風呂あがりの襲撃

 そろそろのぼせてしまう、ということでお風呂から出ることにした。脱衣所は誰もいなくなっていて、番台のおばちゃんも気まずそうに顔を逸らす。脱衣所には備え付けのテレビから夕方の地元番組のイントロが小さく流れていた。

 タオルを手に取ると自然と瞳さんの体を拭こうとして、たしなめられた。

「自分のことはできるだけ自分でやる。それでこその自由と平等よ」

 それが瞳さんの教義ルールらしい。だとするなら、私は瞳さんに助けられてばかりでその教義ルールをまるで守れていない。初めからこんな調子では成人を前に見放される。

「……ふぐぅ、嫌わないでくださいぃ」

「ど、どうしたの。急になんで泣くの? ――お前、何かしたかっ!」

 瞳さんが怒鳴って番台のおばちゃんを睨むと、おばちゃんは悲鳴を上げて男湯の方へ番台から転げ落ちた。追っていこうとする瞳さんを慌てて止めた。裸で男湯側に行くなんてとんでもない。

「違います! まだ何もされてません! 私はただ、自分のことちゃんとできなくて瞳さんに迷惑ばっかりかけてるから、捨て――捨てられると思って……」

「ああ、そういうこと? ……バカね。私は大人だし、子供の世話を焼くくらいの余裕はあるのよ。〝平等〟はめいちゃんが大人になってからでいいわ」

 また新しく、瞳さんの教義ルールが判明した。子供に対して奉仕の義務を負うのなら、瞳さんにとっては子供――保護の対象となる未成年者が神様ということになる。

 ここであの小さな神様を思い出さずにはいられなかった。瞳さんよりも偉い人の子供と思っていたけれど、小さな子供だから瞳さんにとってはその分偉いのかもしれない。

「偉い人ほど周りに何でもしてもらえるから自分では何もしないと思ってましたけど、実は逆で、何もできないほうが偉いんでしょうか?」

「またおかしなこと言い出したよこの子は。今は体を拭きなさい。湯冷めしちゃう」

 頭から順に体に残る滴を拭って顔を上げると、瞳さんはもう下着を身に付けているところだった。早い。

 驚いている隙にもう次の行動が起きている。

 目の前にビンが付き出された。濃い乳白色の飲み物。「フルーツ牛乳」とラベルに印字されている。

 喉を潤すなら水でいい。栄養を気にするなら牛乳でいい。そこにまったく関係ないところからフルーツまで加えているのだからこれは立派な贅沢品だ。

 問題は瞳さんがビンを両手に一つずつ、合わせて二つ持っていることだった。しかも片方は既に瞳さん自身が口を付けている。風呂上がりのフルーツ牛乳二本が立派なおっぱいの秘訣、ということでもなければもう一本の行き先は私ということになる。

 そうだよ、と返事をするみたいにビンが目の前で左右に揺れる。

「ムリですムリです、頂けません! こんな大層なものは選ばれし人たちだけが楽しめばいいと思います!」

「お風呂で汗かいたんだから飲んだほうがいいわよ。ただでさえ栄養失調気味なんだし。それとも私が飲ませてあげたほうがいい?」

 体育の時間にクラスメイトからそんなことを言われてホースで水を浴びせられたことを思い出す。瞳さんにそんなことをされたら心がどうにかなってしまう気がした。

「いえ、自分で飲みます。余計なお手を煩わせるわけにはいきませんので。人として」

 サッと受け取り一気に飲み干そうとしてすぐにむせた。

「ううぅ……口の中が恐れ多いくらい甘い。これが人権の味なんですね」

「味わって飲みなさいな。どうせ髪が乾くまでは出られないんだし」

「残りは保存しておいて何か祝い事の折々に開封して飲みたいんですけど、私の人生に祝い事があるのかに期待が持てないので困ります」

めいちゃんが成人するまで……八年? 待たせる慰謝料だと思ってよ。これから毎日一緒にココに来るんだから、いちいちそんなリアクションしてたら持たないわよ?」

「これから毎日、綺麗に洗われてフルーツ牛乳……!?」

 そんなに至れり尽くせりをされたら人権で精神が擦り下ろされてしまう。それは私だけの悪夢じゃなかったようで、番台からも悲鳴が聞こえた。瞳さんがニッコリとおばちゃんにほほ笑みかける。

「回数券をいただけるかしら? 領収書の宛名は『神社総庁』で」

 これはどうも本気らしい。番台のおばちゃんはまた青い顔で細く悲鳴を上げながらもサラサラと領収書を切った。商魂だと思う。


 奉仕の義務より「瞳さんに触っていたい」という理由で髪を乾かさせてほしかったのだけれど、ドライヤーの加減がわからないせいで自分の髪まで瞳さんに任せることになってしまった。

「こんなことになるなら家族の世話でその辺りのことも憶えておけばよかった。悔やんでも悔やみ切れません」

めいちゃんって壊れてるけどおかしなガッツがあるわよね。いいからじっと――ねえ、震えるほどショック受けるようなことじゃないでしょ?」

 叱られたので悪いことは考えないように努め、緩く温風を浴びながらチビチビとフルーツ牛乳を飲む。後ろからは物欲が聞こえた。

「どうせなら着替えを用意しておけばよかったわね。あと保湿ローションと~……」

 瞳さんが言うにはスキンケアは面倒ではなくて喜びなのだそうだ。川で済ませるつもりでいた私にはよくわからない。

「なによりも先にブラジャーからね。中学生だから……まあ派手にならなきゃいいか」

 恐ろしい計画に飲み込まれている気がする。止めなければ。

「あのっ、私なんかよりも神様に奉仕すべきでは?」

「だからめいちゃんが言う神様は本当の神様じゃないんだって」

「私の神様じゃなくって、瞳さんの神様ですよ。あのおやしろにいた、ちっちゃい子供の」

「ああ……あの神様ね……」

 服を着てから鏡に向かっていた瞳さんが手早く化粧を済ませて戻って来た。素顔でも魂を抜かれるくらい綺麗な人だけれど、アイラインが際立って意思の強さが感じられる。

「不覚にも忘れていたわ。じゃあそろそろ戻りましょうか」

「えっ? 『じゃあ戻る』って……まさかあの神様、まだあそこにいるんですか……?」

 恐がったり様子がおかしかったとはいってもあれだけ大人が来ていたのだからてっきり保護者の所に連れ帰られていると思い込んでいた。だからこそ銭湯で寛いでいたのに。

「あんな小さな子が一人で山の中なんて、危ない!」

 悲鳴が出た。大急ぎで下足場で通学靴を爪先で引っかけて外へ出る。そのまま駆け出そうとして、本当に急ぐなら登山道まで瞳さんの車のほうが早いと気付いて足が止まった。

 振り返ると瞳さんはのんびり靴を履き替えている。もう諦めているとしか思えない。今更急いで戻っても、今頃あの神様はきっと事故を起こしていると。

「ごめ、ごめんなさい! 私のせいで……」

 私を病院へ運んだりしなければこんなことにはならなかった。私のせいで瞳さんが責められる。その心苦しさまでは思考停止で流せない。

 駐車場として開放されている隣の更地へ回りながら、瞳さんは私の心配を大声で笑った。

「平気よ。そりゃ『危ない』と判断したからこそ総庁は私を寄越したけど、実際来てみたら結構安定してたし」

 私が知らない教義ルールの話だろうか。よくわからない。

「理由はまだこれからだけど、多分めいちゃんが――あっ、そっか。ヤバいわコレ」

 急に真顔になった瞳さんに釣られて山の方へ目を遣ると、上空に黒雲が集まりつつあった。それも気味が悪いくらい急速で、水彩画で水入れが汚れていくかのよう。

「雨が降りそうですね。神様、おやしろの中に入っていてくれたらいいけど……」

 車に乗り込みエンジンをかけたあと、瞳さんはなかなか動こうとしなかった。戻るのが恐いのかもしれない。励ます番が私に回って来て、役に立てることが嬉しい。

「瞳さんは大丈夫ですよ。悪いことは全部私のせいになりますから。『こいつのせいで山を下りた』って積極アピールすれば瞳さんは叱られないので」

 私が我慢すればみんな幸せ。それがもっとも頻繁に適用される教義ルールだ。責任の避雷針となることは私の大きな役割の一つ。

「瞳さんはそんな私の実績を知らないから半信半疑でしょうが、フフ……私に任せておいてください」

「あのね、まずは落ち着いて? めいちゃん自分ではわかってないだろうけど相当パニックになってるわよ。目が血走ってる。そんな状態のあなたをあの神様の所に連れて帰ったりしたら、そりゃもうエラいことになる。あの神様はめいちゃんを気にかけてるんだから」

「いっそ手にかけられるようなことになったら……草葉の陰から永遠に瞳さんの幸福を見守るとか素敵ですねえ……」

「人は死ねば幽冥かくりょに行くし――って、そういうこと言わない! ここは山に近過ぎるから見つかっ――ああもう、ホラ来た!」

 急に日が暮れたかと思ったら、フロントガラスの向こう、車の前に何かがいた。それが「誰か」だと思わなかったのは明らかに人間ではなかったからだ。柔らかいのか難いのか、日の光を反射しない真っ黒な塊。それがそこにいるだけで辺りが暗くなっていく。明らかに普通の生き物とは違う。

 わかるのは正体不明のそれが「自分を狙っている」ということだけ。

「鎮まり給え! ああもう、式がわからなきゃ問答もしようがないじゃないの!」

 瞳さんが車から飛び出し、車のボンネットへ飛び乗った。そこへ黒い塊が波が被るようにして襲いかかってきた。

「瞳さん!」

「そこにいなさい!」

 ぶつかる瞬間、強く光ったかと思うと黒い塊が水風船のように弾けて駐車場に散らばる。

 何が起きているのか掴めず唖然としている間に瞳さんが運転席に戻って来た。ケガは無いようだけれど顔は苦痛に歪んでいた。その手には白木の短刀が握られていて、見てわかるほど震えている。

「まったく、荷が勝ちすぎているのよ。嫌になるわ……」

「今の……なんなんですか?」

 さすがに思考を止めてやり過ごせない。無かったことにしようにも千切れた黒い塊が蠢いて一つに集まろうとしている。「自分を狙っている」という確信は続いている。

「説明より先にここを離れないと。……指が動かない。嘘でしょ、たった一度でコレ?」

「ええっ、大変じゃないですか!」

「しばらくすれば治るだろうから平気。それよりめいちゃん、車の運転ってできる? 代わりにハンドルを支えるだけでも任せたいんだけど」

 無茶を言われることには慣れているし、只事でない状況にいるのはわかっている。すぐさま横から手を伸ばし、ハンドルを握った。私の決心に併せて瞳さんがペダルを踏んで、車が前へ進み始める。

「ゆっくり右に……そこで止めて、ゆっくり戻して……。へえ、上手ね?」

「畑のおじいちゃんに頼まれてトラクターに乗ってましたので。私有地の中ならお巡りさんに怒られないって……今それどころじゃなくないですか?」

 駐車場を出るところで追いつかれたので車の後ろに黒い生き物が張り付いて、とてもホラーな状態になっている。ガタガタ揺れているのは運転を手分けしているせいとは違う。

「恐くても今は移動が優先。ここで事故なんか起こしたら目も当てられないわ。一応は対策も用意してあるし」

 突然フロントガラスに水がかかった。トラクターにこんな機能は無いから瞳さんがどんな操作をしたのかはわからない。それよりアクセルを深く踏んでほしい。

「落ち着いて。今この状況でめいちゃんができることも、しなくちゃいけないこともそれだけよ。後ろの怪物はめいちゃんに同調している。恐がったりしたら余計厄介なことになるわ」

 言われていることはよくわからないけれど、ハンドルに握る手首に瞳さんが手が触れて気持ちが和らいできた。

「……あ、指の感覚が戻って来た。もういいわ、ありがとうね」

 ハンドルが運転手の元に戻ったことで車が走るスピードが上がった。恐る恐る後ろを見ると黒い塊はまだガラスに張り付いていたものの、その姿は透けて見えるくらいに薄まっていた。

 バックミラーで瞳さんも同じものを見る。

めいちゃんが泣き止んだから力が弱まったのね。周りに被害が出る前でよかった。……それじゃ、お待ちかねの状況説明ね」

 車の進路は山麓の公園駐車場。そこへ向かいながら話を聞けた。

「神様はね、実在するのよ。めいちゃんが信じてるほうじゃなくって、本当の神様」

 宗教の話だ。急に何を言うんだろうと思ったけれど、瞳さんは初めから「そちら側」の人だった。

「あの神社にいた小さな子供がその〝本当〟なのよ」

「それじゃ、あの子は何の神様なんですか。商売繁盛? でもそれだと神社がボロボロなのはおかしいですよね。他は縁結びとか――あっ! 私が瞳さんと出会えたのはあの神様のおかげなんですか? だったらすごいご利益ですね。ありがたいです」

「そういうのじゃなくて……たたり神よ」

 後ろの黒い生き物が薄らいで消えていくのを見ながら、耳を疑う。

 瞳さんの話は続いた。

「私の仕事は神社に関するトラブル全般。普段はクレーム処理とか賽銭泥棒対策ばっかりだけど、本来の専門は神様退治」

 神様を倒すお仕事。確かに瞳さんなら私の家族をやっつけてくれそうな気がするけれど、もうそんな話としては聞けない。黒い塊は私が知っている常識とはかけ離れた超常現象。そういう話だ。

「時代の流れと共に事情が変わって人間社会の害になるようになった神様とか、妖怪と変わらないような霊的存在を退治するのが私の仕事。危険で誰もやりたがらないから、たまたま神通力を授かって家の繋がりが薄いほぼ外様とざまの私が打ってつけってわけ。神職って圧倒的に血縁が強いからさ」

 はぁ、と相槌を打つことしかできなかった。とても嫌なことを聞かされる予感が働く。

「で、この土地で消えかかっていたはずの神様が急に目覚めたって報告があってさ、それを鎮める為に私が送られてきたのね。……それで、めいちゃんとも出会った」

 とても信じられない。けれど、あの神様にはいくつかおかしなところがあった。水に濡れない、汚れない。存在からして常識から外れていると説明されたら納得もできる。

 ただし納得するとなると、新しく問題が持ち上がってくる。

「じゃあ瞳さんは……あの子を殺すんですか?」

 それは嫌だ。そんな瞳さんは見たくない。

 返事の声は暗かった。

「そのつもりで、ここへ来たわ。生贄として油断させてから、って。ムリがあるのはわかってたんだけどね。……めいちゃん?」

 感情が、爆発する。

「――なんで? あの神様が殺されなきゃいけないような、何をしたって言うんですか? 私が知ってる神様なんかよりずっとずっと優しいのに、なんで!」

「だからそう見えても本当は子供じゃ――お願いめいちゃん落ち着いて!」

 瞳さんが怯えて私を見た瞬間、大きく車が揺れた。大きなものが上からぶつかって来て屋根が大きく窪んでいる。次に運転手側の窓が割れて何かが飛び込んで来た。

 太い腕だ。〝大人の男〟を連想させるもので、思わず身がすくむ。しかしただ怯えたままではいられない。腕が瞳さんの喉を掴み、尖った爪が食い込んで血が流れている。これでは〝大人の男〟というより、まるで〝鬼〟だ。

「やめて! 瞳さんを離して!」

 腕を叩くと、ゾクリと寒気が走った。触れたところから気色の悪い虫が入り込んできたような気がしてとっさに手を引く。虫はいない。錯覚だった。

「ハンドルをっ……!」

 呻き声の指示を聞いてハンドルを握る。こんな状況でも瞳さんは冷静だった。

 車が道の端に寄って停止すると座席が後ろへ倒れ、瞳さんは腕から逃れた。すかさず、ずっと膝の上にあった短刀で突き刺しにかかる。

 返り血が吹き出す、と思って反射的に目を細めたら、そうはならなかった。痛みに驚く声も聴こえずに腕が窓の外へ引っ込んでいく。あんなに深く刺されて血が出ないなんて、生き物じゃない。

「この人を傷つけないで! 瞳さんは私に味方してくれる人なんです!」

 瞳さんにしがみ付いて叫んだ。文句を言ったって暴力は止まないと知っているのに、錯乱してしまってどうしようもない。

「痛めつけるなら私にしてください。どうして、瞳さんなんですか。いつもは私なのに」

 どうすることもできない自分が情けなくて泣いていたら、瞳さんに頭を撫でられた。

「わからないだろうけど……めいちゃんは今、限りなくベストな対応をしたのよ。命を助けてくれてありがとう」

 それこそ、よくわからない。でもあの腕は二度目の攻撃を仕掛けて来なくて、屋根の上の物音も消えていた。

「それより、血が! 血が出てます!」

「引っかかれただけだから。それより気持ちを落ち着かせて? でないとまた同じことになる。簡単に言うと、めいちゃんは神の怒りの起爆スイッチになってしまっているのよ」

「何言ってるんですか。そんなの、なんで?」

「あなたが神様を起こしたから。そしてあの神様はあなたを憐れんでいる。信仰が薄れて眠っていた神様にあなたが捧げ物をして、しかも多分、それを食べたでしょう? 神様への供物を口にすることで、あなたは神様とリンクしてしまった」

 瞳さんの言うことの一つ一つに心当たりがある。神社に越して以来食事の前にお供え物気分でそんな真似をしていたこと。最初はいなかった神様が二日目に現れたこと。あの子供が〝本当の神様〟だとしたら、自分の行いがそういう不思議な存在に力を与えて蘇らせていたとしたら。

(それじゃ、本当に全部が私のせい。私があの神社に住んだせいで瞳さんは怪物に襲われたんだ)

 溢れ出しそうになる謝罪の言葉を飲み込んで、奥歯を噛んだ。感情を抑え込まなければまたさっきの〝鬼〟がやって来る。

 私の考えを汲み取ってか、瞳さんが悲し気にほほ笑みかけてくれた。

「……ごめんね」

 静かな一言に万感がこもっている。瞳さんが責任を感じることなんて一つもないので、私は首を振って見せた。

「大丈夫です。我慢するのは得意なので。何も感じない石になりたいって、いつも思ってきたので」

 今もそうあれと願っている。

 瞳さんは満足してくれるどころか、ますます悲しそうな顔をした。力んだ唇を見ればむしろ我慢をさせてしまっているような気がする。

「その眼……。そんな悲しいがんばり、本当は『しなくていい』って言ってあげたいんだけど……ごめん」

 もう一度ゆっくりと首を振った。

「よく言われるので。『みんながんばってるんだから』って。だったら私ひとり怠けるわけにはいきません。人として」

 瞳さんに優しくしてもらえて勘違いを起こしていた。自分の立場を思い出すことで昂っていた気持ちが段々と落ち着いていく。こらえた涙がどこかへいって鼻の奥がツンと痛んだ。

 このままどこまでも落ちていけばいい。私に相応しい所へ。今日の出来事すべては私にとって異常だった。瞳さんがしてくれたことも含めて、というところに重点を定めて思考を停止する。

「……行こうか」

 車が再び走り出した。運転席からチラチラ飛んでくる視線を頬に感じる。瞳さんは気苦労が多そうだ。

「これを聞いても早まらないでほしいんだけど……ねえ、わかってる? めいちゃんがその気になれば、この町の人に復讐だってできてしまうってこと」

 何を言われてももう動揺しないと覚悟したけれど、さすがに少しザワついた。


 仕返しは無益な行為だ。「やられたらやり返してもいい」という教義ルールは同じことを延々繰り返して地獄への道を敷く。だったらまだ「私が我慢すればみんなが幸せ」という教義ルールのほうに価値がある。

 別に神様を頼らなくても、刃物や機械や毒物を使えば大勢の人間に危害を加えることはできる。でも目に入る敵を全部やっつけたところで虚しい努力だ。見えない所からまた知らない敵が、より強い力を携えて押し寄せて来る。クラスメイトとケンカしたら先生・相手の親・自分の親から責められた時と同じ。しかも罰を受けたあとはそれで解消とならずに以前より待遇が悪くなる。逆らうだけ損だった。

 山道を登りながらそういう話をしたら、瞳さんはすごく苦しそうな顔をした。喉の傷は浅いと言っていたけれど、動いたせいで痛むのかもしれない。

「世の中の価値観は一つじゃ計れないのよ。理不尽を我慢したって楽にはならない。一生誰かを叩き続けて迷惑を撒き散らしながら生きていく人のほうが多いんだから。それなのにずっと我慢し続ける人生でいいの?」

「良いとか悪いとかじゃありません。こういう生き方もあるんです。世の中には怒ってばかりの人がいるように、我慢ばっかりしてる私みたいなのもいるんです」

 誰かがしなくてはいけないことなら、そのしわ寄せは弱い人間の所に集まる。そして私はとても弱い。こうなることが自然。

「……大昔にもね、そうやって我慢した子供がいたんだよ」

 ため息をつくような口振りで、瞳さんは新しい話を始めた。

「むかしむかし、この山は悪い山賊の根城になっていました。付近の集落で暮らす人々は何度も食料を奪われ、殺され、長い間山賊に苦しめられていました」

 経験上、悲惨な話を聞かされるのは「それに比べてお前は恵まれている」「贅沢だ」と罵られる前触れ。覚悟しておかなくてはいけない。

 何を言われても傷つかない。何を言われても苦しまない。「瞳さんだけは」という得たばかりの希望はマボロシだったと捨ててしまえ。

 また一つ諦めを重ねて、私は石になっていく。踏みならされ多少できかけた道を進みながら、瞳さんの話に耳を傾ける。

「集落の人々が窮状を訴えても、税の取立役人は『兵隊を呼ぶなら食事と宿を用意しなければならない。その余裕があるなら税を納めろ』と言ってわずかな蓄えを奪っていくだけで、助けてはくれません。集落の人々は困ってしまいました」

 弱者はどこを向いても弱者だ。そこはいつの時代も変わらないらしい。

「追い詰められた人々はみやこの兵隊ではなく、流れ者の呪術師を頼ることにしました。相談を受けた呪術師はまじないの力で山賊を退治すると約束しましたが、その代わり、呪いに必要なものを要求しました。……人間の生贄です」

 胸がズキンと痛む。神社へ向かう足が重くなる。

「生贄には庄屋の娘が選ばれました。年の頃は十に満たない可愛らしい娘で、『姫』と呼ばれそれはそれは大切に可愛がられていました。娘は『それでみんなが助かるなら』と生贄の役を引き受けました。家族が反対しても飢えることなく暮らしていた庄屋への不満が強かった為に人々の強行を止めることはできませんでした。人々は呪術師に命じられるまま、娘を苦しめて殺してしまいます」

 いくらか慣れたはずの山登りで脈拍がかつてないくらい速まる。めまいを感じ、よろけて木に手を付いた。

「結果、呪いによって山賊は一人残らず死にました。……しかしそのときになって自分たちのしたことを恐ろしく感じた人々は、『自分たちはそそのかされた』と呪術師に責任を押し付け、殺してしまったのです」

 淡々とした口調はできるだけ悲壮に伝わらないようにという瞳さんの優しさなのかもしれない。それでも残酷な話を聞くのは辛い。

「呪術師が死んで、そのあとすぐにこの山の形が変わるほどの大きな地崩れが起きました。生贄を選んだ集落は庄屋の家もろとも土砂に呑まれ、みんな死んでしまいました」

 どうしようもない、どうしようもない話だった。

「事情を知るのは外に奉公へ出ていた子供だけ。そのあとに続いた不幸も含めて庄屋の娘の〝祟り〟という噂が立ち、死者の怒りを鎮める目的で建てられたのが――めいちゃんが見つけたあのおやしろ。あとは事実を良いように捻じ曲げた民話だけを残して、この一連の出来事は真実を隠す形で幕を閉じました」

「それなのに……私が幕を上げてしまったんですね」

 信仰の真似事をして眠る神様を揺り起こした。祟り姫を目覚めさせた。

「あの神様がその――庄屋の一人娘なんですか?」

「当人かは……どうかしらね。魂というか、人格としてはそうなのかもしれないけど、呪いの核として残っているだけで、むしろ『呪いそのもの』と考えたほうがいいわ」

 話を聞く限りには、神様というより怨霊に近いように聞こえる。たった一度の致命的な自己犠牲が生んだ幽霊。

「元の記憶は無さそうだし、自分が何者かもわかっていないんじゃないかしら。ご神体は実体としては存在しない呪いで、名前すら用意されていないからほとんど自然現象に近い。冗談みたいに強力なうえに呪術の仕組みがわからない以上手の施しようがないのよ。目的の山賊はもういないわけだけど、めいちゃん絡みでなければ無差別に祟るわけでもなさそうだからとりあえずは安心してるとこ」

 恨みを晴らす相手がいないことは更なる不幸なんだろうか。恨みを晴らそうと思えばそれができる私は幸せなんだろうか。

 いつの間にか足が止まっていて、隣に瞳さんが追い付いて来ていた。深刻な様子で顔を覗き込まれる。

めいちゃんまさか……ダメよ。何を考えてるの」

 今の話を聞いて無感動ではいられない。停めておきたかった思考が動いている。

「すみません。先に行きます」

 堪らなくなって駆け出すと、思った以上に勢いがついて前につんのめりながら斜面を急いだ。神社はもう近い。後ろから追いかけて来る瞳さんの叫び声には捕まらない。

「やめなさい! 心まで呪いに同調したら、本当に取り込まれてしまうわよ! 復讐は無益だって言ったじゃない! あれは人を幸せにする神様じゃないのよ!」

 無視して走り続けるとすぐに神社が見えてきた。その前に神様が座り込んでいる。

 こっちを見るなり、顔をクシャクシャにして泣き出した。

めい、すまぬ。天気が悪くなってきたゆえやしろの中へ運ぼうとしたら……」

 嘆きの理由は何かと思えば神様の足元で鍋がひっくり返っていた。地面に大根が転がり味噌湯がこぼれている。

「神様謝る。同じもの作る。でもその、材料が……こればっかりはすぐに弁償しようがないのじゃ……。神様不甲斐ない」

 じんわり目に涙を溜めてビクビクと怯えている。神様なのに。神様になる前、散々な目に遭っているのに。

 ここまで急いだせいで息が乱れていた。それでも、言いたいことがある。

 膝を地面に下ろして顔の高さを近付け、肩をポンポンと叩いた。

「神様、ドンマイ!」

「……は?」

 ポカンとする神様にグッと親指を立てて見せ、言葉を続けた。

「ドンマイですよ! いやあ時代が悪かったですね。『恨むなら時代を恨め』ってやつですよ。でももう大丈夫、敵が時代だけだったならもう大丈夫ですね。何しろ時代違っちゃってますから。んもう全然――」

「八木ィ! どうなっとるのじゃー! 八木ィ! お主がめいを救うと言うから任せたというに、ちっとも変わっておらん! なにやら一層壊れておるぞ!」

 神様が再び泣きそうな顔で地団太を踏むと、瞳さんが土下座で滑り込んできた。器用だ。

「もちろん誠心誠意励みましたとも! 実際ちょっとはうまくいっていたんですよ? 一緒にお風呂に入りまして結構楽しく――いえ、私が楽しんでいただけかもしれませんが」

 ペコペコ頭を下げ下げ懸命に釈明する瞳さんが、急に顔を上げてこっちを見た。

「あれっ? ねえ、復讐するんじゃないの? 神様パワーでドカンとこの町を一掃」

 それはとても心外な質問だった。

「するわけないじゃないですか。自分の為に神様を使うなんてできませんよ、人として」

「ああ……そっちの理屈が勝つのね。……よかった。ああいや、めいちゃんが周りをまったく頼らないって点ではちっとも良くないんだけど」

 神様の由来を聞かされて感じることは哀れみしかない。「利用してやろう」という考えが先行するはずもなかった。

「私がさっきの話を聞いて思ったことは、瞳さんが私に対して思うことと多分同じですよ」

 他の人の頭が下がっているのは落ち着かないので引っ張り起こしながら話しかけると、瞳さんはホッとした顔をした。

 そこへ神様が声をかける。

「時に八木よ、『ドンマイ』とはどういう意味なのじゃ? さきほどめいが言うたのじゃが」

「それは……えっ、ドンマイ? めいちゃん、神様にドンマイって言ったの? 呪いの道具として生贄にされた相手に、ドンマイ? 祟り殺すことが本分の祟り神に、ドンマイ?」

「はぁ、言いましたけど」

 何か悪かったんだろうか。

「それじゃあ何? 私もめいちゃんに『ドンマイ』って思ってるって考えてるの? 違うわよ? もっと色々思ってるわよ?」

「わかってますよ、そりゃもう。何しろ色々やってもらいましたので」

 私が神様にしてあげられることと、瞳さんが私にしてくれたことの間には埋めようもない大きな開きがある。

「ほほう、めいは八木に助けられたか。でかした八木!」

 神様がにっこり笑うと、八木さんは「助かった」と呟いてヘナヘナと脱力した。よっぽど緊張していたらしい。

めい、詳しく聞かせよ。神様知りたい。何をしてもらったのじゃ? そう言えば身綺麗になっておるな。服こそ変わらぬままじゃが」

 腰にしがみ付いてきた神様がぴょんぴょん跳ねるので抱き上げると髪を撫でられた。

 確かにそこが一番変わった部分だと思う。私も自分がこんなに大人しい髪質だなんて知らなかった。

「瞳さんがしてくれたことは……ちょっと一言では言い表せませんね。しかもそれが明日から毎日続くらしいので、勘弁してほしいんですけど」

 今日のような溺れるほどの歓待に連日沈められたら、心苦しくて窒息死する。恐ろしくて想像するだけで体に震えが来た。

「何をした八木ィ! どういうことなのじゃ? お主がめいを苦しめてなんとする!」

「ヒィ~、誤解です~」

 神様が怒鳴って瞳さんがビヨンと飛び上がった。上がったり下がったり忙しい。お風呂上がりなのに山登りや冷や汗ですっかりベトベトになっている。

 どうやら自分のせいで瞳さんが大変なことになっているようだけれど、何がどうしてこうなっているのかよくわからないので仲裁の仕方がわからない。

「違うんですよ神様。多分私が悪いんです」

「そうやってお主を追い詰めた輩と、同様のことを八木にされたということであろう? 信じて任せた神様がバカじゃった!」

「全然違うんですけど……あの、神様? 聞いてください」

 言葉を足しても荒ぶる神は鎮まらずに弱っていたら、ふと瞳さんの表情の変化が目に留まった。それまでも青ざめて怯えていたのに、完全に恐怖で固まっている。

 何かと思い視線の先を追うと、あの黒い怪物がいた。しかも複数。おやしろに被せたブルーシートの上や階段、それから離れた木々の間にも。細かく不気味に揺れながら、こっちの様子を窺っているのがわかった。

 神様を刺激したせいで呪いが現れている。しかしそのことに神様自身は気付いていない。キーキー喚いて地団太を踏む様子を見る限り、意識してやっているわけではなさそうだ。

「八木、この神に向かって『怒りを預けよ』とぬかしおった、あの約束を違えたか!」

 瞳さんはもう神様の抗議よりも怪物に注意を向けている。短刀へと手を忍ばせて、戦うつもりらしい。たった一体相手でもあんなことになったのに、無茶だ。

 これはもうためらっている状況ではなくなった。

 すかさず手を挙げ、思いのたけを打ち明ける。

「神様。私、瞳さんが好きです。価値観がかなり違うようで戸惑うことばかりですけど、一緒にいると気持ちが安らぐんです。大好きです」

 宣言した途端、黒い怪物が動きを止めた。小さくなったようにも見えるけれど、気のせいかもしれないので続けた。

「瞳さんはすごく綺麗で優しくて、『将来はこんな人になれたら』と思います。いえあの、見た目はムリでしょうけど。お風呂でお湯をかけるときにギュッと目を瞑ってるところは可愛かったです」

 どうやら気のせいではなかったようで、怪物はどんどん縮んで姿も薄らいで消えた。

「笑顔になるときは先に唇がうにょーって横へ広がってですね、それから目を細めるんですよ。だから私も見ていて『あ、笑うんだ』ってわかるから嬉しくなるんです。声も好きです。くすぐったくてムズムズするけど、ずうっと近くで囁いてほしくなります」

「ちょっとちょっと、めいちゃん? もういいのよ」

「おっぱいがとっても大きいのは一目瞭然なんですけど、それより筋肉が薄っすら凹凸を作ってるとこが美しいと思うんですよ。特にお尻の横から脚へのラインが――もがっ」

「もういいってば! 半日過ごしただけでそんなに褒めないでよ」

 赤面する瞳さんに手で口を塞がれた。美点が生きて歩いているような人なのに、当人としては照れ臭かったのかもしれない。悪いことをしたみたいだけれど、恥ずかしがる素振りも可愛い。

 本心では「私なんかに好かれて、いやがられたらどうしよう」と不安でいささかおかしなテンションになっていた。それでも私の陳情は神様のお気に召したらしい。グッと握り拳で喜んでいる。

「八木、ようやってくれたようじゃの。神様満足! これからもめいの味方をしてやってほしいのじゃ。ただしもし泣かすようなことがあれば……預けた怒りは返してもらうぞ」

「ええ、それは私も望むところで励みましょう。想像以上にこの子自身が大変そうだとわかったところですが」

「いやホントにそこはよろしく頼むのじゃ」

 労いの言葉を受け、瞳さんがまたしゃがみ込んだ。私が苦労を掛けてしまっていることだけはわかる。



 落ち着いたところで気付いたこと。神社の周りに見慣れない荷物が増えていた。

 瞳さんの指示で留守中に運び込まれたという品物の数々だった。クーラーボックスは食材の保存用。縦長のテントは簡易トイレ。小さなアウトドア用チェアがみっつ。娯楽用にギターとハーモニカ。その他にも食器類など細々とした物も増えているうえに、なんとおやしろの壊れそうだった階段が補強までされていた。

「とりあえず思い付くところは神社総庁で整えたわ。タオルとか消耗品なんかは中に――」

「こんなにいただけません! 受け取る理由が無いですもん!」

 銭湯での接待では飽き足らず夢のような悪夢が続いていて、新しい手法の嫌がらせに思えてしまう。幸せな気持ちにしてくれたかと思うと追い詰めてきたりで、言わば飴と鞭。私の感覚は多分ズレているので世間様的には両面共に飴なのかもしれないけれど、飴が喉に詰まって死ぬのが私だ。

「どうしてもと言うなら……そうだ、いっそ全部壊してしまえば私に相応しい物に!」

 簡易テントに向かっていこうとしたら腕を掴んで引き止められた。

「コラコラ、落ち着きなさい。めいちゃんへのプレゼントじゃないと思えば平気でしょう?」

 何を言うのかと思えば、品物の数々には「奉納」と書かれた紙が巻いてあった。

 家で親類縁者の冠婚葬祭に関する手配も任されていたので知っている、熨斗紙のしがみ。それによってそれらの品物は私にではなく、神様への捧げ物というていを成しているらしい。

「いえ、その理屈は通りません! だって神様はトイレを使わないでしょう?」

「この神社の備品だから参拝者が使うわよ。例えば私ね。その管理をめいちゃんにお願いしたいの。問題が無いか、定期的に自分で使ってみて確認してね」

 大変なことになって来た。このままでは私の安全地帯が楽園にリフォームされる。

「トイレなら山を下りたらすぐ公園があるじゃないですか! こんなオンボロ神社には不釣り合いですよ!」

 発言のあとにハッと気づいても遅い。神様がしょんぼりしている。

めい、酷いこと言う。神様傷つく」

「ああっ、違うんですよ神様。ええっと……違うんですよ!」

 苦しい言い訳すら思いつかないでいると、後ろから瞳さんに抱き付かれた。拘束は緩いけれど心が安らいで、離れたくなくなるから振り解けない。

「トイレが要らないなら、めいちゃんは私に『穴を掘ってまたげ』って言うのかしら。おねえちゃん悲しいわ」

「そ、そんなわけないじゃないですか。そもそも瞳さんは女神なのでトイレとか行かないはずですし」

 普段なら言動を咎められたら胃が固く重くなる。それなのに今回はふしぎとそうはならなかった。抱きしめられているせいかもしれない。瞳さんの抱擁はストレスを除去する効果がある。

「あのね、あんまりグズグズ言っているとめいちゃんを神社の管理人にして、お給料を支払う相談を始めるわよ」

 とうとう脅しをかけられて動転が増す。逆らったら余計に酷くなるという教義ルールのままだ。こうなったらもう、どんな贅沢でも従って受け入れる他ない。

「……わかりました。すべて大切にさせてもらいます。特にあの、消火器はありがたいです。火を使うから大惨事になるかもしれないのに、考えが至らなかったので」

めいちゃんって自分ルールが厳しいけど、もしかしてイチャイチャしてると甘々になっちゃうの? これは良い発見をしたわ。何かしてあげたいときはこの距離にしようっと」

 そう言った瞳さんが頬を擦りつけて来る。大変な弱味を握られてしまった。

「やめてください! あとで怖くなって泣きながら夜を過ごすことになるので! それに何か狙いがあってこういうことされるのは虚しいし、瞳さん自身が本心からイチャイチャしたいと思ったときがもしあっても喜べなくなりそうで嫌です!」

 瞳さんは少しの間考え込む風に鼻を鳴らしたあと、すぐによりキツく抱きしめてきた。

「なんでですか! なんでですか! 言ったそばからこうなりますか!」

「だって可愛いこと言うんだもの。誰かにチョロく騙されそうで、おねえちゃん心配だわ」

「心配しなくてもそう易々と誰かと打ち解けたりしないので! 私の心は将来と同様に閉ざされています!」

 離れない瞳さんに満たされつつも消耗させられていたら、足元で神様が両手を上げ「神様も、神様も」と騒いだ。意図を察して抱き上げると猫のように下から顔を押し付けてくる。放り出すわけにもいかず、成すすべなく頬擦りでサンドされた。

 今の状況を「手に入れた」なんて感じるのはおこがましいことだけれど、あると思えば失うことが恐くなる。

 いつの間にか私はこんなにも贅沢者になってしまった。


 朝に配達されていた寿司とピザはキチンとクーラーボックスに保存されていた。パッキングされていたので寿司はそのまま出し、ピザは温めて少し早い夕食とする。

 これも〝神様への捧げ物〟になるので「私が食べるわけにはいかない」と主張したら「取り分ければいい」と二人から激しい反対にあって断念することになった。今日の出来事を振り返ればせめて生で芋をかじって少しでもバランスを取ろうとしたのにダメだった。

 仕方なく一緒にご馳走を囲む。

めいちゃん、そっちお醤油足りてる?」

「あ、大丈夫です。それより豪華なネタのお寿司をこっちへ寄せるのはやめてください」

「何を言う。めいがキュウリばかり取るのがいけないのじゃ」

「でもかっぱ巻は本当に好物でして」

「えっ、そうなの? めいちゃんってキュウリが好きなの?」

「ハイ。特に大ぶりなのを丸かじりしてパキッと折るときの感触が好きなんです。新鮮なものだともっと歯応えが良いんですけど。それに、畑のおじいちゃんの所で収穫したときのことを思い出すので」

 説明していたら神様が興味ありげな目つきでかっぱ巻を見つめていたので一つ取ってあげた。分けて貰うと問題だろうけれど、差し上げるだけなら大丈夫なはず。

 念の為に確認を取ろうと瞳さんを見たら、メモ帳を開いて熱心にペンを走らせていた。

「大切なことだからメモしておかなくっちゃ。『めいちゃんはキュウリが好き』っと……ちょっと待って、キュウリでどうやってご馳走用意すればいいの?」

「ドーナツがよい。あれはおいしいゆえ、ドーナツにするのじゃ」

「いえキュウリでドーナツはちょっと……」

「八木お主、神様の意向に――」

「すみません! っていうか私への当たりが強くありません?」

 わいわい話しながら食べているのを眺めて、じんと胸が熱くなった。温かいものが心にある固いものを溶かしていく。

「……あれ? めいちゃんなんで泣いてるの?」

 言われて、自分が涙を流していることに気が付く。途端に神様がいきり立った。

「八木ィ! お主何をした。早速泣かせおって!」

「ヒィ~、多分山葵わさびです、山葵!」

 瞳さんがまた責められ始めたので慌てる。

「神様、違うんです。瞳さんのせいじゃありません。誰かと一緒にご飯食べたりってなかったから、〝団欒だんらん〟ってこういう感じを言うんだろうなって、嬉しくて……」

 家族とは同じ物を食べられなかった。学校の給食ではひとり教室の隅でトレーを床に置いてなので「一緒に食事」という雰囲気を味わったことが無い。

 そんな心情を語ったら、二人ともが涙ぐんだ。とても新鮮な反応で戸惑ってしまう。

「ええっと……嫌な話を聞かせてすみません」

「お主が謝ることはないのじゃ。八木、怒鳴ってすまなかったのう。神様早とちりした」

「平気ですよ、気にしません。めいちゃん、みんなで食べると嬉しいわよね。たくさん食べましょうね」

「そうじゃな、たくさん食べ――くぅっ」

 神様のほうが山葵にやられてしまったらしくて、涙目の意味が変わる。

 妙に軽い金属のコップにお茶を注いで渡すと「ありがとう」と言われる。こういうのもむず痒い。

 苦しんでいたら助けてくれる。何かすればお礼を言われる。私にしてみれば今の恵まれた状況のほうが違和感が強い異常事態なのだけれど、この二人はその感覚を否定する。辛い経験を「間違っている」と一蹴し「一緒にご飯を食べられて嬉しい」と喜ぶ気持ちを理解してくれる。

 私がどんな想いでいるか、言葉で表せる自信が無い。ただただ涙だけが続けて溢れた。

「今ある分は食べちゃいましょう。もうだいぶ乾いちゃってるから、これ以上保管しておくのは厳しいわよね」

 もう涙については何も言われなかった。でも無視するのとは違う。瞳さんは見過ごし方だって優しくて、少しも気詰まりにならない。受け入れてくれるとわかるからスルスル言葉が出て来る。

「そんなの全然気になりませんよ。『何を食べるか』より『誰と食べるか』のほうが大切だって、わかりましたから。こんなに嬉しくておいしいのに、栄養にならないはずがありません」

 山葵から回復した神様がほっぺたをピンクに染めて笑った。

めいに人の心の温かさが届いたようじゃの。神様嬉しい!」

 喜ぶ神様を見て瞳さんがやり遂げた顔で頷くのを眺めながら、返事をする。

「ハイ。何を食べるかはどうでもいいことなので、次から私の分はもっと粗末なものにさせてください。苔とか、ガリとかでいいので」

 引き続き素直な気持ちを打ち明けたら、瞳さんのガッツポーズが解けて地面を掴み、神様の表情がぐにゃっと崩れて泣き顔に戻った。

「八木ィ! めいのやつ全然変わってないのじゃ! 壊れたままじゃ!」

「長い目で、どうか長い目でお願いします」

 モメ始めたので私は考えを改めた。

 二人は私の気持ちを受け入れてくれると思ったけれど、気のせいだったらしい。このままでは次に何を食べさせられるか知れない。


 本格的に日が暮れる前に瞳さんは山を下りることになった。山の上ではまだ明るくても山道が東側で陰になるから行動は急いだほうがいい。

「とりあえず暮らせるようにはなったけど、扉は付けられなかったからセキュリティが――ああ、そこはいっそ心配ないか。課題は見えて準備もあるから戻るわね。また明日。これから大忙しだわ」

 神様と二人で慌ただしく去る背中を見送って、当たり前のように寂しくなった。誰かが離れていくのを追いかけたくなるなんて、物を奪われたわけでもないのにこんな気持ちになるのは初めてのことで自分に驚く。

 いっそ本当に追いかけてしまっても瞳さんなら叱らずに甘やかしてくれるかもしれない。欲求で胸がムズムズ騒ぐけれど、右手をキュッと握る感触がそれをさせなかった。

「神様眠たぁい。じゃがめいが八木に何をしてもらったか、話を聞かぬうちは……」

 気だるく目を擦る小さな子供。寿司を手掴みで食べたのに指がスベスベしている。今夜で二泊になるのに家に帰りたがりもしないし親を気にする様子もない。この不自然極まる幼児は〝神様〟だと瞳さんは言った。

 瞳さんが嘘をつくはずがない。信じている。黒い怪物に襲われる超常現象も体験した。それでもこの子供を本物の神様と見るのは奇妙なことに感じられた。

「神様は……神様なんですか?」

 挙句におかしな質問までしてしまった。

「神様は神様じゃよ。それよりめい、横になりながらでよいから今日一日どう過ごしたかを聞かせるのじゃ。神様それが楽しみで待っておったからのー。聞かずには眠れぬ眠れぬ」

 そうは言いながらも瞼は半分閉じてうつらうつらと首が揺れている。こんな状態だとマトモな返答は期待できそうになかった。

 それに、正体について問うより先に気にすることが他にあった。

「待つ間ひとりで寂しかったですよね。置き去りにしてしまってすみません。最初は私を病院に運ぶことだけが目的だったから、瞳さんも連れ出さなかったんだと思うんですよ」

 私は誰より格下で、格上のみんなは強くてワガママに振る舞えるから辛い想いなんてするわけがない。どこかでそんな風に考えていた。弱者の傲慢だ。

 私こそが優しさに欠けていたことを反省したい。瞳さんに憧れるなら、甘やかされるだけではいけない。

「次にどこかへ出かける時は、神様も一緒に連れて行ってもらいましょうね」

「うん? それはムリなのじゃ。神様あまりこのやしろを離れられぬからのー。山を出ることは叶わぬ」

「そうなんですか。出かけられないのはつまらないですね。それならここに遊び道具を作れないか考えてみますよ。大したものはできませんけど、神様にとっては現代の遊びは新鮮なはずなので面白いかもしれません」

 神様の手を引いておやしろへ入り、布団の上に寝かせる。布団は元々セットで揃っていたからそのまま。ただし新たに小さな枕が追加されていた。瞳さんが用意した神様用らしい。

 その枕は選ばずに、神様は私にくっついて昨日と同じく腕枕を求めてきた。もう瞼が閉じかかっているので話は明日にしようと言ったら「う~やぁ~」と首を振って唸る。

「神様めいの話を聞く。いいから早く話すのじゃ」

 せがむ様子が愛しくて、つい抱き締めた。

「神様、ありがとうございます。神様と出会ってすべてが変わりました」

 こんなにも関心を持ってもらえることが嬉しかった。どこへ行ってもぽつんと孤立することばかりだった過去の自分に教えてあげたい。

 心からの感謝の言葉に返事がなく、代わりに胸元からは寝息が聞こえてきた。眠気が限界を迎えたらしい。

 起こさないようにそっと布団をかけ、「明日もこんな日になればいい」と祈りながら支給された電気ランタンのスイッチを切った。

 初めてのことばかりで興奮して、私は眠れそうになかった。

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