「……」

 今の彼女にかけてあげられることはない。俺は無言で目的地を変更する。

「ねえ! ちょっと待ってよ! ウチに帰るんじゃなかったの!?」

「帰れないだろ、あれじゃ」

「なんでよ!」

 彼女が掴みかかってきたので、俺は慌てて車を止めた。泣き叫ぶ彼女の怒声を受け止め、怒りが収まるのを待つ。今の俺にしてあげられることなどなにもなかった。

 やがて彼女は現実を受け止める。泣きはらした顔を上げ、俺に言う。

「ごめんなさい、ヨシミチさん……せっかく助けてくれたのに」

「いいんだ」

 それよりも俺は、彼女への言いしれぬ感情を隠すのに精一杯だった。こんな状況だと言うのに、身体の何処かが彼女を強く求めている。自分の邪な感情を無理矢理に押さえ込み、努めて紳士的に俺は言う。

「今日の寝床を探そう。幸いこのあたりにゾンビはいないようだ。どこか、隠れられる場所を探す」

「じゃあ……あそことか、どうかな」

 彼女が指さした先には、ラブホテルがあった。確かにあそこなら車ごと一緒に隠すことができる。しかしどうにも気まずかった。

「……まあ、いいだろう」

 背に腹は代えられない。二人はラブホテルへと向かう。

 案の定だった。彼女は頬を赤らめ、俺に寄り添う。しかし分厚い防護服は、彼女の体温を通すことはなかった。

「寂しいの。ここなら安全だしさ……」

 彼女へ抱いた不気味な感情。それを押し殺すように、俺は言う。

「嫌だ。俺はこれを脱ぎたくない」

 これもまた本心だった。中山の断末魔が、未だに耳に残っている。ああはなりたくない。感情の奔流が、防護服を脱ぐなと言っている。

「いいじゃん。顔ぐらい見せてよ」

「駄目だ。絶対に駄目だ」

「……意気地なし」

 どれだけ罵られようと構わない。今は生き残ることと、彼女の身の安全が優先だ。それに、こんなおじさんと同衾してしまうなど彼女の将来のためにならない。必死に自分に言い聞かせる。

「もういい。知らない」

 その晩は、なんとか何事もなく過ごすことができた。

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