格下少女のDo It Godself.
福本丸太
神はそこにいまし
私は神様と暮らしている。でもそれは「見守っていてくださる」とか信仰のことじゃない。だって神様は、そこにいるから。
「煮えたかのー? も少しかのー?」
斜面に石を置き水平に設置したカセットコンロへ向かって、大根しか浮いていない味噌汁を覗き込む女の子。彼女がその神様。
不便なくらいに長い黒髪と愛くるしい顔立ちは童話のお姫様のよう。その一方で膝をペチペチ叩いてリズムよく腰を浮かせ、お尻の下の丸石をペタンペタン鳴らしてはしゃぐ様子はいかにも子供らしい。見かけは五才児くらいで、表に白い布が目立つ着物は巫女さんというより神主さんの服に似て見える。
それが私の同居相手で今の神様。
「神様、料理を待つ間によかったらコレをどうぞ。頂き物なんですけど」
「捧げ物か、感心感心。ほほう! これはまた随分と華やかな箱じゃの?」
横長の箱を差し出すと大喜びで中からドーナツを取って、しげしげ眺めるパッチリした瞳は新鮮な驚きで輝いている。まるでそれが何かを知らないみたいに。
「変わった菓子じゃのー? 無作法な遊び心をくすぐられる形じゃ」
神様はずっと眠っていたので現代文明には疎い、ということになっている。「そういうのいいですから」なんてツッコんではいけない。相手は神様なのだから。
「それは〝ドーナツ〟です。砂糖たっぷりで甘くておいしいそうですよ」
設定に付き合って説明すると形よりも味への興味が勝ったのか早速かじりつく。そのひと口が小さいこと。味噌汁との組み合わせを気にしない無邪気さも相まってほほ笑ましい。
「今の世の子供はこんな良い物を楽しんでおるのか! 羨ましいことじゃのう」
チェーン店のドーナツをうっとり眺める蕩けぶりにムズムズしてもツッコんではいけない。お気に召したことにホッとして、まだたくさん入っている箱を神様の隣へそっと置く。それからカセットコンロの火を止めて膝で地面を擦って離れようとすると、神様が驚いて食べかけのドーナツを落とした。腿の上で跳ねたドーナツが鍋の中へ落ちるのを見て悲しそうに見届けてから、パッとこっちを向く。
「食べぬのか? お主も今の世の子供じゃろう。神様許すから甘味を楽しむのじゃ」
甘味の喜びから覚めて私を気にする配慮は子供らしくも神様らしくもない。
「神様と同じものを食べるなんてできませんよ、人として。だから全部神様が食べてください。残り物があれば私はそれをいただきますので」
神様を優先するのは当然。それを怠ければバチが当たる。
そんなルールは神様のほうがよく知っているはずなのに、何やらとても不満そうに顔をしかめている。ツヤツヤな顔の肌にはシワひとつ寄らないけれど。
もしかするとドーナツのせいかもしれない。口に入れた時には甘くてもあとから苦くなる、そんな食べ物だったとしたらこんな顔になったのも頷ける。
と言うのも、私自身はドーナツを食べたことがない。さっき伝えた「甘くておいしい」の説明は聞きかじった評判をそのまま言っただけで、自分で体験した感想とは違う。
評判が間違っていて、神様の機嫌を損ねたのなら大変。なんとかフォローしなくては。
「すみません。お味噌汁もそろそろかと思いますので、口直しにすぐ用意しますね」
この応対がまずかったようで、神様の口調は勢いを増した。
「さてはお主、その汁物も食べぬつもりじゃな? 料理はお主が作った物で、この菓子はお主が授かったものじゃろ? それを残らず供物にしては飢えてしまうのじゃ!」
おかしなことを言う。
「そんなことは神様が気にすることじゃないですよ。そもそも『八百屋さんで大根を買ったらドーナツが付いてきた』なんておかしな話だと思ってたんです」
私が物を受け取る不自然も、その後の宛て先が神様なら納得できる。
「哀れまれておるのじゃよ! 年端もいかぬ子供が汚れた格好で飢えておれば、不憫に思うのが人の情けというものじゃよ!」
神様が人の情けを説いている。これまたおかしな話だ。
「ああ、そういうワケだったんですか。……じゃあもう二度とあの店には行けませんね。誰かにすがって甘えるなんてあってはいけないことです。人として」
「そういうのやめい! お主は人がひとりで生きていると思うておるのか?」
またまたまた、困ってしまう今更な質問だった。
「そんなわけないじゃないですか。独りになんてとてもなれませんよ」
空っぽのお腹を押さえつつ立ち上がり、そばに立つ廃屋を見る。どこに注目しても朽ち果てている見捨てられた神社。今朝までは家にするつもりでいた、私の最後の逃げ場所。
「どこに行ったって神様はいるんですから」
私はずっと神様と暮らしてきた。家では祖父母と両親、自分以外のみんなが神様。親は子供より偉い。親の親は偉い。私から見れば家族は神様、というのが家庭での
神様に奉仕するのは人として当前のこと。なので家事のすべては私の担当で、殴られてもご飯をもらえなくても逆らってはいけない。
なぜなら神様だから。
小さい頃は学校で同級生から聞く〝家族〟と自分が知っている〝家族〟がえらく違うことが不思議で、そのことを話したら同級生もみんな神様になった。親に愛される子供は偉い。愛されない子供は偉くない。という新しい
他にも「子供だから」「女だから」「不愛想で生意気だから」などなど、色んな
そんな世の中にもすっかり慣れて過ごしていたら、本日春の連休初日に私はとうとう家を追い出されることになった。
とは言っても神様と同じ屋根の下で暮らすことは非常識なことので、私はずっと前から外の物置で寝起きしていた。ところが朝になって家事をする用事でも中に入れてもらえず、玄関の戸は押しても引いても沈黙を続けた。
しばらく困ってから庭に自分の制服や学校用品がバラ撒かれているのを見つけ、「これはいつもと様子が違う」と事態を察した。
私はどうも本格的に捨てられたらしい。
いよいよ自分の居場所が無くなったと知った私は、ところがとてもテンションが上がった。「自由だ!」と叫びたくなる興奮と、学校用品だけを抱え飛び出したところで問題に気付く。家も無くこれからどうやって生活していくのかを考えなくてはいけない。
「そうだ、山へ行こう」
どこにも居場所が無い。頼る当てもないし、誰かが居る所だとまた新しい
これからは大自然に
幸いなことに近くの山は「大昔に大勢の人が死んだ」とかいう噂があって誰も寄り付かない。身を隠すには好都合だった。
そうして意気揚々と登った山中で見つけた廃屋。小さな鳥居らしき柱が近くにあったので、小さな
途中には参道どころか人が通った跡も無くて雑草が生え放題。放置されてかなり時間が経っているようで、とても人が住める物件には見えなかった。そもそも住居とは違う。
それでも屋根がある。壁がある。だったら私には充分だった。
人がいなければそこは楽園。なにより自分と同じ見捨てられた存在なら、このボロ屋を直していけば自分の人生もやり直せる気持ちになれた。
壁の穴は埋めたらいい。床が抜けるなら貼り替えればいい。動きやすい学校ジャージに着替えたら決心はますます固まった。そうだ、私はこの場所で生きていくのだ。
どうせ家では
連休一日目。家を出てそのあと。
当初は「山は自然がいっぱいだから食べ物もある」と安易に考えて足を踏み入れたものの、そうそう都合よく木の実なんかが成っているはずもなかった。試しに足元から柔らかそうな雑草を選んで口に入れて、自分の浅はかさを思い知る。
家での食生活を思い出し、庭の砂利に撒かれた残飯でも一応は食べ物だったということもわかった。というかそれも元は私が作った料理なのだけれど。
なによりも最初に食べ物の不安を消さなくてはいけない。一応当てはあった。
見つけた廃神社を住居に決めて荷物を運び込むと、ひとまず最低限の生活用品を買いに出た。家で買い物も担当していたのでどこで何が安く手に入るかはよく知っている。
近所の農家で畑仕事を手伝ったお小遣いのおかげでお金は少しだけどあった。預かってもらっていたそのお金を受け取ると、不思議となんでもできるような気になれた。テンションは増々上がる。
畑のおじいちゃんはとても良くしてくれる人だった。だから彼だけは神様と無関係かと思っていたら、都会へ働きに出ていた息子さんが戻って以来、その家では息子さんのお嫁さんが神様になったらしい。新しい神様の新しい
そんなタイミングだったので丁度良かったのかもしれない。神様が関わるからには時間が経てば預けていたお金は無くなっただろうし、こんなことでもなければ私はお金を手にしようとは考えなかった。
畑仕事を手伝ったのは別にお小遣いが欲しかったからじゃなくて、自分に厳しくしない人のそばにいたかったから。仕事終わりにくれるおにぎりがありがたかったのもある。
他に収入減が無いので貴重なのはもちろんだけれど、楽しかった思い出の証でもあるからこのお金は大切にしたい。とはいえ大盤振る舞いしたとしてもあの廃神社を再建できるような大金ではないから、どっちみち工夫をしなければいけなかった。
山には不法投棄スポットがあったので、金物店で買った小ぶりなバールを使い廃品の家具をバラして板にし、廃屋の壁と床を大まかに補修した。細かい隙間には泥を詰めた。雨漏り確実な屋根の修理はお手上げだったので上からブルーシートで覆った。
他に買った物は釘・バケツ・脚立・カセットコンロとガス缶・少々の食器と鍋やお玉といった調理器具・調味料。必要な物を手に入れ、廃神社の補修作業をこなしていたら空が暗くなり始めてしまう。外灯の明かりが届かない山中で夜の手仕事は難しい。少しでも見えるうちに夕飯づくりに切り替えた。
選んだ食材は畑のおじいちゃんが分けてくれた作物の芋。茹でて塩を振ったらそれでおしまい。こんなものを家の食卓に出したら殴り飛ばされるけれど、自分が食べる分だけだからこれで済む。
家出して初の食事に大した感慨も無く
雑に体重をかけたら割れそうな上り口の階段に皿を置き、茹でた芋を供えて見せた。作法はよく知らないのでテキトーに手を叩いて拝む。
「……これからここでお世話になります。よろしくお願いします」
実在はしないのが〝本物の神様〟の良いところ。殴られたり怒鳴られたりする心配がない。信仰心は無いなりに自然と感謝の気持ちが湧くけれど、供えた芋は勿体ないのですぐに自分で食べる。
食事が済んでさっさと眠ろうとした時、布団が無いことに思い当たった。廃神社をなんとかすることばかりにかまけて忘れていた。幸い季節は春。学校ジャージを羽織れば寒さには耐えられる。物置小屋での冬を思い出せばなんてことはない。
しかしここで初めてテンションが落ちてしまった。
落ち着いて振り返れば「初めての自由に興奮」なんてなくて、単にパニックで麻痺していただけだったのかもしれない。
連休は土日始まりの五連休。できるだけ早くに生活基盤を整えて当たり前に登校できるようにしたい。そして中学を卒業したら――。
そのあとどうするのか。そもそもあと二年、この山にいられる保証が無い。
今まで家族という神様に支配され続けてきたから自分で物事を決めたことがない。それが急に怖くなった。かと言って家に戻ることもできない。それを決めるのも私じゃないから、どうにかここで暮らしていくしかない。
私にはそれだけで充分な屋根の下、狭くても一人ならたっぷり余る部屋の隅で膝を抱え、慣れっこなはずのひとりの夜を震えて過ごした。
連休二日目の朝、とても良い気分で目が覚めた。不安でなかなか寝付けなかったけれど、それでも普段よりはかなり就寝時間が早かったおかげで疲れが取れて体が軽い。
外に出ると朝もやに日光が差し込んでいるのを見て、太陽が昇っても眠っていられたのは久しぶりで嬉しくなる。昨夜苦しめられた将来の不安は一旦忘れて「今日一日をがんばろう」という意欲が湧いてくる。私は環境や気分に左右されやすいタイプなのかもしれない。
住む場所は見つかったので次は食料問題に取りかかる。
畑のおじいちゃんから貰った芋はお嫁さんに隠れて持ち出せる分だけだったのでそんなに多くはない。続けて食べれば連休が明ける頃には無くなりそうだし、山の中は朝霧が立ち込めるくらい湿度が高く下手に節約しても腐らせてしまいそうだ。これはさっさと食べてしまって、そのあとの食料を早めに調達したほうがいい。
自給自足と言えばやっぱり畑。そう思っていたから畑のおじいちゃんには作物とは別に種芋を分けてもらっていた。本当に感謝してもし足りない。生活が安定したら何かお礼を考えなくては。
山の土は黒く、一見栄養豊富に見える。しかし詳しくは分からない。畑仕事を手伝っていたと言ってもおじいちゃんから指示された通りにしていただけだから何をどうすればいいかは思いつかなかった。でも多分、知っていたところで土を耕し種を蒔いたあとは水を遣るくらいのことしかここではできない。
もう少し手順を具体的にする為、山を下り町役場に併設された町民図書館で家庭菜園の本を借りた。その場で少し読んでみたら「ジャガイモは90日で収穫できる」と書かれていて、他の品種に比べて「とても早い」そうだ。
それを知って目の前が真っ暗になった。今すぐ植えても三ヶ月の間は食べられない。
落ち込んでいても仕方がないので、将来だけでなく現在の不安からも目を逸らすことにした。考えるのは「今日何をするか」に切り替えて、図書館から商店街へ移動する。
買い物は好きだ。「お金を渡して商品を受け取る」というとてもシンプルなルールが心地良い。いきなり知らないルールが出てきて殴られることがない。
八百屋さんで大根を買って、そこでアルバイトをさせてもらえないか頼んでみた。どうしても現金収入が必要だとわかっているからだけれど、この際現物支給でも構わない。売れ残って傷んだ商品でも分けてもらえたら食い繋いでいける気がする。私のような人間は結局誰かにすがってタカらないと生きていけない。
八百屋のご主人は以前から何かと優しい言葉をかけてくれる人だったけれど、雇ってはくれなかった。ガッカリしていると店の奥から見たことはある全国展開のドーナツ店の箱を持ち出して来て、それをくれた。「これをやるから二度と来るな」という意味だと思う。カロリーが高い食べ物はありがたい。
下手な所を選んだらタダ働きさせられるかもしれないので一旦はアルバイトを諦め、あとは生活雑貨店で身の回り品を買い足して山へ戻った。
貰ったドーナツはいざというときまで取っておくことにする。最近のチェーン店の食べ物は保存料がもの凄くて「放置しても数か月腐らない」という都市伝説を聞いたことがある。このありがたいドーナツにも是非がんばってもらいたい。
それから廃神社の朽ちて外れた扉の代わりにカーテンをかけて、あとは畑の準備をして過ごした。日当たりの良い場所を探してスコップで多少土を掘り返すうちに夜になり、夕食はまた芋を茹でた。
一応、食べる前に一旦お供えする手順は踏んでおく。
変化は三日目の朝に起きた。
もそもそと寝床から起き出すことが許されることに喜びを感じながら川に出ると、顔だけでなく体も洗いたくなった。しかし日陰を通って来た流水は冷たい。
そこで川の水をバケツに組み、日当たりの良くなる場所に置いておくことにした。そうしておけば日差しの熱で昼にはいくらかは温かくなってくれると期待できる。
朝食は昨日買った大根。切り口から傷んでしまうから一日で食べてしまいたくて今日に回しておいた。味付けは味噌。芋と同じように茹でてから塗るより汁物にしたほうがよさそうと少し迷って、ゆで汁を捨てる手間が面倒なので汁物を選んだ。
根ものは水から、葉ものは湯から。薄く切った大根をコトコト煮込んで、それから火を弱めて味噌を加える。
先に茶椀を用意しようと鍋から顔を上げて、鼻歌が止まる。
廃神社に人がいた。取り付けたばかりのカーテンから顔だけ出し、小さな女の子がこっちを見ている。
「のう、娘。お主ここで何をしておるのじゃ?」
それはこっちのセリフ、とは思った。でもどんな答えが返っても意味はない。誰かがいる――それだけでもう終わりだ。ここはもう私の場所ではなくなった。
同級生は昔から私より偉くて、私はずっと偉くなかった。よその家のペットにも私はひれ伏す。だからこんな小さな子供が相手でも、私にとっては逆らえない神様だ。
「あっ……ええっと」
ぶわっと脂汗が出て足が震えた。とても目を合わせていられなくて下を向くと鍋が煮立っていた。火を止めなければいけないけれど何もできない。
カーテンをよけて外へ出るくると女の子の神様は着物姿だった。和装なんてほとんど見たことがない私にも質の良さが一目で伝わる仕立ての純白。お金があって、親に手をかけてもらっている子供。かなり偉い神様だ。
「すみません。えーと……どこのおうちの子ですか?」
「うん? 神様は神様じゃよ。家はここじゃ。神様の家じゃよ?」
縄張り宣言までされてしまった。ここはお前の場所ではない。自分の場所だと。
考えてみれば山の中の廃屋なんて子供にとっては格好の秘密基地になる。既に誰かが出入りしていたなんて気が付かなかった。
そうとわかったからには明け渡さないといけない。
「あー、そのう……すぐに片付けますので」
「ははあ、食事の支度をしておったのじゃな? うむ、よいぞ。続けるがよい」
この神様は寛大なようだ。秘密基地に年上なんていてほしくないはずなのに、今すぐ追い出すつもりはないらしい。
とりあえず朝食は食べられるとわかっても衝撃から抜け切れずにいたら、神様は脆い階段をぴょこぴょこ飛んで降りるなり鍋を覗き込んできた。
「これも捧げてくれるのじゃろ? 楽しみじゃのー」
なるほど、そういうことらしい。新しい神様の
「家政婦として、ここで神様のお世話をしろということですか?」
「うん? 人間が神に仕えるのは当然のことじゃよ」
「ハイ、わかっていますとも!」
神様は奉仕を求める。それは基本的なことだ。戸惑いはない。
秘密基地の管理人になれたらとりあえず出て行かなくて済む。テンションが上がってつい大きな声が出てしまい、神様を怯えさせてしまった。
これではいけない。見たところ五才くらいで昔話の人みたいな言葉遣いをするのは気になるけれど、神様は神様だ。丁重に敬意をもって接しなければ親が出てきて神罰が下る。
「それでは神様。これから誠心誠意、お仕えさせていただきます。さようなら自由、こんにちは奴隷労働でよろしくお願いします」
「う、うむ? よろしく頼むのじゃ」
地面にひれ伏して土下座する。家や学校で教わった、新しい神様に対する大切な作法だ。この神様は驚いたようだけれど、これをしないことには始まらない。
「では神様、神様のおうちはこのままでもいいでしょうか?」
なにしろ私の都合で勝手にリフォームしてしまっているから、お気に召さなければ原状復帰しなければいけなくなる。
「うむ。荒れ果ててしまっておるゆえこのままでは困るがの。まあおいおい戻してくれれば構わんのじゃ」
元通りでは不便だろうから、そこはまあ許されると思っていた。ただし、それにしてはおかしな物言いだ。元よりももっと、「本来の形」に戻せと言われている気がする。
思ったよりずっと大変な命令になってしまってガックリ来た。でも逆らえない。逆らえないなりに、好都合な部分もある。
「では神様。大変すみませんが、私をここに住まわせてもらってもいいでしょうか?」
この場所にしがみ付きたくて思い切って住み込み家政婦を申し出てみた。ここを離れたらタイミングよくお世話ができなくなるとか、一応理由は用意できる。子供の秘密基地なら親には内緒で間違いない。
「ここに……住む? お主が?」
さすがに神様が変な顔をしたのですかさず頭を下げる。
「すみません! 格下の分際で生意気を言いました!」
「いやいや、顔を上げい! そうか、お主、住む家が無いのじゃな? そういうことなら住んで構わぬ。困りごとあらば手を差し伸べるのが神様たるものの務めじゃからのー」
「ううっ……ありがとうございます! 神様優しい……今度の神様は優しい……!」
畳んだ上半身を引っ張り上げられたまますがり付く。出て行かないでもいいとわかったら安心して涙が出てきた。
「お主、何やら様子がおかしいのう。さては厄介な事情を抱えておるな? 神様察した! どうしてここにおるか、話してみよ」
この神様はかなり変わっている。
学校の神様たちは私が「親に愛されない惨めな格下」ということは「みんな知ってる」と言っていたけれど、大体はその通りだった。でもこの神様は知らないようだ。
隠していたらあとで余計ひどく怒られる。そう経験で学んでいるから、聞かれたなら私に選択肢は無かった。
私がどういう人間かを知った人は、神様になるかそうじゃなければ関わり合いになるのを嫌ってそそくさと離れて行く。
この新しい神様の場合は初めから自称するくらいの神様ぶりで、しかも廃神社を秘密基地にしているから離れて行かない。一体どうなるだろう。
打ち明けて不安を感じる以上に半生を振り返ったことで色々思い出し、気分が悪くなってしまった。空っぽのお腹から胃液が上がって喉を焼く。ベタつく汗が顎からボタボタ落ちた。
「以上! そんな感じで、私は人間関係の底辺です」
話を終わらせ、崩れかけた姿勢を正す。
格下だからといって卑屈にヘコヘコしていたらイライラさせてしまうことは体験して学んだ。逆らわず主張せず、求められた役割を粛々とこなすことを誰もが私に望んでいる。
でも、今回は今までのケースと違った。
「ふっ、ふぐぅ~……ふぎぅ~」
うつむきから顔を戻したら、目の前で神様が泣きそうな顔をしていた。それを見た途端に気が遠くなりかける。
以前、近所の奥さんから急に赤ん坊を預けられたことがあって、世話の仕方がわからずにずっとオロオロしていたら迎えに来た時に厳しく責められたことを思い出すから今でも小さな子は苦手だ。泣き声を聞くとビクッとしてしまう。理不尽な暴力より頼まれごとを果たせなくて叱られるほうが自己嫌悪も手伝って辛い。
「わっわっ、泣かないでください! 今からちょっと川に行って飛び込んできますんで!」
先に相手が引くほど惨めな状態になれば責められない、ということも体験から学習している。その際に気を付けないといけないのは、今すぐやり直しを求められている場合にそれをやってしまうと火に油を注ぐことになる。安易にはできない切り札。
今回はその見極めを間違えたようで、神様は大きな声で怒り始めた。
「どうしてそうなるのじゃ! お主なぜ声を上げぬ? そのような境遇に辛抱できたとて、早晩潰れるに決まっておるのじゃ!」
「どうしてって……今話したように、自分で決めることなんてできないからですよ」
みんな私より偉い。偉い人は神様。私は神様の言うことを聞かないといけない。
「大きく時代が流れてもなお、子供が頼りもなく追い立てられるとは……」
神様が袖で涙を拭っているのを見ても、赤ん坊を預かった時と同じでどうしていいかわからない。オロオロするだけ。
格下が支配される世の中の仕組みはもう決まっていることで、どうしようもない。どうしてそうなっているかを考えるならそれは「社会には生贄が必要だから」だと思う。私みたいな見下される理由がある人間がその役割を背負うという必然。
嫌がっても意味が無いから私はすぐに思考を止めて不安を忘れる。今回もそうやってボーっとしていたら、泣きやんだ新しい神様に怒り顔で見つめられた。
「決めたのじゃ。誰も要らぬのならばお主は神様が貰う。神様が世の不幸からお主を守る。お主もそれでよいな!」
わざわざ支配宣言なんてされなくても、私は誰からもいいように扱われる存在なので特にどうとも思わない。とにかくここにいる許可が出たようでホッとした。
「では改めまして神様、これからよろしくお願いいたします。私は
大体は「おい」とか「クズ」で済まされるから名前を呼ばれる機会はほとんどない。それでも一応は名乗っておかないと挨拶としては足りない。
「神様のお名前はなんですか?」
でも神様は違うので聞いておかなければいけない。そう思ってした当たり前の質問に、首が傾いで綺麗な黒髪がさらさらと流れる。
「神様は神様じゃよ?」
「……はい?」
コミュニケーションが最初からつまずいた。
「えーと、そうじゃなくてですね。おうちの名前は? お父さんとお母さんでもいいので」
「神様に親などおらぬ」
一気に嫌な予感が膨らんできて慌てた。もしかしてこの子、何もわからないのでは。
「家の場所は? 夕方になったら私はどこへ連れて行ったらいいんです? ああ――違います! 私は子供を
小さな子供を預かって親に返さない。そんなことになったらメチャクチャに怒られる。
前にも預かった赤ん坊の迎えが来ないので家まで届けに行ったら、その家のおばあちゃんに「人攫い」と怒鳴られたことがある。預けたママさん自身も「知らない」と話したせいで散々なことになって、家に帰ったあとも家族から罰を受けた。
「私は格下だけど、犯罪者じゃない! 違うのに、ああっ……!」
その時のことを思い出し恐くなってうずくまったら、両腕で庇う頭に触れたのは固いゲンコツでも汚れた靴底でもなく、小さな手だった。ポンポンと、柔らかな感触からは気遣いが伝わってくる。
「
そんなこと言われたって、本当に恐い神様は子供より大人だ。親が出てきたときに子供が何を言ったって聞いてはもらえないし、そのうち子供も親の態度に合わせるようになる。だから、今ここで優しくされたって意味がない。
「いいえ! 守ってもらわなくても大丈夫です! それよりおうちの場所を教えてください。夕方になる前に、どこへ送り届けるかわからないと」
「家ならここじゃと言うておるのに。どこへも帰らぬよ」
神様が指差したのはやっぱり朽ちかけの廃神社。これは家じゃない。
これは大変なことになった。この子は家出児童だ。思い返せば「親はいない」と話したときに少しも悲しそうな素振りがなかった気がする。とは言えまさか私と同じ育児放棄とまでは思えない。それにしては清潔でやたら上等そうな服を着ているし。
当人が家に帰りたがらないのだからあとで大人からものすごく怒られることは決定的になった。そこはもう諦めて思考停止するしかない。嫌なことはどんどん考えなくしていく。
「――わかりました。神様は今夜ここに泊まるんですね? では荷物をすぐに運び出して室内を明け渡します。勝手に占拠してすいませんでした。必要なものがあれば残しますので言ってください。布団代わりのタオルケットはそのままのほうがいいですよね? 私は軒下で眠らせていただきますので」
神様が快適に過ごせるよう尽力することだけを考える。そうすべきなのに、なぜか反対の声が上がった。
「なにゆえ軒下で眠る? せっかく中を整えておったのじゃから使えばよいのじゃ」
「だって神様と同じ屋根の下で眠るわけにはいきませんよ、人として。神様がどうぞ」
「神様はもう永い間ここで眠っておったのじゃ。さっき目覚めたばかりでまた眠るこどなど気にしとうはない」
この神様はどうも本格的な〝神様ごっこ〟をしているようだった。実際に「神様」を自称する例は今までにあんまりない。本当に変わった神様だ。
「でも神様を差し置いて私がお
「ならば一緒に眠ればよいではないか」
「それは命令ですか?」
「そうとしか受け取れぬなら、それで構わぬ」
そんな風に怒った顔で迫らなくても私は神様に逆らうつもりはない。
「命令なら仕方ありませんね。神様と一緒に寝ます」
「お主はまったく……あまり慣れたくはない扱い方じゃのう……」
子供らしくないうんざり顔で、神様はため息をついた。何かお気に召さないことがあったらしい。どういう
こうして私は新しい神様と暮らすことになった。
時間は戻って、大根の汁物とドーナツのくだりのあと。
「神様も手伝うのじゃ。というより神様に任せてお主は休んでおれ」
用意していた朝食はそのままにして畑予定地で土いじりをしていたら、周りでピョコピョコ神様が跳ねる。あああ、折角整えた
「大丈夫です。神様は何もしてくれないって知っているので。全部私一人に任せて終わる頃に出て来るんです。わかってます」
「今の世は一体どうなっておるのじゃ。そしてどうしてそんなことを笑って言えるのじゃ……。お主、壊れておるよ」
「すみません。『お前はおかしい』って、よく言われます」
近頃はクラスメイトからが一番多くて、「常識がない」「自分だけできてるとか思い遣りがない」「ズルい」などなど責められ「だから言うことを聞け」と話がまとまる。
そういうときは、どう振る舞えば正しいのかを考えることはすぐにやめる。誰かの言うことを信じても結局別の神様に叱られる。それならその都度謝って、その場その場で言うことを聞いたほうが楽だ。私にわかるのは、私がそんな風な扱いを受けることを誰も変に思わないということだけ。
「おかしいところなどない! お主は何も悪くないのじゃ!」
そう言われても実際にこの神様も私に怒ってばかりいる。私が何か言うたびにキーキー
「神様は、私にどうしてほしいんですか?」
それがわからないことにはどうしようもない。「察しろ」と怒られはしないか不安はあっても聞くしかなかった。
「ご飯を食べるのじゃ! 自分で食べようとしておったのなら腹が空いておるじゃろ? あの甘い菓子もじゃ!」
パッと顔を輝かせて興奮気味に口を急がせる様子がとっても可愛い。預かった子供が私を見下すようになる前の短い期間、懐いてくれたときのことを思い出して心が和んだ。つい緩みかけた唇をそっと押さえる。馬鹿にして笑ったと思われたら困る。
「わかりました。じゃあご飯を食べましょう」
「――! 言うたな? 聞いたぞ? 神様に嘘はダメじゃよ?」
「ハイ、神様に嘘はいけませんね」
嬉しそうにテコテコ走って廃神社の方へ戻っていく。石と木の根でデコボコの山肌なので危なっかしくて見ていて怖い。
「あの、手を繋ぎませんか?」
思わず呼び止めてしまった。慌てる。
「えーと……転んでケガをしたらあとで保護者の方に叱られますので」
「神様は誰の庇護にも入っておらぬよ? お主の奉仕は受け取り難いが……己を卑下したものでないなら、受けておくことにするのじゃ」
同じようにテコテコヨタヨタと戻って来て、小さな手を広げて見せてくる。
反射的に何かを渡さなければと焦ったけれど、贈り物を要求されたわけじゃなかった。第一今はスコップしか持っていない。
手を重ねるときゅっと握り返される。小さな子供の手は温かいはずなのに、不思議と熱を感じなかった。同じくらいの体温らしい。
「では供を許す。案内するのじゃ」
廃神社を「自分の家」と言ったのに、そこへ案内しろというのはおかしい。
お金持ちや偉い人ならそんなものかもしれない。他人が自分に仕えることが当たり前になっていると考えれば今度の神様は今までとは一味違う上等な神様、確信に変わっていく。これは気を付けて丁重に扱わないと危ない。
かつてない覚悟が必要な奉仕になりそうだった。
廃神社へ戻って手つかずの鍋を確認すると、中身が冷めていたので軽く温め直した。でもこれを神様に食べてもらうのは実を言うと気が進まない。
「すみません。神様にはドーナツだけを食べてもらうほうがいいと思うんですが」
大根を煮て味噌を溶かしただけの汁物。大根の味噌汁――と呼ぶよりは大根の味噌湯の方が相応しい。
「自分で作っておいてなんですけど、絶対においしくないので。神様に食べてもらうにはあまりにもお粗末です」
「なに、
これまでの感触からわかる通り、この神様は無茶な要求をするタイプではなさそうだった。それでも私の食べ物を食べることにはなんの疑問もなさそうな辺りはさすが神様。実際に食べてみたら豹変するんじゃないかという不安は消えない。
「お口に合うといいのですが……」
合うはずがないのでビクビクしながらお椀に汁を注ぎ、せめて大根を多めに浸して渡す。
神様は小さな手の丸い指で先に渡しておいた箸を上手に扱い、大根を割って口へ運んだ。その所作が上品で目を惹かれる。
不安定な丸石の上で背筋をピンと伸ばし、大口は開けない。唇を閉じて丹念に噛む。伏し目がちに閉じた瞼といい、不似合いに大人びた気品が漂った。
「これ、
「あ――すみません……」
たしなめられて、見入っていたことに気が付いた。慌てて謝ってから神様が味に不満を言わないことに思い当たる。
もしや奇跡的に良い味になっているのではと期待して自分の分をよそい口に入れたら、案の定な出来にしかなっていなかった。神様が落としたドーナツが溶けてチョコレートが混ざったエグい味わい。長く煮立てたせいで「大根が軟らかくて食べやすい」くらいしか褒めるところがなかった。やはり奇跡が起こるのはそれだけの理由があってこそのことだ。
ならどうして神様が大人しく食べているのかが不思議で、ついつい藪を突くような質問をする気になってしまった。
「神様、お味のほうは……その、平気ですか?」
「おいしくはないのう。しかしお主も同じ物を食べるのならばこれが精一杯の捧げ物じゃ。そこへ意見をするほど恥知らずではないからのー」
私と同じ扱いで我慢するなんて、神様としてはありえない。爆発するキッカケを待っていると考えたほうが自然だ。あとで親に報告するとか。
次の機会の為に調味料を買い足す決心をしながら、大根の味噌湯をモソモソ食べる。
「さあ、食事の目玉に移ろうかの。さっきの菓子を出すのじゃ!」
昼にも同じものを食べる気でいたから鍋の中身は残っている。しかし神様は一杯でお椀を置いてドーナツを催促した。小さな子が普通の食事よりお菓子を欲しがるのはよくあることで、ましてや食事がこの内容だとムリもない。
不平を聞いたつもりで「普通の神様だ」となぜだかホッとしてドーナツ箱を差し出すと、神様は手を付けずに箱を回し中身を見せ付けてきた。
「お主はどれが一番おいしいと思うのじゃ?」
このシチュエーションは既に体験している。選ばせたあとでそれを奪ったり
「そうですね。私なら……これを食べたいですね」
そう言って最もシンプルで何もかかっていない物を指差す。焼き色がクッキリした昔ながらのドーナツ。同じ物が給食に出たことがあったので、前から食べたいと思っていた。
勿論、今回もその味の正体を確かめることは叶わない――はずだった。
神様は選んだドーナツを手に取り、こっちへ突き出してきた。唇が触れそうになって慌てて顎を引く。
「なっ……なにするんですか」
「食べよ! お主が手に入れ、望んだものを食べることをなにゆえに拒むのじゃ」
箱を放り出し詰め寄って来たのでますますドーナツが近付く。顔を背けて海老反りに逃げているうち肩が地面にぶつかった。
「ええい、なんと強情な娘じゃ。観念して口を開けいと言うに!」
「やめてください……! やめ――やめて!」
神様が胸の上に
鼻の近くに押し付けられているせいで甘い匂いにくすぐられ、閉じた口の中に唾液が溢れた。それでも受け入れない。何度も期待させられて裏切られた辛い記憶が脳裏に蘇って欲望を押さえ込む。
神様の強要と私の拒絶。最初に限界が来たのはドーナツだった。割れて地面に落ちるのを見て神様が「ああ~」と落胆する。しかしまだ残りがあることを思い出したようでパッと箱を振り返って、またガックリ肩を落とした。
途中で投げ出した箱はひっくり返って色とりどりなドーナツは地面に投げ出されていた。
私の上から降りた神様が涙目で手に取った空箱を見つめる。
「ゴメンなのじゃ……。この先何年かかってもきっと同じ物を返す。あんなにおいしかったのじゃから、さぞ高級なのじゃろうな……ううっ」
二千円くらいだと思う。確かに幼児がお小遣いで貯めるのは大変かもしれない。でも親にねだればそう難しくはないはずだった。私とうちの親なら何百年かかってもムリだろうけれど。
なんにしても、そんなことをする必要は無い。
「大丈夫ですよ神様。気にしないでください」
落ち込んでいる神様に声をかけ、押し付けられてほっぺたに付いたドーナツの粉を指に取って口に含んだ。甘い。
神様は一瞬喜んで顔を輝かせたが、次に見せた行動で一気に暗い顔になった。
「これでようやく……私に相応しい食べ物になりましたので」
食事を地面に捨てられることはよくあることで、不衛生でも体がもたないから食べるしかなかった。文字通り踏みにじられた物を栄養に変えて生きてきた身に「落ちたらもう食べられない」というルールは通じない。
土を払って口に入れたら夢のようにおいしい。すぐに飲み下したら勿体ないのでゆっくりゆっくり噛んでいたら、神様が泣きながらポカポカ叩いてきた。
「お主やはり、壊れておるのじゃ……!」
こんな些細な暴力も、やっぱり気にならなかった。
そのあと言われた通り食べるのをやめても、たくさん謝っても、神様のご機嫌は治らなかった。何か言いたげな顔でずっと近くにいて離れない。
今までの神様はなんだかんだすぐにいなくなることが多かったのに、リフォーム廃神社で一緒に住むことになっているからこれが二、三日は続くかもしれない。相当気持ちを強く保っていなければまいってしまいそうだ。早く飽きて帰ってほしい。
「えーと、ちょっとあれこれ買い足しておかなければいけない物があるので」
逃げるようにして山を下り、神様の寝具にと大き目の座布団とバスタオルを買って戻ると、神様は相変わらずだった。
「どうしてくれよう。お主をこのままにはしておけぬ。絶対このままでは済まさぬのじゃ」
ふくれっ面は「かわいい」という感想しかないけれど、その内にある感情は根深い。とてもとても憎まれている。私は神様にどうにかされてしまうらしい。
畑仕事に戻ってからもずっと後ろからブツブツ聞こえてくるので気が気じゃなかった。保護者に引き渡す時には一体どんな目に遭うのか、想像すると手が震えて止まらない。
「のう、
神様が畑仕事を手伝うと言って聞かないのでひとつきりのスコップを渡してしまって、直接指で土をほじくり返すのは面倒この上ない。
「私の望み……ですか」
石を隅へ放った手を止めて考えてみる。
とりあえずここでの生活を成り立たせたい。そして学校を卒業して、無事に就職できたら、とは思う。
でも結局どこへ行こうと環境が変わろうと、そこに神様はいる。誰が相手でも私は格下の奴隷という役割を負わされる。それなら自分が今ここでしていることはまったくの無意味な気もしてきた。
虚しさに捕まる前に、思考が止まる。
「……ああいけない。お芋を植えないと」
穴に種芋を入れてそっと土を被せ、バケツの水を掌ですくい振り撒いていく。川から組んだばかりの冷水が指の土を落とし、汚れとして肌に滲ませていく。
「そうやって逃げるのじゃな。じゃがそれこそがお主の望み。お主は逃げたいのじゃ! 他に誰もおらぬここにおることがそれを証明しておるわ」
神様まで思考停止に付き合ってくれるはずはないので、興奮気味に責め立てられた。
「望みがあるなら叫べばよい! 違う流れに追い遣ろうとする者には怒り、己自身の幸せを目指せばよいのじゃ!」
これはどうしても、返答しないと許してもらえそうになかった。
「……〝幸せ〟を望むからダメなんです。神様にも上下関係はあるでしょう? 何を目指したって自分より上がいて邪魔されるんですから、何か願うこと自体が〝不幸〟ですよ」
「見上げてめげるほど大それた夢をお主は見まい? ささやかな満足を望むことの何が悪いのじゃ」
「満足ですか……」
欠けるものが無く、満たされていること。
どこであろうと神様に支配されるのだからそんなことはありえない。もしそれは違うと思うなら、それは単にその人が勝者だから。周りでヘラヘラ笑って我慢するしかない敗者の世界は常に
そんな仕組みの中で仮に感じられる平穏があるとしたら、その方法はたったひとつ。
「私は……何も考えない、何も感じないで生きていたいですねえ」
求められる通りの人形になれたらどんなにいいだろう。苦痛も悲哀もない人生。想像しただけで笑顔になるのが自分でわかった。
「あ、ホラ神様。私、今幸せですよ。幸せは空想の中にならありますよ」
「そんなものを幸せと呼ぶものか! 何故お主はそうなのじゃ!」
きちんと願望を語ったのに、神様は不満のようでまた泣き出してしまった。色んなことを思い出して胃がギュッと痛む。
なんとかしなければ。神様も納得する形で自分の幸せを語らなければ。
「あっ、そうだ! 私お風呂入りたいです」
昨日はそんな余裕が無かったし、畑仕事の汚れや何度も山を登り降りした汗が気になる。
この状況で浸かるほどのお湯を沸かすのは難しいけれど、
神様は泣き顔から一転して表情を輝かせた。
「湯浴みか! それはよいな。早速用意するのじゃ」
いかにも神様な物言いで要求される。
このあとも何かしら作業を予定していたけれど、昼過ぎてしまうとせっかく日光で温めたバケツの水が冷めてしまうので今からでも構わなかった。ひとつのバケツで二人分を賄えるかどうかは自信が無いけれど、神様のほうを優先的に済ませたら自分はおざなりでいい。どうせ家でも毎日体を洗えていたわけじゃないから気にならない。
問題は水の量以前の所で起きた。
樹の枝葉を避けた所へ置いてあったバケツは狙い通りよく日に当たっていたのに、中の水が思うように温まってはいない。流水よりはマシ、という程度で裸に浴びるには勇気がいる冷水。自分にはともかく神様には使えそうもなかった。
こうなったらカセットコンロでお湯を沸かす方法しかない。でもガスは貴重。失敗の補填よりももっとここぞという意義のある使い方をしたい。
バケツを覗き込んだまま葛藤しつつ、水面でもがいていた虫を指ですくっていたら、隣に神様が立った。
浪費を気にして奉仕を惜しんだと叱られる。見抜かれた気になって反射的に身が縮んだ。
ところが神様は足を止めず小走りでズンズン川に近付いて行った。
「神様が一番乗りなのじゃー!」
まさか、と想像した光景がそのまま実現する。神様が川へザブンと飛び込んだ。血の気が引く。
「ダメです神様! 危ないですよ!」
慌ててあとを追って踏み込んだら運動靴の内側で爪先が痺れるくらいに冷たい。
水かさは深いところでせいぜい膝まで。体が小さい神様が尻餅をついたとしてもどこかしら引っかかるから流されたりはしない、水遊びにはもってこいのロケーション。
ただし水温が低過ぎる。体が冷えてしまってとても浸かってはいられない。
なのに、神様はキャッキャッと声を上げはしゃいでいる。
「清い水じゃが……う~ん、魚はおらぬな。ややっ、蟹じゃ――わぷっ」
神様が足を滑らせて顔面から川面に突っ込んだ。ずぶ濡れになったのにそれさえも楽しげに笑っている。信じられない。
体温が高い幼児だから。自分が寒がりなだけかもしれない。そんな風に納得する理由を探しても、驚きが引くより新しい疑問が湧くほうが早かった。
普通は「お風呂」と言って川へ連れてきたら戸惑うはず。腕周りや足元の布が多い和服では水の抵抗が大きくて、流れの中でああも気楽に過ごせるわけがない。
混乱から正気に戻ったのは冷水を吸った靴下が身震いを呼んだからで、そのとき神様がこっちを向いてニヤっと笑うのを見てまた動揺が帰ってきた。
「何をしておるのじゃ。お主もこっちへ来て遊ぶがよい!」
小さな手で勢いよく叩いた水面が派手にしぶきを上げて、頭から冷たい水を被った。これはちょっと洒落にならない。
子供用のレジャーシートを敷いてその上で着替えを済ませる。踏み
まだ湿っているクセ毛にタオルを当てつつ、まだ河原にいて石の下を覗き込み蟹にちょっかいをかける神様を眺める。川から上がったそのままで服を脱いでも替えてもいない。
着替えの準備が無いだけなら手持ちからシャツと短パンを差し出せばよかった。自分の分の予備が減るよりは神様に具合を悪くされるほうが怖い。
でも実際には何もしないでまるで神様を無視するみたいに自分のことを優先した。それは神様の世話を焼く必要がないからだった。
「わっわっ、この蟹! 神様の指を挟むとは不心得者め!」
ジタバタ暴れて、川面へ触れていた袖が引っ張られ軽やかに翻る。重みを感じさせないのは少しも濡れていないからだ。水を吸わないビニール製でもないのに。川を出た神様は本人も服もまるで濡れていなかった。
服だけならまだ「上等な服はこういうものなのかな」と納得してもいい。でも神様自身もまったく濡れていないから明らかにおかしい。綺麗な長い髪は少しも湿りを感じさせずに毛先がサラサラと揺れた。
どんなに考えても理由がわかりそうにないので、思考停止するしかない。そう結論を出したところで、神様がこっちへ駆け寄って来た。
「この蟹、夕飯に食えぬか?」
「う~ん……小さくて身がほとんど無さそうですし、やめておきましょう。食
蟹を乗せた掌には水気も汚れもまったく無く、着物と同じ純白。一緒に畑仕事をしたのにその痕跡を感じられない。ここに存在していることさえ本当のことかどうかわからなくて、聞かずにはいられなくなった。
「……神様は、どうして汚れてないんですか? 土も付いてないし水にも濡れてない」
「うん?
蟹を解放した足元を掴んで頭上へ舞い上げる。水辺で湿った腐りかけの落ち葉も土の塊も、神様の肌や服の上でつるりと滑って地面に戻った。
その言葉が答えで、行動が証明。そうらしいけれど、やっぱりわからなかった。こうなったら徹底的に思考を止めるしかない。
「……神様は汚れないんですね。それはとても助かります。もしかして服も着替えなくていいんですか? それならもっと助かります」
「お主が仕えておった神はひどく傲慢だったんじゃのう……。安心せよ。神様はあれこれ注文を付けたりせぬ。余裕の内で済ませてくれたらよいのじゃ」
そういうわけにはいかない。当人がそれでいいと言っても、本当に手を抜いたらあとから親が出てきた時に叱られる。服が汚れないのならその分、例えば食事に気を遣うべきだ。
「……なにをしておるのじゃ?」
声を掛けられ、考え事をしながら神様の手を撫でていたことに気が付く。
「えっと……いや、あの……なんでしょうね?」
説明できないから誤魔化したくてヘラヘラ笑う。
何かに触ればすぐに「汚い」「菌がうつる」と言われ続けてきた私にとっては、何をしても汚れない神様がありがたい。そんなことはできれば打ち明けたくはなかった。
私が今まで様々な
それが今回はどうにもうまく働かないので困ってしまう。なにしろふしぎ過ぎる。
ふとした拍子に川での出来事を思い出したり、神様が椅子代わりにした丸石が平らになっていることに気が付いたり、糸を伸ばして上から降りて来たミノムシがありえない軌道で神様を避けるのを見たりすると疑念がぶり返してしまう。その度に思考停止で蓋をしているうちにロクに何もできないまま日が暮れてしまった。
夕食は大根の味噌湯の残り。二食続いたのに文句は出なかった。とっても助かるのだけれど、今までの神様と違い過ぎて落ち着かない。
こうなると「いっそ早く叱られたい」という気持ちにすらなった。神様らしからぬ〝ガマン〟をしていて、迎えに来た保護者に告げ口されたらと思うとゾッとする。「これだけ世話を焼きました」「なので怒らないでください」と言えるだけの材料を確保しておきたい。辛い未来を防ぐ為、神様にはできる限り最上の生活を用意しないといけなかった。
だから、一緒に眠るなんてもっての
「勘弁してください。私は軒下でいいんで。この季節なら凍死なんてしないし、夜露さえ防げたら平気なのは実績がありますから」
寝る場所をどこにするかについては昼に一度揉めている。結局〝命令〟という形で軒下から神社の中になったけれど、そのときにはまだ「私は隅っこで起きてればいいや」と気楽に考えていた。近所の子を預かった際に昼寝を見守ったのと同じ、という風に。
なのにまさか、〝添い寝〟を希望されるとは想像もしなかった。
「やむを得まい。寝床が狭いからのー。くっついて横にならねば足りぬ足りぬ」
神様は段ボールにタオルケットを敷いただけの粗末なベッドで座布団を胸に抱き、早速うつらうつらと首を傾けている。
「神様眠い。問答はやめて
眠気と味覚は普通の子供。冷水が平気で濡れも汚れもしないのに――と余計なことを思い出しかけて、思考が止まる。
「……では、失礼しますね」
内容がなんだとしても求められたら従うしかないのが私だ。
隣をぽんぽん叩く誘いに乗って恐る恐る横に寝そべると、神様が私の頭の下へ折り畳んだ座布団をねじ込んできた。「枕に使え」ということらしい。そうしてしまうと神様の分が無くなるのだから、それを奪ってしまうわけにはいかない。
抵抗すると「う~やぁ~」と赤ん坊がグズるみたいに押し返された。相当眠そうだ。
これまた従うことにしたら腕を取られ頭を乗せてきた。腕枕。以前クラスメイトに椅子にされたことはあるけれど、それとは距離感がかなり違う。
明かりのない暗闇でもわかるくらい艶々の前髪が唇に触れるほど近い。私のジャージの胸の部分をきゅっと掴む手が無性に愛おしい。義務や責任からじゃなく、「この子を守らなければ」という意欲が湧いてきた。
多分必要ないけれど、予備のタオルケットを取って神様の体にかける。そのまま寝顔を見つめていたら瞼が重たくなってきた。
家を出て自由になったはずのこの廃神社で神様に見つかって、初日はあんなに苦しめられた不安や孤独感が今は遠く感じられた。
連休四日目の朝、まだ暗いうちに目が覚めた。
眠っている間に神様に抱き付いていたことに気付いて、ビクビクしながら離れようとする間に起こしてしまう。
「おはようなのじゃ……。でもまだ神様起きない」
まん丸の目が半分しか開かずにすぐ閉じる。
やっぱり子供だ。手がかからない、良い子供。寝ている間に私がしなくてはいけないことを片付けられる。
「それじゃあ私、朝ごはんの用意してきますので。支度が出来たら起こしに戻りますね」
廃神社を出て川へ行き顔を洗い、コンロで大根の残りに芋を足して煮る。味付けは三食続けて味噌だと神様がいよいよ荒ぶるかもしれないので昨日買ったコンソメにしておいた。
(……見た目がちっとも変わり映えしない。これは叱られポイントになるのでは)
食べ物に文句を言われないことは知っていても不安にはなる。予算さえ気にしなければもっとちゃんとした物を作れるのに、そうしないのは神様に対する背信な気がした。
(いや違うんですよ。これでも精一杯やってるつもりなんです。ハイ、言い訳ですね)
鍋をお玉でかき回しながら唸っていると神様が起きてきた。座布団を抱えたままテコテコ階段を降りて来る。
「先に顔を清めたいのじゃ。支度をせい」
濡れないのに顔を洗う意味はあるんだろうか、なんて思考は止めてさっさと取り置きの水で湿らせた布巾を手渡す。
「うむ、すまぬな」
食事のときにも感じたことだけれど、神様の立ち居振る舞いには気品がある。顔を拭くにもゴシゴシこすったりしない。額、頬と順番に丁寧で、作法が決まった儀式のよう。
昨日「ジロジロ見るな」という風に注意されたのを思い出して視線を外し、配膳を済ませる。
「今日も同じものか」
お椀を覗き込んでの感想に身震いが起きる。
「
ついに来た、噴火の時。親を呼ばれる。「充分にもてなさなかった」と責められる。
「いいわけありませんね! ハイ、ただ今何かおいしいものを調達してきますので!」
つい早口に言い残し、立ち上がるなり急いで山を駆け下りた。罰が怖くて、とにかくそこから逃げ出したかった。
「ここにもどこにも行く宛てとか無いけどー!」
涙が滲んで前が見えなくなったせいで何度か木にぶつかって、麓へ降りた頃には頭がクラクラした。痛みのおかげで「こうなったら盗んででも神様にご馳走を用意しないと」と錯乱した心境から我に返る。危ないところだった。
泥棒はできない。「犯罪はよくない」なんてことではなくて、罰を受ける理由になるから。ただでさえ身近で物が無くなると自動的に私が犯人にされるシステムに組み込まれているのに、わざわざ自分から機会を増やしたくはない。
「でも……どうしよう? 魚釣りとか、道具があってもそんなにうまくいくはずないし。釣ってるところを誰かに見られたら持っていかれちゃうし……」
途方に暮れつつ商店街へ行くと、スーパーの前にトラックが止まっているのを見つけた。商品を搬入中のようで、荷台には車輪付きの大型カゴ。そこには米袋が積まれている。
昨日神様と遭遇したあとの買い物で激しくダメージを負ったお財布と相談するまでもない。手持ちのわずかな小銭で国民的主食なんて買えないことはわかっているから諦めてスーパーとトラックの間を通り過ぎた。
今の状況では連休明けには食料が尽きる。生活が立ち行かなくなる。
「……そんなこと今考えても仕方ないか」
苦悶と思考停止を行きつ戻りつして、気が付けばまた、朝から営業している八百屋さんの前で立ち尽くしていた。無意識に凝視していた人参で「彩りを足せば許してくれるのでは?」という希望が湧く。光明が見えた。
「これが私のラストチャンス、人参ください! あっ、買えない!」
三本セットの袋売りだと懐から足が出て手が出ない。昨日買い足した調味料のせいだ。あの神様を満足させることに焦って、こんなことになっているとは把握できていなかった。
そこでバラで売ってもらえないかご主人に相談してみたら、「丁度古くなっていたのを捨てるところだった」ということで安くしてもらえた。なんて素敵なタイミング。喜んでいたら「これもこれも」と白菜やら何やら詰め込んで満載になったダンボール箱を渡された。とても助かるけれど、同時に悲しくもなる。
他の商品と比べてどこがダメなのか判らないのにタダ同然で処分される野菜。それに自分を重ねてしまって泣けてきた。自分には見えない有価値・無価値の線引きが、ここにもあるらしい。
それはともかくとして食料はありがたいので深く礼をして八百屋さんを離れた。
「たまたま廃棄されるところだったなんてラッキーだなあ……。私怒られてばっかりで日頃の行い悪いのに」
でもこんな幸運は続くわけがない。早く働き口を探さなくては。
きちんと給料を頂けて、親に確認されなくて、住所や連絡先が無くても大丈夫な職場。そんな危なそうな仕事に心当たりは無い。
結局思考停止することになってボーっと歩いていたら、目の前に人が現れた。肩に大きなバッグをかけた、いかにも「商店街で買い物」という風な主婦っぽい人。知らない神様。
会釈ですり抜けようとしたら横に動いて道を塞がれる。ぶつかるところだったので怒られるかもしれない。それなら許しを乞うのが当然だ。人として。
「あ、すみません。今すぐに土下座しますので」
荷物を一旦置いてきちんと謝ろうとしたら、そのダンボールに手を突っ込まれた。
「こんなにたくさんスゴイわね~! 重そうだから貰ってあげる!」
「えっ……?」
一瞬戸惑ったら動揺が顔に出てしまったようで睨まれた。この状況と似た体験をいくつも思い出して脂汗が吹き出る。
『子供のくせに大人に逆らうな』
『お前ばっかりズルい』
幸運を喜ぶなんてどうかしていた。たまたま転がり込んできた物を取り上げられるだけで済むなら、罰としては軽い。
「えっと、その……よかったら全部どうぞ。私はいいので。お腹いっぱいなので」
「そう? なんだか悪いわね~! 嫌だ。なによコレ、野菜ばっかりじゃない。次はお肉をヨロシクね! 卵も!」
主婦っぽい人はダンボールをひったくるようにして私から奪い、商店街とは逆の方へ歩いて行った。
それを見送ってから、うずくまる。呼吸を深く意識して気持ちが静まるのを待つ。
他人が恐い。神様が恐い。大人は特に恐い。
こういうのは久しぶりな気がした。家を出てからまだ四日目で、随分と気が緩んでいたらしい。
段々と平常心が戻って来たのでゆっくり膝を伸ばし体を起こす。
「これこれ、これでこそ私の人生。こうでなくっちゃ……」
野菜を安く手に入れるなんて間違っている。私に相応しいのは落ちた物、拾ったもの。ずっとそうだったから今もそう。次もそう。
「次も、次の次も、次と次の次も――あっ、そうだ……!」
繰り返し自分に言い聞かせているうちに良いことを思い付いて、役場へ急ぐ。
私に相応しい物が手に入る。初めからそういう場所を選ぶべきだった。
役場裏のごみ集積所。ここには町の住民が要らなくなった家具や家電などの粗大ごみや資源ごみを置いて行く。思えば真っ先にここへ来ていれば良かったのに、私の家族は古い物・使わない物も取って置きたがるから馴染みが無くて昨日役場横の図書館へ来た時も素通りしてしまっていた。
目当ては寝具。できれば布団があると嬉しい。
「あるかな、ないかな。あるといいな~」
ウキウキしながら集積所を覗くと、探すまでもなく見当たらなかった。灰色のブロックで区切られた区画には新聞誌や雑誌なんかの資源ごみが幅を利かせて隣のコーナーからはみ出してきているだけで、粗大ごみの方はスッカラカン。
「何かな? 回収ならさっき済んだとこだよ」
作業着姿のおじさんに声をかけられて飛び上がるほど驚いた。話しかけられる=怒られると結び付けてしまう。
「ええと、あの……何か使える物がないかなと……」
質問にはハキハキ答えないといけない。それなのにしどろもどろになってしまって脈拍が上がっていく。
「布団が欲しかっただけでした! それではさようなら!」
全力で頭を下げ足から先に逃げ出す。不審そうに見る目が今にも険しくなって怒鳴られる。そんな気がしてここにはいたくなかった。
必死で走って思わず飛び込んだのは役場隣の図書館。入口を振り返り、おじさんが追いかけて来ないと確認して胸を撫で下ろす。安心して首の向きを正面に戻すと、図書館職員さんと目が合った。
「……違うんですよ。えっと、死ぬほど図書館に来たくて……? それではお邪魔します」
冷やかしだと叱られそうなのでそのまま先へ進んだ。
柔らかいじゅうたんの感触と古い紙の匂い。ここへは芋の育成を調べに来たばかりでまだ用事はない。なので人がいない方の棚をぐるりと周回してそのまま出て行こうと奥へ回ったところで、並んだ本に目が吸い寄せられた。
町の郷土誌。学校の研究発表くらいでしか見向きもされない蔵書がやたらと綺麗なまま保管されている。
もしかするとあの廃神社のことが書かれているかもしれないと閃いた。あそこがどんな場所なのかを土産話にできたら、少なくとも手ぶらで帰るよりずっと良い。
あの山について知っていることは「大昔にたくさん人が死んだ」という噂だけ。具体的な歴史は何も知らない。町外へも連なる山の端で、町を抱え込むように三日月形をしている。廃神社があるのはその山頂でもない半端な中腹辺り。
資料を手に取って読んでみると、何百年も前に山崩れがあったことがわかった。山の形が変わるほど酷いものだったと調査結果が記録されている。「たくさん人が死んだ」というのはこのことらしい。
それからもうひとつ、昔話が載っていた。鬼退治をしたお姫様の物語。
あの山には悪い鬼が住んでいて、それをどこからともなく現れたお姫様が不思議な力で退治した、そういうシンプルさで期待が外れる。もっと凝った内容でないと子供は喜ばない。大体お姫様というのは親がお殿様で偉くて強いからお姫様でいられるのに、どこからともなく現れてどうしてお姫様なのだろう。
その他の記事は歴代の地元有力者を褒めちぎるものばかりで、尊ぶべきなんだろうけど今欲しい情報ではなかった。ガッカリして郷土史を棚に戻す。
収穫が無いからには自力で神様を喜ばせないといけなくなった。私が得意とする出し物はボールをぶつけられること。
「でもボールが無くっちゃなあ。棄てられてないかなあ……? できれば布団も」
未練があったのでもう一度粗大ごみ置き場を覗いてみた。そうしたらなんと、大きなビニールの包みが置かれているのを見つけたから小躍りした。
「ワァオ! あれはお布団! もう離しはしない!」
とっさに飛びついた。受け止めてくれる柔らかな感触はまさしく布団。手足をバタつかせて弾力を堪能する。
「ヤッター! でもなんで? さっき無かったのに……助かるからまあいいか!」
ほとんど使わいまま捨てられたようで、ビニールの中で畳まれた布団は新品に見えた。敷布団と掛け布団一式に枕と替えのシーツまで揃っていてこの上ない。
「こんなに良いものを捨てるなんて、世の中は豊かなんだなあ」
これを自分の幸運にしてしまうと野菜のように取り上げられそうなので、持ち帰って神様に捧げるつもりで持ち上げた。しっかりした重みが頼もしい。これならきっと心地良い眠りを献上できる。
ビニールの包みを背中と首で担ぎ気持ちを
「神様! とっても良いお土産がありますよー!」
「こら
お
「お布団です。これで快適に眠れますよ」
お
「ほほう! この時代の夜具は柔らかいのう!」
かなりご満足いただけたみたいだ。
「じゃが
先回りされてしまった。お気に召さないみたいだ。
昨夜の添い寝というかつてない体験は安らぎがあったものの、過ぎてみれば安らぎそれ自体が私には落ち着かない心境だ。神様が布団を使って私は今までの寝床で寝るのがあるべき形。どうして納得してもらえないのかのほうが不可解で仕方がない。
「私にはこんなちゃんとしたお布団、もったいないので」
「ダメじゃ! 抗弁は許さぬ。今夜も神様と一緒にスヤスヤ眠るのじゃ。とりあえず今はごはんを食べよ」
有無を言わさない調子で厳しく命令されてしまった。こうした労わりを強いる理不尽は初めてで、戸惑いはあるけれどもちろん神様に逆らうわけにはいかない。
「……わかりました。一緒に寝ますし、ごはんを食べます」
観念して頭を下げ、外へ出るとガスコンロのそばへ寄る。
ここを出る前にスープを注いだお椀が手つかずのまま残されていた。眠る時だけじゃなく食事も一緒じゃないといけないらしい。すっかり冷めていたからお椀から鍋へ戻して温め直す。
それにしてもふしぎだ。神様はまるで自分と私が〝平等〟であることを望んでいるみたいに思える。
(私が困るのを見て喜ぶ神様はたくさんいたけど……こういうタイプは初めてだなあ)
今まで色んな神様を見てきた。部活や遊びなど何かに打ち込む対象を持たない人、要するに暇な人ほど絡んでくる傾向が強い。そこには「時間が余っているから」以上の意味があるような気がする。
成績が良かったり、スポーツが得意だったり、親が特別だったり。そういう強い個性を初めから持っていればわざわざ格下を叩かなくても偉い神様でいられる。でもそうじゃない人たちは誰かを攻撃して上に立たないと神様でいられない。力を合わせて何かをするわけでもないのに集団になることが好きで、個人個人に価値観を持たない空っぽの神々。
そういう人たちはあんまり偉くなれなさそうだけれど、集団というのは多数決と話し合いが尊ばれる世の中では強い。数の多さはそれだけで強力だし、大声や怖い顔が大きく活きて有利を取れる。
まだ何も持たない小さな子供は親の態度をマネして変わっていく。どれだけ図々しく振る舞えるかで今後の上下関係が決まる大切な時期だと言うのに、この神様はまったくその方面で気概を感じさせなかった。他人に配慮するこんな調子では見下されてしまうのに一体何を考えているのか。
隣で鍋を覗き込む頭の中にどんな考えがあるのかさっぱり掴めなくて、つい、手を伸ばして触れてみた。
艶のある髪の感触はスベスベして指先が気持ち良い。神様は不思議そうに私を見たものの、されるがままにしてくれた。
なんだか半端な時間になってしまった食事を終えて、そろそろビニールのタンクに溜めておいた飲み水が少なくなっていることが気になった。公園へ汲みに行くついでに歯を磨きたいと考えて、「はてこの神様に歯磨きは要るのかな?」と疑問に気が付く。
汚れていないか確認する為でも「口の中を見せて」とは言いにくくて迷っていたら、神様は不意に子供らしくない険しい顔をした。顔をじっと見ていたせいで嫌な思いをさせたと怯む。でも違った。
「……この山に何かおる。近付いて来るのじゃ」
そう言われてすぐに聞こえてきたのは鈴の音。見ると昨日から何度も往復した道を行列が登って来ていた。
先頭の一人の手にある杖が一歩進むごとに地面を突いて、結んだ鈴がガランと鳴る。それに合わせてうしろの四人が続く、ゆっくりとした行進。四人は肩に木材を渡して飾り気のない簡素な
全員垂らした白紙で顔を隠している。とりあえず御輿に乗っているのは女の人らしかった。長い髪が俯いて垂れ、白装束の肩に広がっている。
見るからに異様な集団。一番気になる特徴はみんな白い和装でいることだった。ここにいる、子供の神様とよく似た。
(終わった……保護者が来た)
山の中の秘密基地に小さな子供が一泊。普通の親がそんな許可を出すなんて考えられない。絶対に無断だ。その責任を私が問われて叱られる。最悪〝誘拐〟なんてことになったら、警察に捕まり親元へ連絡が届いて過去最大級の罰を受けることになる。それはきっとクラスメイトに万引きの罪を着せられた時よりも酷い。
(ヤバい、どうしよう! 神様が『楽しかった』って言ったら許してくれないかな?)
逃げたくてもきっと捕まるので右往左往している間に、白装束の一団は木々を避けながら一歩一歩近付いてくる。まるで〝死〟が迫っているように感じた。
「あぁーっ! どうしようどうしようどうしよう!」
喚いても時間は止まらないし拒否権なんて手に入らない。
もうそこまで、もう目の前――という所で野太い声が上がった。神輿を担ぐ男の人たちの悲鳴。たちまち白い行列は崩壊して、杖も御輿も投げ出し一目散に来た道を駆け戻っていく。
唖然としていると、ひとりだけ取り残されていることに気が付いた。御輿に乗っていた女の人が落とされてぶつけたらしい足をさすっている。
「イタタ……。なんなのあの連中、体裁も守れないなんて――あっ、失礼致しました!」
ハッとして居住まいを正すなり、顔を隠す紙が地面に当たってクシャクシャになるまで頭が下がる。まさか自分が土下座を見ることになるなんて思わなくて私は硬直した。
女の人は続ける。――というよりも多分、始めた。
「神よ、お怒りを鎮め給え! 顕現せしめし事情はさておき、この御代は貴方様の御代にあらず。願いお聞き入れ頂けますれば、この身と命を捧げ……あら?」
震え声の終わりが疑問で上がって、姿勢はそのまま首だけ上向きこっちを見る。貼り付けられた紙で眼が見えないなりに、見比べられている空気がなんとなく伝わった。
「あー……神様はどちら?」
なんてバカな質問だろう。
(私が格下だってことはみんな一発で見抜くのに)
腰にくっ付いている神様の肩に手を置いて「こちらが神様です」と示した。一歩下がろうとしたら神様が離れない。どうやら恐がっているらしい。
「なんじゃお主は! 神様怒ってない! よいからここより去れ!」
似た服装だからてっきり「保護者が迎えに来た」と思ったのに、この女の人はどうやら赤の他人らしい。誰が神様か尋ねられたこともおかしかった。
「この神様を迎えに来たママさんじゃないんですか?」
「失礼ね。私まだそんな子がいるような年じゃ――いやまあ、ありえなくはないけど。……えっ? 怒ってないって……だって神気が復活したのは何かが神の怒りに触れたからじゃ……ならどうして?」
御輿の女の人は体を起こして呆けた風に戸惑いをこぼした。困惑しているらしい。
「とりあえず、あなたは誰なの?」
気弱な手つきで指を差される。何が何だかわからない状況で答えられる質問を投げかけられてなんだかホッとする。
「私は
「なんだ、それじゃご同業? 私より先に派遣されたなんて聞いてないけど。……いやそれはないでしょ。誰も受けたがらないから私にお鉢が回って来たんだし、第一あなた子供じゃないの」
回答には満足いただけなかったようで、御輿の女の人は首を巡らせて辺りを眺めた。そうするとガスコンロやリフォーム廃神社が見える。
「……ここで生活しているの?」
「ハイ、三日前からですけど」
「なるほどなるほど、家出娘なわけね。……それじゃまさか、神様にお供えとかした?」
「そりゃもちろん。神様のお世話をするのは当然です。人として」
「なんてことをしてくれたの!」
突然、後頭部に痛みが走った。飛び掛かられたことに気付くより、謝罪の言葉が出る反射のほうが早い。
「ごめんなさい! でもちゃんとお世話したんです! 食べ物はちょっとアレだったけど……それでも精一杯!」
余計に怒らせるとわかっていてもとっさに言い訳が出てしまうのは我ながら悪癖だと思う。今回もそうだった。女の人は声を荒げて迫る。
「何ひとつ捧げてはいけなかったのよ! せっかく放置されて祈念も怨念も風化していたっていうのに、台無しじゃないの!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
大人はダメだ。本当にダメだ。今までの色んな記憶が脳裏に蘇って自分を責める。胃が痛んで血の気が引ける。気持ちがどこか下の方へ下がっていく。相応しい方へ。今どこにいるとか、何が見えるとか聞こえるとか、全部がわからなくなってこの世にはクソみたいな自分だけがある。
良いことなんてひとつもなかった記憶の波が引くまで丸まって耐えていたいのに、胸倉を掴んで仰向けに圧しかかられていたらそれもできない。
「どうしてくれるのよ! あなたが余計なことをしたせいで――!」
「ごめんなさい! ゆるしてください!」
反射的に腕を横に揃えて顔面を覆った。
守らないといけないのはとにかく痛い眼、変なものを突っ込まれたらあとを引く口、塞ぎにくい鼻。耳も引っ張られて付け根が少し裂けたことがあった。
こういう時は考えなくても体が勝手に動く。防いだところで意識を失う迄の期限が付いた虚しい抵抗。
でも、いつまで怯えていても攻撃はこなかった。
恐る恐る瞼を開くと、胸の上に跨った女の人は体を反らし喉を掻きむしっていた。顔に貼られた白紙の下に覗く唇が歪んでいる。まるで首を絞められているみたいだ。
「去れと言うたぞ狼藉者。神に二言は無い。
神様が憤怒の形相で女の人を睨んでいる。直感、この子が何かをしていると伝わった。
女の人がガクガクと震えて横に倒れた。その時、袖から紙の束がこぼれ落ちて地面に散らばった。小さくて四角い、名刺だ。
「神様、やめてください。……この人からは私と同じ匂いがします」
名刺には小さな字で「神社総庁 総務部 〝なんでもひとりですぐやる課〟 八木瞳」と印してあった。
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