ロボット破壊指令

 夕方になる前に帰ろうと走り出した車は山近くの駐車場じゃなく、とあるアパートの前で停車した。臨時で瞳さんが部屋を借りたそうで登山口にも近い位置にある。

「この荷物の量で山登りは辛いから、服とかは置いといたらいいわよ。いつでも来て部屋を使っていいからね」

 そう言って手渡してきた物は鍵だった。瞳さんの部屋の、合鍵。

 それを見て、涙が溢れる。瞳さんが慌てた。

「えっ、急に何? 泣くのは困るって! 違いますよー、いじめてませんよー!」

 瞳さんは血相を変え山の方に向かって言い訳を始めたので私も習った。

「ハイ、いじめられてません! 部屋の鍵を預けてくれたのが嬉しかっただけなんです。自分の家族からも閉め出された私が、生活に関わるのを許してもらえることがどんなに嬉しいか……! 信じられないくらいなんですよ」

 楽しい記憶でトラウマが上書きされるような脳の仕組みならよかった。何もかも瞳さんに置き換えてしまえたら、いちいち何か思い出して硬直してしまうようなこともなくなる。

「瞳さんと出会えて、良かったぁ……!」

 そのあともグズグズ泣いていたら手を引かれて部屋の前に移った。ここが瞳さんの部屋らしい。

「神様のことさえなければ一緒に住んでもらいたいくらいなんだけどね。実感できないならホラ、自分で試してみなさい」

 今受け取った合鍵で自分で開けてみろ。そういうことらしい。

「……いいんですか? 本当に? 言っときますけど私、あれこれ嫌な想像してますよ。大喜びで中に入ったらうちの家族がいて『ドッキリでしたー』って笑われるとか」

「そんなことしたって何にもならないでしょう」

「笑いは健康や美容に良いと聞きます」

「凄いところからこじつけるわね。いいから、さあ」

 迷って震える手を掴まれ、握っていた鍵を鍵穴へと差し込まれた。

「なんて恐ろしいことを! これじゃもうあと戻りできないじゃないですか」

「自分の部屋の玄関先であと戻りも何もないわよ。さあ、私にめいちゃんを招待させてちょうだい」

 急かされて観念し、覚悟を決めて鍵を捻る。すると、固い感触が返ってくるだけで鍵は回らなかった。やっぱり騙されたと知って地獄の底へ落ちた気分になる。

「……さあ、笑いものにしてください。他でもない瞳さんの美容と健康のお役に立てるなら騙される嬉しさもあるというもの。私という存在が瞳さんの体の中を巡ってお肌の張りを――」

「ええっ? ちょっと待って! おかしいな……。あっ、ここ私の部屋じゃない! まだ一晩泊まったばっかりだから憶えてなくて間違えただけよ。ゴメンめいちゃん、気をしっかり! あなたが落ち込むとエラいことになるのよ!」

 その場に崩れ落ちた私を瞳さんが抱きかかえ、隣の扉の前へと運ぶ。力の入らない腕を取ってもう一度、鍵が鍵穴に差し込まれた。

「大丈夫、今度は合ってるから」

 もう疑う気力も湧かない。素直に従い鍵を回すとカタンと音が鳴った。

 瞳さんは嘘をついていなかった。さっきのは本当に部屋を間違えただけだったとわかって、気分は地獄から急上昇する。

 嬉しくなり掴んだドアノブが――手前に引けない。ガチンと固い手応えを残し扉はビクともしなかった。開かない。

「もうムリです。上げて落ちた勢いで地獄の底が割れます」

「違うのよ! 出がけに鍵をかけ忘れていたのよ! 元々開いてたのを閉めちゃっただけで――ホラ、鍵はちゃんと合ってるんだから」

 鍵が逆側に回って、もう一度カタンと音が鳴る。今度こそ扉が開いた。

「そんな、閉め忘れなんて大変じゃないですか。瞳さんの部屋なら誰でも入りたがるに決まってます。中はきっと泥棒と変質者で満員御礼ですよ」

めいちゃんにとっての私って財宝か何かなの? 誰も来やしないわよ。どうぞ、入って」

 開かれた扉を抜け、「侵入者から瞳さんを守って代わりに死ななければ」と身構えながら踏み込む。

 中はガランとしていた。手前のキッチンも、開け放たれたガラス戸の向こうに見える部屋にも何ひとつ物が見当たらない。

「凄い……。徹底して何もかも盗まれてる。これは相当な瞳さんのマニアによる犯行ですよ。私じゃありません。盗品を分けてほしいくらいです」

「いや昨日引っ越したばっかりで何も用意できてないだけよ。ガスも電気もまだ通ってないくらいなんだから」

「ああ、そういうことですか。よかった。……おじゃまします」

 玄関が狭いので靴を脱いで場所を明け渡すと、そのままフラフラ奥へと進んだ。物陰に潜んでいるかもしれないので一応警戒心は手放さずにいたものの、誰もいないとわかり改めて部屋の様子を眺めてみる。

 小さなキッチン。ユニットバス。奥にフローリングと畳の部屋が一つずつ。窓は大きいけれど裏が山なので日当たりは良くない。家具らしいものは無くて、畳部屋に毛布とミネラルウォーターの大きなペットボトルがある。それと壁に昨日見た白い着物とスーツが掛けてあるだけだった。

「……昨日の夜、ここに泊まったんですか? これじゃ私のほうが良い暮らししてますよ」

「言われて見ればそうね。でもここに定住するって決めたわけじゃないから、家財道具を入れるのはまだちょっとね。ああ、心配しなくても平気よ。めいちゃんを置いてフラっといなくなったりはしないから」

 一瞬不安になったところをフォローされてホッとして、それから二人で外へ出て車の荷物を部屋の中へ運び込んだ。瞳さんの部屋なのに自分の荷物が多いことが申し訳ないような、嬉しいような。

「押し入れに吊るすにしても縦が足らないから、衣装ケースは買ったほうが良さそうね」

「それより瞳さんの物を買うべきなのでは」

「眠るだけの用に足りればいいわよ。何が無くてもあの神社に日参して、ご飯とかはそっちで一緒に済ませるつもりだから。……そういえばめいちゃん。私が頼んであれこれ持ち込ませる前から寝具だけは神社に揃っていたわよね。あの布団は自分で買ったの?」

 買い物袋を開きながら、ふしぎそうに尋ねられた。私の一番の財産である寝床は他から浮いて見えるほど立派なので、さぞかし奇異に見えたことだろう。

「買うなんてまさか、あれは拾ったんですよ」

「拾った? 新しく見えたけど」

「ハイ、役場の粗大ごみ置き場で。『何か無いかなー』って期待してたら最初は無かったんですけど、すぐあとにもう一度寄ったら見つけたんです。掘り出し物でした」

 思い出しながら打ち明けると、瞳さんは何か考えている風に鼻を鳴らした。なんとなく気になる。

「あの、もしあれを気に入ったのなら差し上げますけど。この毛布と交換なら喜んで」

めいちゃんのほうこそ、それ気に入ったの?」

 さっきから私は瞳さんの家の唯一の家財である毛布に包まれている。簀巻きにされて縛らわれているわけじゃなく、自分で好き好んで巻き付けた。

「瞳さんの匂いがするような気がするので。瞳さんの匂いはまだ憶えてないんですけど」

「普段車に積んどいてそのまま寝泊まりする時に使ってるやつだから匂いくらい付いてるだろうけど……。カビ臭そうで気になるからやめてね」

 そう言って剥ぎ取られてしまった。瞳さんは時々容赦が無い。

「匂いを嗅ぎたいなら直接来てくれたらいいのに。ホラ、おいでー」

 腕を広げて招かれれば私は迷わない。喜んで飛び込もうとして、思い留まった。

「瞳さんにくっ付いてリラックスしていたら時間を忘れてしまいそうです。そうなると神社に戻る時間が遅れて、また神様が荒れるんじゃないかと。昨日よりは心配されてないと思うんですけど、今日は離れてる時間がずっと長いですし」

めいちゃんって冷静でたまに驚かされるわ」

 自分ではよくわからないけれど、もしそうならそれは多分、否定の声が頭に鳴り響いているせいだと思う。

 「私なんかが甘えていいのか」と常に意識のどこかから訴えられている。瞳さんが仕事でしてくれていることだから拒否反応を押し退けることもできるけれど、あくまでも神様のご機嫌を窺う一環としてのことなので優先すべきはやっぱり神様だ。

 私の希望としても早く帰って神様に会いたい。瞳さんがこんなことをしてくれたとか、どんなに嬉しいかなんて話を聞いてくれる相手は他に当てがない。それに神様とはいっても見た目が小さな子供で、エピソードも聞かされたから一人にしているのはかわいそうな気になる。

 山に登るならと運動靴に履き替え、だけど服は「もうちょっと着ててよ」と頼まれたのでそのまま。買った部屋着と下着の他に小物を袋に詰めて部屋を出ると車に乗り込んだ。

「あの……もしご迷惑じゃなかったら、掃除とかしに部屋に来てもいいですか? 瞳さんのお役に立ちたいので」

「あっ、そういえば掃除道具のことをさっぱり考えてなかったわね。やだ、家事に無頓着なのがバレちゃう。ダラしないおねえちゃんで幻滅する?」

「むしろ支える余地があると付け込めて嬉しいです」

「アハハ、ありがと。でも私は本当にズボラだから、そんなこと言うと本当に頼り切りになっちゃうわよ? ……いっそ掃除ロボでも買おうかしら。あれだけ床に何も無いと使い甲斐があるわ」

「わ、私の居場所が機械に奪われる……! テクノロジーを、文明を破壊しないと……!」

「何を急にSFチックなこと言ってるの」

「神様の祟りって機械が相手でも有効でしょうか?」

「はやまらないで。掃除ロボよりめいちゃんのほうが可愛いから大丈夫よ。居場所なんて無くならないわ」

 生まれかけた絶望を未然に防いでもらって安心していいのか、〝今後も可愛いと思われる為の努力〟について悩んだからいいのかわからない。

 混乱している間に動き出した車は答えを出せないうちに馴染みの公園駐車場へ到着した。聞けば役所に申請してこの駐車場の使用許可を取っているらしい。手回しが良いのは「大人だから」というより「瞳さんだから」だと思う。

 そして瞳さんの手回しの良さについて、私はまだその底を知らずにいた。



 山道を進み神社に帰り着いたところで、出かけた時には無かった机と椅子が目に入った。

 他のアウトドア用品とはデザインが一線を画す、カフェに置いてありそうな上品な佇まいは机と呼ぶより「テーブル」で、椅子と呼ぶより「チェア」といった趣がある。念の入ったことにレンガ調の床パネルまで敷かれていた。

「なんです、これ」

 椅子は一脚。見つけた瞬間に悪寒で体を縛られ固まっていたら、いつの間に中へ入ったのか姿を消していた瞳さんが神社の中から出てきた。しかも服まで着替えている。黒のロングスカートのワンピースに白いエプロン。いわゆるメイド服の衣装だった。嫌な予感はうなぎ上りに高まっていく。

「では本日の甘やかしの締めくくりとまいりましょうか、お嬢様?」

 どうやら私に服を着替えさせなかったのはこれが目的らしかった。今の格好のほうが〝お嬢様〟としてもてなしを受けるに相応しい。ジャージではいけない。

 私としては、錯乱する他なかった。

「ああぁ! 瞳さんは徹底的に攻めますねェ! でもそういう服もとってもよく似合ってて素敵です!」

「お褒めの言葉、嬉しく存じます。さあ、どうぞお掛けになってくださいませ」

 椅子を引いて勧められたら座らなくてはいけない。瞳さんがそれを望んでいるならと、今日はなんでも受け入れてきた。でも今度のこれはちょっと違う。

「あのっ! これはいささか行き過ぎかと! だってこれもう〝優しさ〟とか〝甘やかし〟とか超えちゃってるので。奉仕ですよ奉仕! 私はそんなことされる身分じゃ――わぁっ、神様可愛い……!」

 瞳さんに遅れて出てきた神様もメイド服姿をしていた。瞳さんの衣装よりリボンやフリルが大きくこしらえてあってとびきり愛らしい。膨らんだスカートを持て余しヨタヨタしているところも相まって視覚で癒される。

「ちはやふる神の甘やかしを受けるのじゃー」

 ティーポットを手にした神様は背がテーブルに届かないので瞳さんに脇から抱え上げられて、器用にカップへ紅茶を注いでいく。気持ちが落ち着く香り、だけれど今の私には効かない。むしろ逆効果だ。

「人権……? これは、人権? 国連はここまで口出しするんですか……?」

 ふたりに見惚れたのも一瞬のことで、だんだんと胃が痛くなってきた。居たたまれなさが許容の限界を突破している。

「のう八木、めいは苦しんでおるようじゃが? お主こうすれば喜ぶと言っておったではないか」

「少し調子に乗り過ぎたところはあったかもしれません。『めいちゃんの反応が面白い』とか感じたら、いじめっ子と変わらないですよね……。反省します」

「ほほう、つまり神様にめいをいぢめる片棒を担がせたと言うわけじゃな?」

 神様に責められて、振動が足元から伝わってテーブルの紅茶が揺れるほど瞳さんが震え始めた。

 これこそ私にとって一番困る流れだ。止めなければ。

「ああいえ、お気持ちは嬉しいんですよ? 嬉しい……嬉しいかなー?」

「嬉しくなさそうじゃが」

「えーっと、私は自分一人で良い思いをしたいわけじゃないんですよ。みんな平等なのがいいかなーって……ギリギリ譲歩してそこまでで勘弁してください。『平等』を求めるなんて、私にとってはかなりの冒険なんです」

「ふむ、めいらしい申し立てじゃの」

 なんとか釈明を繰り返すと神様の不審は和らいだ。今がチャンスだ。

「神様、今日瞳さんがどれだけのことをしてくれたか聞いてください。まず出かけた所はですね――」

 瞳さんの仕事に貢献する為、一連の出来事を報告した。いかに瞳さんが私の世話を焼いてくれたか。いかに私が押し寄せる幾多のプレゼントとサービスを乗り越えてきたか。

「――という風に、とっても恐ろしい目に遭いました。……ああっ、そうじゃなくて……とっても豪勢なおもてなしを受けました」

 訂正を含めて話を終えると、神様はまん丸の目を柔らかく細めて緊張する瞳さんを見やった。放つ言葉は労いの響き。

「八木、万事よう取り計らってくれたようじゃの。神様満足!」

 瞳さんは脱力してその場にへたり込んだ。前にも見た光景だった。

 返事ができないようなので受け答えを代わる。

「そりゃもう凄かったんですよ。この大きな恩を返す為には何度か生まれ変わってローン返済するしかありません。早速一回目を……ぎゅぅ」

 自分で自分の首を絞めると、二人が慌てふためいた。瞳さんが不自然にすら見える一瞬の動きで立ち上がって、手首を掴まれる。

「なにやってるのめいちゃん、やめなさい!」

 私は物理的にも瞳さんには逆らえない。二才下くらいでないと体格が見合わないので取っ組み合いになると振り解くのは難しかった。

「だってこのまま生きてたら! 恩の負債が溜まるばっかりじゃないですか! いつまでも支払いが終わらないじゃないですか!」

「八木ィ! めいの奴、壊れたままでむしろ悪くっておらぬか? どうにか致せ!」

「ただちに致します、お任せを」

 鼻の頭が触れそうなほどの近さに瞳さんの真剣な顔がある。末期まつごの景色としてはこれ以上を望めない。このあとに何を見たところで極楽浄土ですら霞む。

めいちゃん、おねえちゃんとお話ししましょう。今生こんじょうでは返す恩より受ける恩が大きいから来世で――っていうことでいいのよね?」

「そうです。なにしろ私ですので、できることもたかが知れています。とにかくもっと良い条件の来世をつかまえないことには元本がんぽんが返せません。そう都合良くいくかは不安ですけど、可能性がある限り挑戦すべきですよね、人として」

「私に優しくされた恩を返すために、もっと良い人生でやり直そうという主張なわけね」

「そういうわけです」

「でもそれはムリよ。だってもっと良い人生に産まれちゃったら、きっと当たり前に他の人からも優しくされるもの。今度はその人たちに恩を返しているうちに人生が終わっちゃうわよ? そんなこと何回繰り返したって変わらない」

 言われてハタと気が付き、ちょっと考えて「ああ」と唸った。

「……瞳さんは頭が良い」

 生まれ変わった先での他の人のことを考えていなかった。私はつくづく周りが見えていない。

「でもそうすると私はどうすればいいんでしょうか」

「来世に賭ける前に、今生の間はとりあえず部屋の掃除をしてもらいたいわね。約束したでしょう? どうせ寝る以外はほとんど外に出てるんだし。そうね、週に一度で充分じゃないかしら」

 はたして約束だったかは疑問があるけれど、これでいよいよ死ねなくなった。完全に言いくるめられて、しかも恩返しが週に一度の掃除ではいつまで経っても終わらないことが具体化された。

「私には……恩返しをする権利もないってことなんでしょうか」

 大変ショックな現実に動揺していたら、ガッと肩を掴まれた。

「あのね、めいちゃん。大切なことを言うわよ。恩っていうのはね……返さなくていいの」

 何を言っているのかわからない。私を庇いたい一心だとしてもメチャクチャだ。そんなわけがない。

 社会は支え合いで成り立っている――という美しい建前がある。ただし実際の社会構造はピラミッド型になっているので格上から格下への支えはない。奉仕や献上を強いるうえで、そういう幻想を信じなくてはいけないという都合があるだけ。「いつか返してもらえる」と夢を見るからこそ下は上に尽くせる。

 最上位の人間なら無視することもできるかもしれない。でも私のような最底辺――誰に対しても一方的な奉仕と献上が義務付けられている立場でそれは許されないことだ。

 怪訝な顔をしてしまったようで、瞳さんはふっと笑って鼻を擦り付けてきた。

「返す返さないを気にしたらそれは単なる〝損得〟よ。恩っていうのはもっと特別なことでしょう? だからこそめいちゃんは『返せない』と思ってる」

 言われてみればそうかもしれない。来世で豊かな財力を手に入れたら買ってもらった金額は瞳さんに返せるけれど、私が瞳さんにしてもらったことはお金と労力を払ってそれで足りるとは思わない。

「……一体どうすれば?」

「恩って言うのは自力ではどうしようもない溺れる人を救う助け舟。めいちゃんが辛くて困っていたから私は助けた。だからめいちゃんも誰か気になる人がいたら、その人を助けてあげてね。そうやって世の中は回ってるの」

「それで、いいんですか?」

「ええ、いいのよ」

 確かに、瞳さんが私と同じくらい追い詰められて、そこを私が救わない限り同等の奉仕をしたことにはならない。でもそんなことはあり得ない。

(私が信じる教義ルールは……間違ってるのかな)

 つい項垂れると、服の膝の辺りを掴んで泣きそうな顔で堪えている神様がいた。

めい、馬鹿な考えは捨てるのじゃ。頼む、頼むから」

 とても辛そうだ。なら私は助け舟を出さないといけない。私には抱き締めるくらいしかできないけれど、それでいいのだろうか。


「そりゃ自殺はいけませんよね。人として」

 そのうちいつも通り思考停止して簡単な結論に飛びついた。二人がホッとした顔をするのを見て、これで合っていたと私も安心する。

「ごめんなさいね。私がやり過ぎちゃったせいでパニックになったんでしょ。ちょっとこういうの着てみたかった、っていうくらいの軽い気持ちだったのよ」

 瞳さんと二人でテーブルと私一人分しかない邪悪な椅子を余所へ避けて、タオルケットを敷物に床パネルに足を投げ出し座り込んで話す。メイド服でそばにいられると気持ちが落ち着かないのでエプロンだけは脱いでもらっている。

「とっても似合ってましたよ。だから困るんですけど。隙あらば奉仕されそうでそれはもう恐ろしくて恐ろしくて……」

 思い出すと身震いが止まらなくなる。

「悪かったってば、もうしないから」

「私が着るなら大歓迎なんですけど。他にも首輪とか、瞳さんに飼われたり所属する感じが出ると安心できるので」

めいちゃん、それちょっと危ない」

 神様はそのままで、私の膝の上で興味深そうにスカートのフリルを弄んでいる。

「贅沢に布を使っておるのー。これを女中が召すとは、この御代は余程豊かなのじゃな」

「ああいえ、これは割と古い時代の概念が抽象化された物と言いますか……。なんでしょうね、贅沢品であることは間違いないんですが」

「職に合わせた装いは豊かさの表れじゃ。違うのかの?」

 二人が話すのを聞きながら、合間を見て神様の口元へお土産のクッキーと紅茶のカップを運ぶ。機嫌良く食べてくれるので世話していて楽しい。しょっちゅう頭を撫で回してたまに抱き締めていたらフリルとは別にシワを作りそうだけれど、叱られないので好きなようにしていた。

 なんだか気持ちがフワフワする。神様を膝に、背中には瞳さんを感じているからかもしれない。私の口にもクッキーとカップが運ばれてくるので素直に唇で受け止める。

「それじゃあ今日はもうこんな風にして過ごしましょうか」

「それはよいの! めいもよいな? なにもせず、のんびりゆったり過ごすのじゃぞ」

「もちろん。なんでも言う通りにします」

 実のところ、言われるまでもなく既にそういう気持ちになっていた。

 あれこれ言われることはあってもこの二人は私を責めない。それがいい加減にわかってきたから不安は感じなかった。

 焦燥がなければ、私はしたいことが特にない。生活基盤はもう充分以上に整っている。考えなければいけないことがあるとするなら夕食のことくらいだ。それさえ「瞳さんがなんとかするんじゃないかなあ」といい加減に流してしまえる。今までの私ならあり得ないことだった。

 クッキーの皿とカップを置いて寝そべると、隣の瞳さんからすぐに寝息が聞こえ始めた。なぜか嬉しくなって神様に報せようとしたら、私のお腹の上で乗った頭からも同じ音が聞こえた。

 どちらも起こさないように仰向けでじっとして、視界を埋める木々の枝葉に焦点を合わせる。とても静かで、穏やかな空気だ。山肌を撫でる風は湿気を含んで、生き物の匂いのようなものを感じた。かと思うとすぐにそれもわからなくなる。

 恐る恐る瞼を閉じても恐いイメージが何も湧いてこない。家の倉庫で震えて眠った記憶が遠い。ほんの何日か前まではそれが日常だったはずなのに。

(これが幸せなのかな。……よくわかんないや)

 与えてもらったもののありがたみについて断言しないことを不誠実に感じることもなく、だんだんと意識が閉じていった。



「あっ! えっ? また寝ちゃってた。ヤっバ……どうしよ!」

 興奮した声で目を覚ますと辺りが暗かった。日暮れを越して完全に夜になっている。

 瞳さんが慌てふためいているので神社の階段脇に置いてあった電気ランタンを取りに行くと、まだ寝ていたいらしい神様が腰にくっ付いていた。コアラみたいで可愛い。

 そっと抱き上げ点灯したランプを手に振り返ると、瞳さんはなんと走り去ろうとするところだった。

「ごめんめいちゃん、おねえちゃんちょっと用事あるから帰るわね!」

 踏み出す足の勢いを見てゾッとする。

 月明かりさえ枝葉に遮られる夜の山肌を、そんなに慌てて降りたらきっと転んでケガをする。さほど危険な難所はなくても滑り落ちて茂みに潜り込めばもう見つからない。自力で動けなくなったらおしまいだ。

 誰にも見つからない所でひとり弱っていく瞳さんを想像して気を失いかけていたら、急に反転して戻って来た瞳さんに抱き締められた。この人はタイミングが絶妙だ。

「それじゃ、また明日ね」

 忘れた挨拶を加えて忙(せわ)しなさをスキンシップでカバーしようという腹づもりらしい。瞳さんを無事に帰すチャンスを逃してはいけないと抱き返して捕まえた。

「明かりを持って行ってください! もし瞳さんが暗くて転んでケガして遭難するようなことになったら、私は必死で探してパニックで転んでケガして遭難します。絶対」

「お、おおう……それは困るわね。でも明かりなら持ってるのよ。おねえちゃんの準備の良さはなかなかのものなんだからね」

 言いながら体を離した瞳さんはポケットからペンライトを取り出した。手のひらサイズだけれど異様なくらいに明るい。これなら暗さは心配なさそうだ。

「でも折角だから借りとこうかな。明日の朝、ちゃんと返しに来るっていう約束の証に」

 私の手から電気ランタンを受け取って、茶目っ気たっぷりのウィンク。見惚れるのはともかくホッとした。この光量がダブルなら夜の山道もしっかり照らせる。

「くれぐれも気を付けて帰ってくださいね。これだけ強い光だときっと虫がものすごいたかってきます。足元から気が散っちゃうと危ないので」

「嫌なことを言わないでよ……。あんまり虫得意じゃないんだから」

 これから夏になるのにそれでは山に通うにはキツそうだ。

 申し訳なく思うのはあとにして、とりあえず今から安全に帰ってもらう方法に迷った。虫を嫌ってもまさか明かりを消すわけにはいかない。

「うむ、神様が付いて行ってやろう。なにせ山の神じゃからのー。これ以上に心強い供はあるまい?」

 見下ろすと神様が得意げに胸を叩いた。

 さっきまで腕に抱いていたのになぜ足元にいるのかと思えば、そう言えば瞳さんを捕まえたときに手を離していた。落としてしまっていたようだった。

「神様すみません。ケガはありませんか?」

 慌てて尋ねながらも、心のどこかでは冷静に「多分ない」と察している。なにしろ神様だから。実際、神様は非難の態度を取らなかった。

 けれど神様じゃない部分までは無事には済んでいない。

「ああっ? 服に汚れが! 折角かわいいのに!」

「なにをこのくらい、洗い清めれば落ちるじゃろう。それより八木、急がぬのか?」

 確かに神様に任せるなら安心だ。出会って三日しか経たないけれど、なんとなく虫が神様を避けていることには気が付いている。山での暮らしは本当ならもっと困らされることがあったはずなのに、やしろの中にアリが張ってくるようなこともなかった。

 多分それは虫だけじゃなく、多くの生き物はこの神様を――祟り神を恐れる。

 そしてその中には瞳さんも含まれていた。頼もしいライトに照らされる顔色は青白く血の気が引いている。

「ああ~……そうね。神様が一緒なら、安心ですよねえ……」

 これは失敗だったかもしれない。虫よりも苦手なものを引き寄せてしまった。しかも神様が言い出したことなので断れない。

「うむ、任せるのじゃ! では行くとするか」

 持たされた電気ランタンをブンブン振り回しながら神様が山を下り始め、手を引かれる瞳さんはそれについて行く。足取りが不安定なのは身長差でやや屈まなければいけないというだけではなさそう。

 これなら明かりの有無を確認した時にすぐ解放してあげるべきだった。

「……あっ、瞳さんに『ありがとう』って言ってない」

 やり残しの一日の終わりになったけれど、伝えるチャンスは明日がある。明日だけじゃなく、明後日もその次も。そう思えば後悔というほどには深刻にならずに済んだ。



 見送りから戻った神様を出迎えて、着替えのついでに身体を清潔な布巾と水で体を拭いた。神様には必要なさそうだけれど自分だけというわけにはいかない。もちろん神様が先だ。終わったあとは眠るだけなので、元の着物を全部着せずに上は肌着の一枚と腰巻だけにする。自分には今日買ってもらった部屋着を選んだ。


 布団で横になってしばらく、物音を聞いて瞼を開いた。何かと思えば胸に抱いていたはずの神様がいない。それで自分がすぐに寝入っていたことに気が付く。

「……神様、どこです?」

 暗さに目が慣れない真の闇の中、呼びかけてみても返事はない。枕元の電気ランタンをけて確かめるとやはり神様の姿は見つからなかった。やしろは狭く隠れられるような場所もない。

「こんな時間にどこへ……? 夕方寝ちゃったから、眠くなかったのかな」

 睡眠を求める体のだるさを振り切って表へ探しに出ると、目の前の階段の所に神様が座っていた。ピンと伸びてもまだ小さい背中が寂しげに見える。

「どうしました? 眠れないなら付き合いますから、起こしてくれてよかったのに。退屈でしたよね」

 隣に腰を下ろして顔を覗き込むと、寂しげな笑顔を見せる。大人びた雰囲気に不意を突かれた気になりドキリとした。

「なに、退屈であるものか。お主のことを考えておったからの」

「私のこと?」

「初めて会ったときこそ酷い有様じゃったが、随分と良うなった。例えば前のままなら、こうして隣に座ることなどありえぬことじゃ」

 言われてハッとして立ち退こうとしたら、先に考えを読まれて膝をそっと押さえられた。

「振る舞いは変わった。心の深きにある傷はそう易々とは癒えまいが、それも八木がどうにかするじゃろう。神様が救ってやれなかったことは口惜しいがの。こだわったところで詮無いことじゃ」

 まるで「自分は役に立たなかった」と思っている風な物言い。これは否定したい。

「そんなことないですよ。瞳さんが私を構ってくれるのは、神様がいるからなんです。だから私が感謝するのは神様が先ですよ」

「ん、おお、そうか? 神様がおってよかったかの?」

 嬉しそうに緩んだ頬から寂しさが溶けだして消えた。

 大昔、呪いの為の生贄にされた女の子。どうしてそんな子が「自分は役に立っているか」なんてことで悩まなくちゃいけないのか。

(私は……この子に役割を与えることができるんだよね……)

 明日はいよいよ連休が明けて平日になる。学校に行かなくてはいけない。そこには未だ何も解決していない私の問題の半分が残っている。私は照準を合わせて神の怒りの引き金を引けばいい。そうすれば自分は傷つくことなく復讐できる。

 そしてそれは学校だけに留まらない。問題の残りもう半分、家族についてもだ。いっそ見境を失くしてこの町の人間をみんなグチャグチャにしてしまえる。

 この恐ろしい祟り神の力を使えば――

 そんな風に思い込むことが、どうしてもできなかった。理由は瞳さんがそれを望まないから、だけじゃない。わずかにでもそんな発想をしてしまう自分が嫌で、唇を噛む私を気遣って頬を撫でてくれるこの小さな女の子を災厄の主にしてしまいたくはなかった。

(私が何をすればいいのか……ああ、そっか。……わかってきた)

 役目を与えなくてはいけないのは、まず自分に対してだ。神様の教義ルールを捨てて、自分で自分の人生を選んで生きてゆく。そうしなくては、誰かに救いの手を差し伸べることも慰めの言葉をかけることもできそうにない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る