国連曰く

 御輿で運ばれてきた女の人――八木やぎひとみさんは全国の神社を統括する団体の職員で、放棄されていたこの廃神社で起きた異変に対処する為に用意された〝生贄〟だという事情を聞いた。昨日の夜遅く、押し付けられた事務処理を泣きながらこなしていたところ、いきなり衣装を渡され他県からここまで夜通しかけてやって来たそうだ。

 本人からの説明を聞き、私は強烈な驚きに襲われる。

「いやー、まさかこの世に私と立場が近い人がいるなんて!」

 上司や同僚への愚痴が凄かったので、いかにこの人が普段から虐げられて暮らしているかがわかる。他人とは思えない。

「こんなに親しみを持つ人は初めてですよ!」

 嬉しくなって肩をポンポン叩くと八木さんは複雑そうな顔で笑った。

「ありがとう――って喜んでいていいのかしら……まあ、いいわ。とにかくこちらで把握している情報と現状に大きな違いがあるようね」

 八木さんはいきなり白装束を脱いだかと思ったら普通のタイトスカートとブラウス姿になった。上から被せて着ていたとなると本当に強引に連れて来られたらしい。紙を外して露わになった顏は鼻筋が通っていてとっても美人だ。でも顔つきにちょっと疲れが窺える。

 白足袋から袖に入れられていたパンプスに履き替える間支えに手を貸したら、じっと見つめられて照れる。彼女が私と同格だからこそのんきにしていられることが無性に嬉しい。これが他の神様なら目をらしているところだった。

 垂らしていた長い髪をまとめて後ろにかんざしで留め、八木さんはフウと息をつく。

「それで改めて聞くけれど、あなたは誰なの?」

「ハイ! 八百万やおよろずの下敷き、江根えね)めいです! さすがに生贄にされたことはないので八木さんは私の先輩ですね。年季の違いを感じます」

「あー、うん。ちょっと待ってちょっと待って。家出娘が変にマナーを守ろうとしたせいで神様を復活させた、ってことはとりあえずわかるとして――」

 更に顔が近付いて小声になる。

「あなた、あの神をどうやって鎮めたの?」

 横目に見る神様は少し離れた所で八木さんの名刺を眺めてふしぎそうにしている。こっちには注意が向いていない。

「あの落ち着きぶりはなによ。本当はもっとずっと、恐ろしいはずなのに」

 子供の神様が恐ろしい。彼女はどうやら育児のアドバイスが欲しいらしかった。母親ではないけれど、保護者ではあるのだろうか。

「あらゆることで成功したことがない私に相談されましても……。でも今まで仕えた他の神様に比べたら全然手がかからない子ですよ? ちょっと知らないタイプで困ることはありますけど」

「は? 他の神様って……どういうこと。この土地の管理はずさんで担当者が二十年以上前から不在になってるって聞いたけど」

 今一つ意思疎通ができていないような気がする。それでも臆さず普通に会話ができることが嬉しくてニコニコしてしまう。

「八木先輩は今までどんな神様に虐げられてきたんですか?」

「笑いながらおかしなこと言わないでくれる? そもそもどうして平然と一緒にいられるんだか。〝神様〟なんて総庁の人間にも信じてない奴がいるくらいなのに、あなた一般人でしょう」

「信じたくなくても神様は神様ですよ。そういう仕組みなんだから仕方ないんです」

 お互いに相手が言っていることがわからない、そんな状態で話し込む間に神様が退屈したのか腰にぶら下がって来た。

「内緒話はやめるのじゃー! 神様さびしい」

「ひぃっ、お許しください!」

 引っ張られたジャージのズボンが脱げそうで押さえている間に、八木さんが地面にひれ伏した。ショック死を起こしそうなくらいガタガタと震えている。まるで自分を見ているかのような親近感。でもこの神様にそういう対応は必要ない。

「あのー、そんなに恐がらなくても大丈夫ですよ? この神様は食べ物でご機嫌になるくらいチョロいですので」

めい……! お主、神様のことをそんな風に思っておったのか?」

「そう、食べ物、食べ物をお望みなのね?」

 聞くなり八木さんは伏せた姿勢のまま懐から携帯電話を取り出し、どこかへ「寿司、ピザ」と短い連絡を取った。出前を注文したらしい。

 さすが大人の財力があると神様への奉仕もレベルが違う。でも奇妙だ。

 大人なら自分で居場所を選ぶことができる。待遇に耐えられないならどこか別の場所へ行ってマシな神様を探せばいい。そう考えていたのに、八木さんはムリヤリ連れて来られてここにいる。しかも経験上もっとも恐くない神様にもこんなに怯えて。

(八木さんにとってはこの神様が特別なのかな?)

 神社関係のお仕事と聞いたから、この神様はそれ系の偉い人の子供なのかもしれない。本人も普通の子供らしくないところがあるので説得力がある。一般の教義ルールに左右されない特別で高位な環境にいるのなら、今までの振る舞いにも納得できた。

「八木よ、めいをどうにかせい。この娘、己というもの一切の頓着が――」

「ははーっ! 必ずやなんとか致します!」

「話を聞くのじゃ」

「ははーっ! 必ず話をお聞きします!」

「お主もか! お主も同じか! 一体この時代はどうなってるのじゃ!」

 八木さんがペコペコ謝ってばかりいるから神様は地団太を踏んで怒り始めた。

(ああ、ヘタだなあ……。何を言われてもとりあえず聞いた振りしといて、できないことはあとで怒られたほうが楽なのに)

 神様と付き合うコツを知らないのならあとで教えてあげよう。そんな風に二人のやりとりを見守っていたら、白装束の行列がまたやって来た。離れた所に持ち込んだ荷物を置いて、やっぱり悲鳴を上げて逃げて行く。この神様、本当に恐がられている。

「なにが届いたんでしょう……。あっ、食べ物ですよ。わぁっ、ご馳走」

 水玉のビニールで包まれた数段の寿司桶と、見たことはあるピザの薄い箱。さっき八木さんが注文していた出前の内容だった。あんなに雑な連絡でこんなに早く届くなんて、どうなっているんだろう。これも神の威光だとしたらものすごい。

 これだけちゃんとした食べ物はおやしろの中で食べたいけれど、中は照明がないので表の板場に並べて広げる。すると神様はピザに釘付けになった。

「ほうほう! なんじゃこれは。餅菓子か? さっきの〝ドーナツ〟とも様子が違うのう」

 相変わらず「現代知らない設定」を守っているから当然それに付き合う。

「平たく伸ばしたお饅頭に、肉や野菜を乗せて焼いたものです。おいしいですよ。これは私も食べたことあるので」

「ほう! お主もこんな豪勢なものを食べるとは驚きじゃ」

「ピザってどうしても箱にこびり付くんですよね。だから食べ終わったあとで箱から削ぎ落として……ですのでたまに紙の味がします」

 付属の布巾で指を拭って一切れ取り、息で冷ましてから神様へ差し出す。何か言いたそうにしていたけれど鼻先にピザを持っていったら即座に食いついてきた。途端に顔が綻ぶ。チョロい。

「熱いので気を付けてくださいね。……それにしてもすごい量。神様ひとりじゃこんなに要らなかったのでは」

「お主も食えばよい」

「私にはそんな資格ないので」

 当たり前のことなのに神様は不満そうな顔をするし、他から疑問の声も聞こえた。

「……どういうこと? アウトドア慣れした家出娘が『タダで寿司とピザを食べられてラッキー』っていう状況じゃないの? これ」

 神様の隣から見下ろすと、階段の下で八木さんがハテナ顔で小皿に醤油を垂らしているところだった。まさか食べるつもりなんだろうか。私に似た立場で、神様じゃないのに。

「私の人生に〝ラッキー〟なんてありませんよ。すべては神様のさじ加減一つですから」

「いやまあ、この場に限ってはその通りだけど……どういうこと?」

「私も八木さんも不幸の星の下に生まれてきたってことですよ。誰にも愛されてないし、本来は必要とされていないので、雑にしか扱われない」

「……ソレ、どういう意味よ」

 小皿を置いて、八木さんが睨んでくる。それで気付いた。

 違う。彼女は違う。虐げられることに慣れ、その宿命を受け入れたならこんな顔はできない。自分と同格なように感じたのは誤りだった。

「そうですか。八木さんも神様なんですね」

 初めて仲間ができた気持ちでいたから、そうじゃなかったと知ると寂しい。

「あなたの言うことがイチイチわからない。説明して。あなたは何者で、どうしてここにいるのか、全部聞かせなさい」

 もちろん、逆らう気は無かった。


「――というわけで家族に見捨てられたので、この神様の所へ転がり込んでいるわけです」

 おやしろから降り地面に膝を付いて身の上話を語り終えると、八木さんは片眉を上げて疑いの気持ちを露わにした。

「それって、〝虐待〟ってこと? しかもそんなに酷いなんて……本当に?」

「虐待じゃありません。神様の教義ルールです」

「中学生って言うには体が小さい気もするし。従姉妹いとこがあなたと同じくらいだけど、十才よ? しかもクラスで背の順では前のほうって話だわ」

 信じてもらえない。私の発言が軽んじられなかった試しがないのでこの反応には慣れている。親と喧嘩しての家出を大袈裟に話した――そんな風に思われていそうだ。

「ここに来たのが何日前だっけ? そりゃ二、三日くらいならまだなんとかなっても、ずっとここで暮らすなんてムリがあるわ。例えばお風呂はどうしているのよ。本当はちょくちょく帰っているんでしょう?」

「体は川で洗います。毎日じゃないし、自然環境を壊すわけにはいかないので石鹸とかは使えませんけど」

「ああ、そう。じゃあトイレは? まさか『穴掘ってる』なんて言わないわよね」

ふもとの公園に行って済ませます。一応穴も掘ってはありますけど」

「ふうん。それをいつまで続けるつもり? 不可能だって本当はわかっているくせに」

 反論できない。奇跡的に食料が続いたとしてもこの場所が私の楽園である為には誰にも知られないことが前提なのに、こうして見つかってしまった。しかも相手は神社を管理する職業。「勝手に住むな」「出て行け」と言われたら終わる。見逃してくれるはずがない。

「大人としては……『家に帰りなさい』以外に言うことがないのよね」

 突き刺さる冷淡な視線。これが本来自分のあるべき境遇だと思い出せた。当然。当然なのに涙が溢れそうになる。泣き声を喉の奥に閉じ込めて耐えた。

 当然を覆すには奇跡、神様の采配が不可欠になる。小さい神様が「ここに住んでいい」と言ってくれたら少なくともこの場ではそれが通る。八木さんが本当の保護者を連れて来るまでは。

(でもそんな図々しいお願いできない……。人として)

 頼りの当の神様は眉を寄せてもつるんとした眉間に「ムムム」と悩みを漂わせ、ずっと考え事をしている風だった。ふと腕組みを解き、八木さんを厳しい目つきで見つめる。

「のう、八木。めいのような子はこの時代にはよくおるのか?」

「ワイドショーでは――いえ、あるところにはあると聞きます。直接聞かされたのは初めてで、信じられませんが」

「そうか。……口減らしということなら理解もできよう。じゃが、どうもそうではないのう。ならばしかと吟味せよ、八木」

「ですが私のお役目は――」

「二度言うてやろう。吟味せよ」

「うっ……」

 大人が小さな子供に気圧される、というのは奇妙な光景だった。やっぱり八木さんより発言力が上らしい。

「……わかりました。まずは実態をよく知る為に、社殿の中へ立ち入らせていただきます」

 八木さんは不満を滲ませながらも、階段上にいる神様の横を身を低くしながら通るとおやしろの中へ入って行った。「嘘を見破ってやる」、そんな意気込みを感じる。

 八木さんの姿が見えなくなって、審査の終わりを待つ。胃が潰れそうに痛んだ。ここを出ることになったら次はどこへ行けばいいのか。せっかく用意した物を何も持ち出せなかったら食べる物すら失う。

(どうせなら全部食べておけばよかったな……)

 今更な考え事をしても緊張は和らがない。八木さんが出てきた時には心臓が止まるかと思った。いよいよ判決を言い渡される。

「呆れたわ。本当に暮らせるだけは整えてあるみたいね。あなたの話から想像するには不自然なくらい揃ってる。でも消耗品が足りない。生理用品は? 必要でしょ」

「えっ?」

 そこを指摘されるとは考えもしなかった。なぜなら――。

「私、生理来ないんです」

「だって中学生なんでしょう? だったらもう……」

「去年一回だけあったんですけど、丁度台所にいるときで家の床を汚したせいでお母さんとおばあちゃんにお腹をたくさん蹴られて……それからは一度も」

 他所よその家ではお赤飯を炊いてお祝いしたりするらしい。それが恥ずかしくて嫌だとクラスメイトが話しているのを聞いたことがある。格が違えば扱いが違うのは当然ではあるけれど、あのときは具合が悪いのに蹴られて痛いし罵られて悲しいでとても辛かった。

 記憶を掘り返して暗い気持ちになって、いつの間にか下を向いていた。

 今は判決を聞かなくてはいけないと首を持ち上げると、八木さんが怖い顔をしていた。

「なんことを……! あなたそれ、本当なの? さっきの話も全部?」

 もの凄く怒っている。あんまりな剣幕に謝罪の言葉も出てこない。ガタガタ歯がぶつかって視界まで揺れた。

「あぅ、ごめ――」

 さっきのように詰め寄って来られたときにはもう、意識が持たなかった。



 目を開けると天井が見えて、自分が気絶していたらしいことはすぐにわかった。洗い込まれたシーツの感触と視界を小さく区切るカーテンは、何度かお世話になった学校の保健室に似ている。

「ああ、ここ病院だ。……大変!」

 慌てて体を起こすと、八木さんが隣にいた。椅子に腰かけ優しくほほ笑んでいる。

「目が覚めたのね。よかった――」

「病院はダメなんです! 帰ります!」

 話を遮ったりなんて普段なら絶対にしない。でもそんな分別は保てなかった。

「前に病気になったとき、保険証持ち出して診察してもらったらあとでバレて、すごく怒られたんです! お金だって払えない! やだっ、いやぁぁあああ!」

 腕に繋がった点滴の管を引き抜いて、ベッドから転げ落ちても構わずに出口へ急ぐ。でもどんなに床をかいても体が前に進まなかった。

 後ろから八木さんに抱き締められている。

「治療費は私が払う。親元に連絡はいかない。なんにも心配要らないから、落ち着いて」

 ビックリして肘で押しても足をバタつかせても八木さんは放してくれない。今日初めて会ったのにどうしてこんなに苦しめるのか。でもそうじゃないと涙を見てわかった。暴れるうちに前後が入れ替わっていて、私は背中を殴りつけていた。

 すぐに謝ろうとしたら、言葉は八木さんのほうが早く、強かった。

「ごめん! あなたの言ったこと疑ってごめん! なのに『信じて』なんて言えないけど、これからは私があなたの味方になる。あなたを必ず守るから、任せて」

 八木さんが泣いている。語る声の調子は懇願。

「……なんで?」

 少し気分が静まってきた。目の前にある綺麗な顔が涙で濡れている。

「さあ、ベッドに戻って」

 混乱はまだ続いている。足に力が入らなくて肩を借りながらベッドへ戻る間もボーっとしていた。八木さんの肩口が濡れて汚れているのを見つけて、自分が吐いたものだと察した。何も食べていなくても追い詰められれば何か出ることは体験で知っている。

 服を汚したなんて知られたらどんなに責められるか。恐怖におののいていたらあんまり凝視していたせいか八木さんが気付いてしまった。

 なのに、ほほ笑んで小さく首を振るだけだった。

「いいよ、こんなの。川で洗えばキレイに落ちるでしょ?」

 ブラウスの袖を摘まんで顔を拭いてくれた。まるでこれはあれだ。優しくされてるみたいだった。

「私、格下なのに……! こんなことしてもらえるような人間じゃないのに……!」

 せっかく拭いてもらったばかりなのにまた涙が流れる。受け取った優しさまで汚してしまうようで悲しかった。

「自分のことを〝格下〟とか言わないで。あなたがそんな風に思い込むまでどんな目に遭ったのか、話を聞いて想像するだけじゃきっと足りないわ。でもね、そんな結論は間違っているのよ」

「ハイ、私が間違ってます」

「あなたを責めたいんじゃなくて――ああもう、どう伝えたらいいのかしら。一応心理系は第二専攻だったのに……!」

 八木さんがこめかみを押さえて唸る。自分のせいでそんな風に悩ませてしまうなんて申し訳ない。

(ほっといてくれていいのに……)

 私に構えば損をする。だからどうしても付き合いを外せない家族やクラスメイトには穴埋めとして奉仕しなければいけない。それも一つの教義ルール

 なら八木さんの為には何をしたらいいだろうと考え始めたところで、顔の前に指先を突き付けられた。「殴られる」と思って反射的に身が縮まる。

「あっ、ゴメン。こういうの恐い?」

 指を引っ込めながら、八木さんは眼に厳しさを戻す。

「でもそうね……あなたを一つ責めなくちゃいけないわね。だってあなたは間違っている」

「ハイ。その通りです」

 ベッドに伏せて謝ろうとしたら手を掴んで止められた。

「それがよくないのよ。場の空気に流されて、安易な気持ちで下げた頭は二度と上げられなくなる。……こんなこと説教できるような生き方はしてきていないから癪だけど、ここは自分のことを棚に上げて言わせてもらうわ」

 ぐっと、八木さんの顔が近付いたので顎を引く。

江根えねめいさん、あなたには〝人権〟があります」

「じ、人権……?」

 フッと、意識が遠くなるのを感じた。気が付けばピタピタと頬を叩かれている。

「おーい! あるわよー、人権があるのよー。人類皆平等よー」

「やっ、やめてください……。そんなわけないじゃないですか」

「なんでここ一番のショックを受けてるのよ? そんなの当たり前のことじゃないの!」

「ご、ごめんなさい!」

「ああ、大声もダメなのね? 気を付けるわ。……でも人権は誰にでもあるのよ」

「何を言ってるんですか。私にはありませんよそんなもの」

「あるったらあるのよ。なにしろ憲法と国連が保証しているんだから。あなた世界に逆らうつもり?」

「せ、世界? 今までにないくらい凄いの出してこないでください……」

 あまりのビッグネーム相手にはもうどう怯えたらいいかわからない。

「でもでも、『ローカルルール』ってあるじゃないですか? 特定の地域や団体内には独特の決まり事や罰則があるのは普通のことなんです。それが家庭でも学校でも」

「罪刑法定主義とか慣習刑法の排斥はいせきとかは、まだちょっと難しい話かしら」

「八木さんだってそういうのに縛られたり従うことはありますよね?」

「ぐっ、痛い所を突いてくる。……わかったわ。そう簡単には改宗されないってわけね。いいわよ? あなたが独自の信仰を守りたいのなら、納得できるまでトコトン付き合ってあげようじゃないの。宗教戦争は宗教家の華だわ」

 八木さんは私に新しい教義ルールを無理強いするつもりはないみたいでホッとした。でもすぐ不安になる。

「……あれ? もしかして私、ワガママを言ってますか?」

 別に「無理強いじゃない」からといって「逆らってもいい」とはならない。それを何が何でもという姿勢で説得を拒否してしまった。いつもなら口先だけでも従っているのに。

 八木さんは「フフン」と勝ち誇る。

「言ってるわよ? 私にムリヤリ自分の考えを押し付けようとしてる」

 それではまるでいつもと逆だ。そんなに調子に乗ったら、あとでどんな酷い目に遭うかわからない。

「そんな、私はただ自分が格下の底辺で、他の人は格上の神様という事実をですね……」

「じゃあ格上で神様な私の言うことを聞きなさい。私は格上でも神様でもないし、あなたは格下でも底辺でもないって言ってるのよ。他の人と同じ」

「ハイ、わかりました。神様の言う通り、神様は神様じゃない――あれっ?」

 なんだかよくわからなくなって混乱してきた。世界の仕組みが歪んでいく。

 言うならば八木さんは破壊神だ。これまでの教義ルールを破壊して、しかも同時に人間になろうとしている。

「それと人権がある」

「それは本当にやめてください」

 私の人生にかつてない暴風が吹き荒れ始めた。



 話を続けるにも病院だと落ち着けないので出ることにしてもらって、八木さんの車で山へ戻ることになった。詳しくないので名前はわからないけれど、駐車場で主人を待っていたのは青色で丸くてとっても可愛い車だった。

 移動の間も気が休まる暇は無い。八木さんが私をやっつけようと論争をしかけてくる。

「まずもう一度、私の立ち位置をハッキリさせておくわね。全国各地の神社の管理やその職員のサポートをしている組織で生贄からご近所トラブルに庭の掃き掃除まで諸々やってます。八木瞳です」

 よくはわからないけれど、とにかく大変なお仕事だということはわかる。

「神様にお仕えしてるんですよね? 私と同じで」

「同じじゃないわよ。こっちはガチ神様で、あなたが言っているのはあなたを見下したくて偉ぶってるだけの普通の人間。〝マウンティング〟ってやつだわ」

「でも偉くなりたいのは誰でも同じですよね? そういう中で私は偉ぶれる理由が無いから格下になるんですよ。何もおかしくない社会の摂理です」

 車は荷物の所に押し込まれた経験しかないせいで助手席からの景色が異世界に見える。視点が低くて速い。お尻の下が柔らかい。座席が二つで荷物を置けそうな場所が見当たらないから、もし機嫌を損ねれば屋根に載せられてしまうかもしれないのにどうにもソワソワしてしまってつい口数が多くなってしまう。

「『生意気』とか『ズルい』とかよく言われます。私がいけないんです」

「それさあ、中身の無い人間が使う言葉なのよね。合理性も何も示せないからとにかく相手を悪いことにして主張を通そうとするの。そういう時、相手は大声を出すでしょう? そうしないと通らないような無理のある主張だからよ」

 その話はいくつも思い当たった。「お前が悪い」「しつけてやってるんだ」と言われるときは大抵怒鳴られている。

 でも大声を出すのは悪いことじゃない。「元気が一番」とよく聞くように、元気じゃなければ二番以下。つまり格下。張り合って大きな声を出せばいいのにそうしないなら立場をわきまえるしかない。

「まったくの同感です」

 賛同したのに八木さんは変に思ったようで、ふしぎそうな顔でこっちを一瞥した。運転があるから注視は続かない。

「とにかく世の中には色んな考えの人がいるけど、それはあくまで個人の価値観。世の中の仕組みなんかじゃけっしてないわ。だからあなたが下手に出る筋合いはないのよ」

 八木さんの口調は弾圧する雰囲気がなくて、ゆっくり諭す風に言い聞かせてくるので恐くはない。ただ私はこんな待遇が初めてで、どうしていいかわからなくて、まずその戸惑いを乗り越えてから受け答えしなくてはいけないからもう大変。正直会話どころじゃない。ずっとパニックの中にいる。

「そ、それも八木さん個人の考えなのでは?」

「あなたがそう思うのなら、それでいいわ」

 私に選択権があるみたいにされてしまった。冷や汗が増す。

「法律が信仰の自由を保証しなくても、誰だって信じたいものを信じるのよ。でもね、あなたはあなたが言うような神様を、本当に心から信じたい?」

「ううっ、また法律とか言う……」

「じゃあ論点を変えましょうか? そもそもあなたは自分より上だと思う相手を『神様』って呼んでいるだけで、本質は信仰心じゃないものね。分の悪い処世術だわ」

 コクコク頷く。今の浮ついた状態で口を開けば「八木さんが信じる神様だって実在しないじゃないですか」と危ない発言が飛び出す気がした。そうなったら私がドアから飛び出すことになる。

 いつも通りに思考停止して、余計な反論はせずに全部聞き流してしまえばいい。何を言われようと自分の発言は必要ない。相槌で八木さんに気分よく語ってもらえばそれでいい。

 なのに、もっと話していたい欲が湧いた。きちんと私の話を聞いてくれるこの人と、もっと話をしていたい。聞き流すなんてできない。

「そうだ、さっき『ローカルルール』について言ったわね? もしあなたの身近にあなたの人権を認める人がただの一人もいないとしたら、確かにそのコミュニティ内ではそれが正しいことになってしまう。国連がそれを正す為に動くなんてことは現実的じゃないし、地域の問題に公権力が口を出せないなんてことはよくある話」

 さっきよりも強く頷く。この調子でいけば納得してもらえる――と喜んでいたら、そうはいかなかった。

「でもあなたはもう元のコミュニティを出てるじゃない。それに私が来た。誰かが言わなきゃいけなかった『そんなのおかしい』を私が言う。それに他にも一人、納得してない人間がいるのよね」

 神社で出会った小さな神様のことを思い出したら、八木さんは意外なことを言い出した。

「それはあなた自身よ。あなたは自分の境遇に納得なんてしてない。もしかしたら心の奥底では怒ってすらいるのかもね」

 これはさすがに頷くことはできない。つい反論の口が開いた。

「何言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか。全部受け入れたほうが楽だってわかってるからそうしてるのに」

「じゃあどうしてあの山へ入ったの?」

 意識したからじゃなく、黙ってしまった。そこには触れられたくないことがある。

 車が山ふもとの公園に着いてガランとした駐車場で停まる。エンジンを切り、シートベルトを外した八木さんは腰を捻って体をこっちへ向けてきた。

「あるがままを受け入れてされるがまま? 本当にそれでいいならもうそれは悟りの境地、ご立派だわ。でも本心はそうじゃない。あなたは逃げたかったのよね?」

 首を振ろうとしたらそっと頬に手を添えて止められた。

「自分より格上な神様がたくさんいて、格下の自分は仕えるのが当然。本当にそう信じているのなら捨てられてもまた他の神様に仕えればよかったのに、そうはしなかった。それはどうして?」

 八木さんは私の主張を一つ一つ私自身に間違いと認めさせることで考えを変えようとしている。意見を押し付けるのではなく、答えを求められているから思考停止でかわせない。

「……でも、結局見つかりましたから。どうせどこへ行ってもいる神様のうち、誰を選ぶかなんてこと私が決めていいことじゃないので……」

「じゃあ次の話。私はどうか――っていうことを聞かれていたから答えておくわね。確かに私だって理不尽や不条理に従うことはある。でもそれは『いつか自分が幸せになれる』と信じているから苦汁も飲み込めるのよ。そうじゃないってわかったらその時点でさっさと宗旨替えするわ。社会や団体がどうかなんて関係ない。大切なのは自分にとってどうか」

「私にはそんなことできませんよ! 誰も許してくれない。この世のほうが先にあるんだから、私の都合なんてあと回しで当たり前じゃないですか!」

 興奮し語気が乱れる。抑えたいのに抑えられない。こんなことでは怒られる。いけない。いけないことをしているのに、八木さんは悲しそうに目を伏せるだけだった。

「あとに生まれたらあと回し? これは意地が悪い質問だから言いたくなかったけど……。この先あなたより立場が弱い人が現れたとき、あなたは……その相手を苛めるの?」

 胸を突かれた気がして何も言えなかった。

 もう何年かすれば働くようになって大人になる。そうすれば今の私が格下と見なされる理由のいくつかが消える。もし私に子供が出来たなら、家族の教義ルールに従えばその子は問答無用で私より格下。今度は私が追い込む番になる。

 自分が味わったあの苦しみを我が子に与える。想像するだけで吐き気を覚えた。しかし教義ルールは絶対のもの。神様には逆らえない。

「ねえ、聞かせて。あなたはどうしたいの? これから、どんな生き方をしたい?」

 顎が震えて言葉が出ない。けれどどうせそんなこと、言えるわけがなかった。

 ぼやけた視界で八木さんの顔が近付いてくるのがわかった。手を掴んで押さえられ、私は自分の髪を引っ張って傷めつけていたことに気付く。

 そのまま、柔らかく抱きしめられた。

「さあ、願いを言ってお姫様。私は魔法使いじゃないけれど、助けを求める声を聞く耳は持っているのよ」

 頬が触れ合うこの近さならどんなに小さな声でも漏れずに届く。でもいいんだろうか。本当にいいんだろうか。

(私なんかが、そんな……)

 幸せになりたい、だなんて。


 八木さんが待っていてくれても気持ちばかりがどんどん昂っていって、あるいはそのせいか喉からは泣き声しか出なかった。顔が熱い。

「ちょっと急ぎ過ぎたかしら。でもあなた、あんまりなんだもの。見ていられないのよ」

 ひじ掛けを挟んで座席に体を預けていた八木さんは窮屈な姿勢でいたはずなのに、少しも辛そうにはしない。ずっと優しく背中をさすってくれている。

 この「されるがまま」はまったく苦しくなかった。恐慌も高揚もなく、こんなにも穏やかな気分はいつ以来か思い出せない。というか生まれて初めてかもしれない。

「あなたがどんなに諦めても私があなたを守るからね。第一、八百万やおよろずの神々と――他所よそのことだけど恒河沙ごうがしゃの数だけ仏様がいるのに、あなたひとり幸せにできないなんて認めないからね。……あっ、この場合の八百万は『たくさん』って意味だから『神が仏より少ない』なんて勘違いはしないでよね?」

 宗教家ジョークなんだと思う。気を遣って和ませようとしてくれることが嬉しい。この人は私のことを見てくれる。

「八木さんは優しいんですね」

「あなたもでしょう? 『家族がおかしい』なんて思いたくなかったのね。だから最初から間違えてしまった」

 そうなんだろうか。家族はもうただただ怖い存在で、教義ルールも一番厳しかった。

「あなたは何にも悪くないんだから、逃げてよかったの。世界中が敵に見えるならどこまでもどこまでも逃げいいのよ」

 冷静に考えれば「世界中が敵だったか?」というとそれは違う。優しくしてくれた人は今までにもいた。

「……畑のおじいちゃん」

「うん、なに?」

「私に優しくしてくれた人、いました。近所のおじいさんが畑仕事を手伝う代わりにご飯を分けてくれて、お小遣いもくれたんです。お芋も分けてもらえました」

 他のことでも色々と助けてくれていた気がした。何か用事を言い付けられている最中にも見かけた人から次々と別の頼まれごとをされるなんてよくあることだったのに、畑仕事の間はそういうことがなかった。多分、庇われていた。

「ああ、そうだったんだ。お礼を言いに行かなくちゃ――」

 話しているうちに感極まってまた泣いてしまった。辛く当たられるより優しくされたほうがむしろわんわん泣き喚くのだから我ながら面倒くさい。

 八木さんは呆れずに背中を撫でてくれた。

「お礼は急がなくても平気よ。その人もきっと今頃『逃げてくれてよかった』ってホッとしてるもの。だって優しい人なんでしょう?」

 囁く八木さんの声が耳たぶを震わせる。くすぐったくて心地良い。昨日の夜に眠ったときと似た体勢で、立場は逆になっている。でも私は神様にこんな安心感を与えられはしなかったと思う。

「八木さんはお母さんみたいですね」

 私の母は「お前なんか娘じゃない」と殴ってくるタイプの母なので、もちろんこんな風に接した記憶は無い。だから空想の母親像。願望、と呼んだほうが正直かもしれない。

「そこは『お姉ちゃん』って呼んでほしいところだけど……。いいわよ? お母さんと思って甘えても」

「いいんですか。たっぷり十二年分の母性を吸い尽くすんですから大変ですよ。それが終わり次第、反抗期に突入しますし」

「……やっぱりお姉ちゃんにしてもらおうかしら」

 八木さんが笑ったから、つられて顔が緩んだ。ちゃんと楽しくて笑うなんてこれこそ記憶の限り初めてのことで、それから泣けてきた。

「ヒィ~、夢なら覚めないでほしい。ダメなら今この瞬間に死にたい」

 手放し難い感触にギュッとしがみ付く。この柔らかな豊満なら母性十二年分は固い。

 八木さんは体を揺すって笑い声を上げた。

「やめてよ、縁起でもないこと言うの。大体このくらいで喜んでいてどうするの? だってまだ何にもしてないんだから。……そうだ」

「あっ……」

 八木さんがパッと私から体を離してハンドルに向き直った。名残り惜しくてブラウスの裾を握ると同時、エンジンが音を立てて車が振動する。

「今からお姉ちゃんと良い所に行こう。十二年分には見合わないけど、とりあえず甘やかしの頭金を支払うわ。残りは分割ね」

「あ、甘やかし? 私に?」

 とんでもない宣言にゾッとした。私はまだ人権に不慣れで、スキンシップだけでもありがた過ぎるくらいなのにこれ以上何かされたら過剰摂取でショック死してしまう。

「やめてください。どうして八木さんがそんなことしなくちゃいけないんですか」

「人生は神様の気持ちひとつなんでしょう? それなのにあなたがこんなことになってるのは明らかに神様の落ち度だもの。下働きである私にも責任の一端があると思わない?」

「私なんかが責任を負わせるなんてそんな! あのっ、どこかへ行くなら私のような者は縄で引きずって貰えれば充分なので。せめてトランクに詰めていただければと」

「こりゃひどいわ。嫌がったって引きずってでも付き合ってもらうわよ、ショック療法」

「だから引きずってほしいんです!」

 車を降りてしまいたかったのに、ドアの開け方がわからずにバタバタしている間に車が発進してしまった。


 到着した先は、銭湯だった。

 手近な駐車場から歩いて暖簾をくぐり、料金表が目に入った瞬間に意識が遠のく。

「お、お金がかかる!」

 ショックから立ち直る前に八木さんがお金を二人分払ってしまった。更にタオルやらボディソープなどなどのセットを受け取る一連の追い打ちでいよいよ卒倒しそうになって、慌てた八木さんに支えられた。

「いちいちこの世の終わりみたいな顔をしないでよ。ちょっと面白いじゃないの」

「こんな至れり尽くせり、恐縮で心が持ちません」

「『手ぶらセット』だって。何にも用意してなくていいんだから便利よね」

「ぜひゅぅう……ぜひゅぅう……」

「呼吸までおかしくなってる。いいからリラックスしなさいよ。そういう場所なんだから」

「そ、それがルールなら……」

 八木さんは鼻歌まじりに脱衣所を進んで行く。こんな所で取り残されたらたまらない。

肩を縮め背中を丸めてできるだけ目立たないようにコソコソ付いて行くしかなかった。

 番台の人も含めて他のお客さんはおばあさんばかり。長椅子に寝そべったりマッサージチェアで震えていたりと数人いる。幸い見知った顔はいないので家に連絡がいくようなことはなさそうだけれど、それでも恐い。

 一方で八木さんは陽気だった。

「いやー、日の高いうちからお風呂入る贅沢なんて久しぶりだわ。就職してからこっち一度もなかったかも。休みの日は夕方まで気絶してるし……」

 上機嫌だった声が段々と暗く沈んで動きが固まる。かと思うと乱暴に服を脱ぎ、備え付けのカゴへ放り込み始めた。

「これ考えるのやめよう。お風呂はそういうストレスを忘れる為にあるのよね」

 あっという間に裸になった八木さんの、そのプロポーションが見事でつい見惚れてしまう。胸が大きい人、腰が細い人、足が長い人。それぞれなら見たことはあるけれど全部揃った人というのは初めてだった。脱衣所にいるおばあさんからも息を奪う、女性ホルモンが恐ろしく都合よく作用した芸術品。とてもではないけど近寄りがたい。

「なにしてるの? 早く来なさいよ。体洗ってあげる」

 ミニボトルが入った透明のポーチを振ってヴィーナスが私を呼んでいる。職業的に日本神話の女神で例えたほうがいいとはわかっていてもコレというのが思いつかなかった。

「あら? 見られていると恥ずかしいなら先に行ってるけど――」

「わっわっ、一人にしないでください!」

 大急ぎでジャージと下着を脱ぐと、周囲がザワつくのがわかった。さっきの八木さんと同じように注目が集まっているものの、意味合いは全然違う。

「あっ……これ、もう痛くないはないんです。ガリガリだから? ちょっとぶつけるとすごく目立っちゃって」

 畑仕事を手伝っていてもなぜか焼けない青白い肌にはあちこちに濃い藍色の痣がある。私は体を隠そうとうずくまった。ただ一番派手な背中だけは隠しようがない。

「お目汚し申し訳ないです。どうせならあちらを見てください」

 八木さんのくすみどころかホクロひとつ無い体と、クラスメイトに「汚い」と罵られる私。比べたら十対ゼロで完封当選する。綺麗なものを見たほうが気分は良いはずと思って掌を向けた八木さんがノシノシ歩いて戻って来た。瞼が半分降りた目で私を睨んでいる。

 叱られると竦んでいたら、優しい手つきで立たせてくれた。

「少しゴメンね。あなたがここにいるって外に広まらないようにしないといけないから」

 抱き寄せられて、耳を塞がれた。

 その間に何が起きたのかはわからない。ただそこにいたおばあさんたちが一斉に怯えた顔をしたから、八木さんが何か言って脅したことだけは伝わった。

「さ、お風呂行こう。体冷えちゃう」

 私の耳から手を外し、目上のお年寄りを怯えさせたばかりとは思えない慈愛の笑顔。おばあさんたちが脅されたのに私がこの扱いなことがふしぎで仕方がない。どういう教義ルールに従って生きていたらこうなるのか、八木さんは完全に私が知らない世界から来たようだ。

「……あっ、そっか。八木さんって、〝ヤクザ〟なんですか?」

 それなら自由な行動にも説明がつく。人の道を踏み外しているのならどこへでも行けるしなんでもできるだろう。

「まぁ、なんてこと言うんでしょこの子は。違うに決まって……あー、うぅ~ん、司法と行政がぐっちゃぐちゃな時代はともかく、現代は違うわよ。仏教は衆生の安寧が目的だけど、こっちは人を土地単位で結び付けることが元来の在り方だから、地回り的な役割は必要だったはずなのよねえ……。まあでも私はそういうの担当じゃないし、今はあなたの味方だから恐がらなくて平気よ。あ、シャンプーハット借りる?」

 表情をコロコロ変えながら引き戸の先の浴室へ踏み入って椅子に座り、上機嫌にポーチからミニボトルを取り出して目の前に並べていく。そんな八木さんを呆然と眺めた。

(おかしな人だなあ……)

 先に何人かいたお客さんたちが何かを察してそそくさと出て行くので申し訳なく思いながら、誘われるまま隣に腰かけ今更なことを考え始めた。

(この人、どういう人なんだろう)

 廃神社へ生贄として連れて来られ、不法占拠していた私なんかにここまで手厚く構ってくれる。どんな目論見があるのか。普段ならそう疑ってしまいそうだけれど、背中を流してくれている間うしろでずっと泣いている人を悪く思うことはできなかった。


 そう言えば初めての銭湯で、引き続き背中以外も八木さんに頭を洗われる。分けて貰ったシャンプーで髪を洗っていたらいきなり叱られたせいだ。

「そんなに力任せにワシャワシャしたら髪が傷んじゃうでしょ? まったくもう……うわ、なにこれ、普段どうやってるの? 可哀想なキューティクル……」

「なんだかよくわかりませんけど、すいません。使える時は石鹸です」

 お湯で流すだけで済ますつもりでいたらそれを見抜かれていて、八木さんがわざと目の前でミニボトルを傾けて中身をこぼそうとしたのをつい掌で受け止めてしまった。それから始まってこんなことになっている。

「せっかく素材は良いのにもったいない。何か考えないといけないわね。面白そうだし」

 教わった洗髪法は知っているやり方とかなり違っていた。自分なら米を洗う手つきと変わらないのに、八木さんは撫でで塗り込むような動作をれるくらいに繰り返す。

「あら? すごいクセ毛だと思ってたけど、あなた本当は直毛なんじゃない」

 切り揃えても色んな方向に跳ねる私の髪をとても丁寧に扱ってくれる。まるで自分がまっとうな存在になったみたいでムズ痒い。

 同時に八木さんにとってはこれが当たり前で、彼女は自分自身のこともこうして大切に扱っているんだろうと思い当たった。

「八木さんはここまで気を配るから美人なんですか」

「えっ、何急に褒めて。何か出すからちょっと待ってね」

「蛇口を捻ったらお湯が出るだけで『申し訳ない』と思ってしまうこの状況なので、どうぞそのままでお願いします」

 息をするだけで「空気を吸えてありがたいと思え」と、全然空気を管理しているわけでもないクラスメイトから言われる日々を遠くに感じる。

「さっきから気になっていたけど、あなた全然考え変えてないわよね? 神様とか格下とか、まだ言い続けるつもり? ……ハイ、じゃあ流すわよー」

 頭を低く下げたところへシャワーを当てられる。顔面に冷水を浴びせられるかとドキドキしたものの、そんなことにはならなかった。

「じゃあ次は私がする番ですね」

 シャンプーを手に取って、八木さんをマネて沁み込ませるように髪を撫でていく。同じ髪でも自分のものとは感触が全然違ってスベスベしている。これがキューティクル。こんなところからもやっぱり〝格〟を感じずにはいられなかった。

 洗う必要を感じないくらいに綺麗な存在に自分が触れていることに現実味が無くて、いけないことをしているようでゾクゾクする。

 そうしながらも、話は続けた。

「あの……別に八木さんの意見を無視しているわけじゃないんですよ。でも八木さんの説では私にもその――じ、ジンケン? それがあるというだけの話であって、私が他の人たちと比べたら格下っていう事実は崩せないじゃないですか」

 神様の教義ルールが嫌で逃げ出したことは認めるし、同じ教義ルールを他人に強いたくはないこともわかった。でも『他の人と平等』という別件については呑み込めない。

「根深いわねえ。あなたが格下だっていう根拠は?」

「……誰にも愛されていないからです。これが一番よく言われます。子供は望まれて産まれてくるものだから普通親には大切にされるのに、私は違う。普通じゃないものはいじめられるんです」

 自分でもあまり口に出したくない論拠。胃がギュッと縮むのがわかる。八木さんも苦い顔をした。

「あなたの周りには『けったくそ悪い奴が多い』っていう風に聞こえるんだけど。まあここはあなたが進める筋道で話しましょうか。……あ、もういいわよ。流してくれる?」

 言われた通りシャワーを手に取って丁寧に濯いだ。泡が流れると黒髪が艶を増して輝きだす。この人は毛先まで美しい。

「それじゃ次は体を洗いますね」

「うん、お願い」

 目の粗いタオルにボディソープを伸ばして泡立てる。タオル越しでも剥き出しの背中に触れるのは緊張した。新雪みたいに綺麗だ。

「『愛されているかどうか』の証明は難しいわ。例えばお金をかけたからって、一概にはね。資産家亭主の財産で散々豪遊した奥様が『愛されてない!』みたいな主張をすることはあるわけでしょう。本人の幸せに結びつくかが肝心だと思うけど」

「例えが別世界過ぎてちょっと……」

「じゃあ『ファミレス無料券おひとり様専用』は幸せかどうか、これならどう?」

「とても羨ましい話です」

「おおっと、これは私が間違え――ちょとちょと待って! わぁビックリした! なんで股に顔ツッコんで来るのよ?」

 身を屈めたら太腿で首をギュッと挟まれて、「ついに罰が下った」と気が遠くなったものの、それは一瞬のことですぐに解放された。すかさずタイルに手を付いて謝る。

「すみません。私はただ内腿を洗おうと……」

「そんなトコまでしなくていいわよ。髪はやり方を憶えてほしいから任せたけど、基本手が届く所は自分で洗うから」

「はぁ。でも私、修学旅行ではみんなの全身洗いましたけど。あのときは修学旅行費払ってなかったからで、今回は入浴料払ってませんし」

「聞けば聞くほど……ほんっと嫌な連中! 修学旅行費の支払いとそいつらに何の関わりがあるのよ」

 とうとう怒りだしたので萎縮している間に、八木さんは私の手からタオルを奪うと残りをパパっと洗った。触れる機会を無くして残念、なんて口を挟む暇はない。そのままの勢いで私も洗われてお湯をかけられる。

「話の続きはお湯に浸かりながらね」

 誰もいない浴槽へ足先を入れると、温度が高くてちょっと怯む。少しずつ身を沈めていきながら、八木さんと二人同時に「くぅ~、あ~っ」と声が漏れた。本職の『極楽、極楽』が聞けると思ったのに、残念ながら無かった。極楽は仏教なのかもしれない。

「……なあんにも、考えたくなくなるわねえ……」

 タオルで髪をまとめながら八木さんが長い息を吐く。怒りも鎮まったようでよかった。自分の問題を片付けるより、とりあえず八木さんに苛立っていてほしくない。

「ねえ、もっとゆったりくつろいだらどう? 折角の広いお風呂なんだから」

 湯船の隅で縮こまっていたら見咎められてしまった。不自然に見えるのだろうけれど、私はいつだって自然な状態に慣れていないのだから大目に見てもらいたい。

「お湯に入るなんてそれこそ修学旅行以来なので……。私のような者が熱を奪うことが申し訳なくて申し訳なくて」

「あなたの境遇とその受け止め方はまだまだ想像を超えて来るわね……。ホラ、いいからこっち来て。手足を伸ばーす伸ばーす」

 引っ張られて隣へ座らせられ、壁側の縁へと背中を預けた。とてもじゃないけれどリラックスなんてできない。このままではお湯でのぼせる前に自力で熱中症になる。それでまた病院に担ぎ込まれたらと考えると余計に緊張が増した。

「あのっ……もしよろしければ手を繋いでいてもらうわけにはいきませんか?」

「えっ、どうして?」

「自分でもよくわからないんですけど、八木さんに優しくされるのはなぜだか平気なんです。っていうか嬉しいんです。そう言えば八木さんとくっついてる間は気持ちが落ち着いてたような気がして。手を繋いでれば大丈夫かなと」

 口がベラベラと自分のものじゃないように動いた。納得してもらえる内容なのかは不安だったけれど、八木さんは頷いてくれた。

「まあ、臨時の保護者としては悪い気はしないわね。どうせなら手とは言わずに……おいでなさいな」

 八木さんの両手が脇の下に入り込み、体が浮いてくるんと回り八木さんの前に収まった。

「ちゃんとお願い聞いたんだからリラックスしてね」

 後ろから抱きしめられ引き寄せられても固まっていたら抵抗になってしまう。自分から言い出してそれはない。大人しく豪勢なクッションに背中を預けた。

「……やっぱり落ち着きます。『申し訳ない』より『気持ち良い』が勝つからですかね」

「その言い方だと問題があるように感じる……。心配だから一応言っておくわ。誰とでもこんなことしちゃダメよ?」

「ハイ。でも私と八木さんって今日が初対面なんですよね」

「そう言えばそうだったわね。ならちょっと距離を置く? ――ああもう、冗談よ。震えなくていいから。よしよーし、離れないわよ~」

 ぎゅっと抱かれて赤ん坊をあやすように小さく左右に揺れる。湯面を揺らす波よりも抱擁が柔らかい。

 恐ろしい一面はあっても八木さんは私を守ってくれると信じられる。この人の腕の中なら「ここにいたい」と思わせてくれる。生まれて初めて、居心地が良かった。

「ねえ、名前で呼んでもいい? 『めいちゃん』って。私のことも名前でいいから」

「ハイ。それじゃ……瞳さん」

 世間にあるという〝友達〟というのがどんな存在かは知らないけれど、今自分が味わっているほど近しくはないはず。それがわかるから特別なものを手に入れたという自信が湧いてきた。自分が大きくなるような、ふしぎな感覚だった。

「さて、そろそろ話の続きに戻ろうか? どうしてめいちゃんは他の人より格下なのか、根拠は〝愛〟だったわね?」

 私が「見下されて当然なクズ」という事実を確認する為の話し合い。黙って頷くと瞳さんは話し始めた。

「愛っていうのは不変かな? 例えば同級生たちは『親から愛されてるから格上』って言うなら、親が離婚したり死んだりしていなくなったときには愛が減って格は下がる?」

 瞳さんがこの話し合いに納得して、私が格下の底辺だと認められてしまったら間違いなく突き放される。そうならないよう、自分が信じる常識が打ち破られるよう祈りながら返事をした。

「過ぎて失くしたことだろうと『愛された』っていう経験はその人にとって大切な宝になるはずです。それは『愛される資格がある』っていう証明になると思います。みんなにはそれがあって、私には無い」

「〝経験〟と〝資格〟ね。一度愛されたことのある人だけが、その後も愛されると。ならその一度目は産まれた瞬間? ううん、親なら出産前からだって子供を愛することが多いわよねきっと」

「私の場合はそんなんじゃなかったと思うんです」

「いやいや『そうじゃなくちゃダメ』ってことじゃなくて、要するに『一度目』のタイミングにはバラつきがあるって話よ。今愛されなくても、将来的には愛されるかもしれない。そうでしょ? だから誰にだって愛される資格はあるのよ」

 その弁はちょっと強引だ。

 今の話では「バラつきがある」とは言っても大体は赤ん坊の頃――当人の記憶に残らない期間内に収まる。記憶のない体験はここでいう経験とは呼べない。肝心の〝愛された実感〟が無いのに「愛される資格がある」なんて自信が持てるだろうか。

 無意識に唸ってしまって、瞳さんに不満を悟られた。

「じゃあ逆に考えてみましょう? 愛された経験を『宝』って言ったけど、めいちゃんにはそういう良い思い出はない?」

 そんなものあるわけがない。反射的にそう返そうとして、思い留まった。

「ありますね。今です」

「えっ」

 ギシっと、私を包む瞳さんの腕が力むのを感じた。それを気にするより自分の気持ちを伝えたくて心が昂る。

「気持ちが安らいで嬉しくて、こういう感じを〝幸せ〟って言うんですよね? このまま時間が止まってしまえと心から願います。夢なら覚めないでと悪魔にだって祈ります」

 でも瞳さんは同じ気持ちじゃないらしかった。残念だけれど、仕方ない。

「う~ん……めいちゃんはさ、今まで辛く当たられてばっかりだったからそう感じちゃうんだろうけど、別に私が特別なわけじゃないのよ?」

 なんてこった。信じられないことを聞いた。世間には瞳さんみたいな人がゴロゴロしているらしい。どう見ても女神なのに。

「でもでも、私にとって瞳さんは特別なので。瞳さんだってさっき『誰にでもこんなことしちゃダメ』って言ってたじゃないですか。特別扱いですよ。特別ですよ」

「あー、言っちゃってるわねえ……」

 唸る瞳さんの声は渋い。お湯はこんなにも温かいのに、体が冷たくなっていく気がする。

「……ごめんなさい。調子に乗りました。私に優しくしてくれるのは特別なことじゃなくて、瞳さんは誰が相手でもこんな風に全裸で抱き付くんですね」

 瞳さんが見境のない痴女だったと知って、とても悲しい気持ちになった。大切にされていると思ったら、猥褻わいせつをされていたなんて。

「ちょとちょと待って! そういう意味じゃないわよ!」

 慌てた風に突き放されたから更に不安になった。瞳さんに見捨てられる。

「他の人にイタズラするついででいいので、これからも私に構ってもらえませんか? 同情でも痴情でもいいので……」

 心細くて震えていたら、またガバッと抱き付かれて前傾から戻った。

「私が言いたいのはめいちゃんにとって私が〝唯一〟じゃないってコト。私なんかよりずっとめいちゃんを大事にしてくれて、愛してくれる人にきっと出会えるから」

「そうでしょうか。でも、そうだとしても私は瞳さんに愛されたいです」

 こんな人が他にいるなんてとてもではないけれど信じ難い。そんな奇跡が起こらなくても今この瞬間の想い出だけで一生ニコニコして奉仕できる。

「……グイグイ来るわねえ。めいちゃん、あなたキャラ変わってない?」

「だって瞳さんとじゃなかったら、畑のおじいちゃんと結婚するのが一番幸せっていうことになりそうなので」

 畑のおじいちゃんも厳しい神様に仕えているようだからできれば避けたい。それよりは瞳さんよりも偉いあの子供の神様はふしぎなところはあっても慣れていけそうな気がする。

 瞳さんのため息が耳をくすぐった。呆れ顔が目に浮かぶ。

「……わかった。それならめいちゃん、成人するまで待てる? そうじゃないと私が問答無用で逮捕されるから。今だって割と言い訳できない状況だし」

 それと、と間に挟んで、背中の密着が増す。

「同情だけでここまでしないわよ。めいちゃん、あなたかわいいわよ」

 耳たぶを唇で弄ばれると、くすぐったくて笑いがこぼれた。

 どうやら痴情の方で興味を持たれたらしい。理由は何でもありがたかった。

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