この世界で俺だけがゾンビに襲われない

抜きあざらし

起 ゾンビとの遭遇

 それはある朝のことだ。

 いつものように新薬を研究していた俺は、どうやらデスクで眠ってしまっていたらしい。散乱した書類を涎でベトベトにしながら目を覚ました俺は、その書類が使用済みのものであることを確認して安堵した。

 どうやらここに居るのは俺だけらしい。変な姿勢で寝ていたからか随分と重くなった身体に鞭打ち立ち上がる。俺ももういい歳だというのに、こんな情けないことをしてしまうとは。笑い話にもできたもんじゃない。

 粗相の跡を隠すように、俺は廃棄の決まった書類をシュレッダーにかける。唾液に塗れた書類は直接触りたいものではなかったが、幸いにも今は防護服を着ていた。関節を鳴らし、窓の外を見やる。昨日は土曜日だったから、今日は日曜日だ。時刻は正午を回っている。折角の休日が台無しになってしまった。慌てて部屋を出ようとして、ある違和感に気づく。

 外があまりにも静かだ。

 確かにここは市街地から離れた山の中だ。しかし近くには高名な観光地や隣県へと通じる幹線道路がある。休日であればひっきりなしに車の往来がある道だ。こんなに静かなわけがない。


 嫌な予感がした。


 俺は直感的に防護メットを被り、外に出る。幹線道路には、が静かに佇んでいた。そこに人の姿はない。あるのは車と鳥のさえずり。一目で異常な光景だとわかった。俺は慌ててデスクに戻り、パソコンを立ち上げる。SNSで県の名前を検索――阿鼻叫喚とは、まさにこんな時のことを言うのだろう。

 スクロールを繰り返せば繰り返すほど、そこには狂気にまみれた画像群が広がっている。一夜にして荒廃した街並み。逃げ惑う人々。そして――ゾンビの大群だ。

 黄土色に変色した肌に、崩れ落ちた肉体。本能のままに突き進む腐乱死体と、それに食い殺される人々。パニックホラーもあわやの光景が、モニターの光を通して俺の目に突き刺さる。まるでこの世の地獄としか形容できないような光景が、画面の向こうに広がっていた。

 情報の数が違いすぎる。ドッキリや撮影の類ではないだろう。違うメディアで検索しても結果は同じ。○○県○×市でゾンビが大量発生なるネットニュースも見つかった。原因は現在調査中だという。当たり前だ。こんな騒動の中で冷静に状況分析などできるわけがない。こうなったらもう真実ごと全て焼き払うしか無いだろう。

 さてさて。そんな中で俺は勤勉な精神に助けられてしまったわけだが……。

 これから、どうしたものか。

 とりあえず、防護服は脱がないほうが良いだろう。大方こういったものはウイルスが原因なのだが、感染経路がわからない。もっとも、空気感染するタイプであればこんな防護服などすぐに意味を成さなくなってしまうのだが……。少なくとも、厚手の生地のおかげで虫やネズミは十分に防ぐことができる。この二つが防げるならば、後は直接襲われなければ大丈夫だ。

 さて、次は今後の行動についてだが……これは二月ぐらいなら問題ないだろう。事務所には災害時用の食料が備蓄されている。これを無菌室に持ち込んで籠城すれば、生きながらえることぐらいできるはずだ。電気が落ちると厄介ではあるが、近辺の電力は隣県の発電所から供給されているので、被害がこの範囲で収まっている間は多分大丈夫だ。多分。

 しかし、そうなると問題は二月後。備蓄の食料が尽きてからだ。

 現在より二月以内に救助が行われるか。あるいは、事態が沈静化するか。他力本願で期待できるのはここまで。それ以外を求めるのであれば、自分で道を切り開いていくしかない。考えろ俺。

 それにしても一人なのは心細い。昨日会社に来た時はもう警備が解除されていたから、何人か残っている可能性はあるのだが……。

 未だ重い体で社内を探索する。防護服のせいもあってかとても動きにくいのだが、しかし今後のためにもこれを手放すことはできない。糞尿も無菌室で済ませて外に放り出す予定なのだから。

 しばらく探索を続けると、同じ防護服姿の人間が一人だけ見つかった。

「お前も助かったみたいだな」

「ああ。この服のおかげなのかは知らないが……」

 声に聞き覚えはない。お互いにゴーグル越しでは人相も判別することができず、相手が誰なのかを知る手段はなかった。

「俺は研究部の奈良だ。あんたは?」

 まずは自己紹介から。俺が名乗ると、相手は懐を探ろうとして失敗した。名刺でも出すつもりだったのだろうか。

「僕は営業部の中山だ。しばらく探したが、僕ら以外には誰も居ないらしい」

「なるほどな……」

 二人でしばらく話し合って、一度街に出てみようという話になった。二人で分け合えば、ここの食料は一月ともたない。そもそもが災害による数日間の退避を目的とした蓄えだ。救出までの間を生きながらえるための蓄えで今後の人生を賄うことはできない。

 ならば、極限状態で食料の奪い合いが発生する前に状況を打開しようというのが二人の出した結論だった。

「僕が車を出そう。……苦労して手に入れた車だったからね、捨て置くのには気が乗らなくて」

 彼の車は後ろの駐車場に置いてあるようだ。二人は備蓄庫から運び出せるだけの保存食と水を車に乗せて、会社の外の世界へと向かった。



 逃げるなら県外だろう。

 車線が埋まっていたので、仕方なく反対車線を進む。恐らく前方で事故が起きて、渋滞になったところを車の主が乗り捨てていったのだろう。それが次から次へと連鎖して、この有様……といった感じ。

 しばらく進んでいると、どうやら事態はそこまで甘くなかったことが判明する。反対車線まで車で埋まっていたのだ。この混乱であれば、まあ仕方ないとも言える。

「どうしようか。引き返しても、使えそうな抜け道はないし……」

 中山が首をひねる。運転するため防護メットを脱いだ彼は、営業職に相応しい清潔感のある男だった。ともすれば軽薄に見えてしまうような甘いマスクは、しかし端正に切りそろえられた頭髪によって礼儀正しい印象へと昇華されている。状況のせいで、髪のセットは崩れているようなのだが。

「でもここから先だって結構あるんだ。歩いていくのは嫌だぞ」

「僕もお断りだ。しかし、そうなると……かなり引き返さないとマズイかもなあ。どこも混んでるだろうし、一番使えそうな小道は……」

 彼がナビを操作している間に、俺は周囲を見渡していた。確かここは観光地につながる分岐点だ。観光地であれば、生き残った人間がもう少しいるかもしれない。あるいは、逃げてきた人だとか。

「助けてくれ!!」

 悲鳴が聞こえてきたのは、そんな事を考えている時だった。

「おい、誰か居るぞ」

「わかってる。でも迂闊に近づけないだろ。ゾンビが居るかも知れない」

「かもしれないけどさ……」

 見捨てるか? どうにも良心が痛む。しかし今後も似たような状況に陥る可能性は高い。その度に人情に流されていては、命がいくつあっても足りないだろう。

「そうだな。すぐに逃げよう」

 しかし中山は言うのだ。

「いや……間に合わなかったみたいだ」

 気づけば目の前にはゾンビの大群があった。先程助けを求めていたであろう男は、ちょうど解体されているところだ。南無阿弥陀仏。

 しかし俺達も大ピンチ。車とゾンビに囲まれて、もはや逃げ場などどこにもない。

「……この車のボディと馬力なら、まだ行けるかもしれない」

 中山はそう言ってアクセルを踏み込んだ。黒塗りの高級車がエンジンを唸らせる。ゾンビの大群めがけて全速前進!! 悪いゾンビをやっつけろ!!

 腐りかけたゾンビたちの肉体は脆く、乗用車の突撃を凌げるようなものではなかった。次々とゾンビをなぎ倒し、突き進んでいく。気分はさながらゾンビ映画の主人公だった。

「このまま駆け抜けるぞ!」

 中山が叫ぶ。

 その時だった。

 右前方で、巨大な破裂音が聞こえた。折れたゾンビの骨を巻き込んで、タイヤがバーストしたのだ。勢いに乗っていた車両は激しくスピンし、数多のゾンビを巻き込んで街路樹に激突する。腐肉をクッションにしてなお尋常ではない衝撃が二人の肉体に襲いかかった。

「クソ、高かったのに……」

 キーンという高い音に苛まれた耳を押さえながら、二人は顔を上げる。

 ゾンビに囲まれていた。

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