第7話 『妹』

 赤く紅い血のような夕日に照らされた電車の中で、私──沢田莉音は帰路についていた。


 今日は本当に素晴らしい一日だった。

 文句の付けようもない……とは、流石に言えないけれど、それでも今日と言う日を私は忘れることはない。


 何度も何度も思い出して嬉しくなる。

 幸せな気持ちが溢れて止まらない。

 もう幸せ過ぎて頭がおかしくなりそうで、でもそれも悪くないと思っていて、このまま狂ってしまいたい欲求もある。


 どんどん狂って、どんどん壊れて、どんどん一緒にどこまで深く堕ちていきたい。


「ん……はぁ、はぁ。あは……♪」


 勝手に可笑しくなって嗤えてくる。

 自分でも不気味で、怖いくらいの最低で最悪な嗤いだと思う。──でも。


「すっごく……はぁ、幸せぇ……♪」


 ずっと二人で一緒に過ごしたい。

 ずっと二人だけの時間を過ごしたい。

 ずっと二人で……堕ちたいなぉ。


 帰りたくはなかった。

 でも、今はすぐにでも帰りたい気分だ。

 早く帰って、早く──。


「あれ? もしかして沢田さん?」

「えっ……」


 驚いたように私に話し掛けてきたのは──は? なに、誰この男?

 咄嗟に振り向いしまったのが悪かった。その男は驚きの表情が消え、今度は嬉しそうに幸せそうな笑顔で私の横に陣取った。


「奇遇だね。今帰り?」

「──うん、そうだけど」

「いや〜運が良いな僕。ここで沢田さんに会えるなんて」

「はぁ……あの、ごめんなさい。あなたは先輩でしたっけ?」

「え? あ、ああ……そうだよね。えーと、前に君に告白して──」


 ここまで言われてようやく『何者』か理解した。──いや本人が既に白状しているんだけどね。

 つまり、こいつは前に私がフッた男の一人。私の気分を害した有象無象の勘違い野郎ということだ。私がフッた相手なんだから、私が覚えていなくても相手は覚えている。

 そしてどうしてこの人は、フッた女が自分を覚えてもらえてると、勝手に思っているんだろう?


 今も勝手に一人で話をしている。

 私に自己アピールする辺り、まだ交際を諦めていないのが窺える。

 本当に面倒な人。迷惑なのに、それにすら気付かない顔だけの男。

 折角の良い気分が台無しで、本当に本当に……最悪な気分だ。


「それでさ。この前はサッカー部から助っ人を頼まれて──」

「──わあ、すごいですね」


 けど、今は我慢しなくてはいけない。

 学校の中でなくても、これも生徒の一人には変わりない。それなら『みんなの理想』でなくてはならない。

 本当は今すぐこの場を離れたい。今すぐこの不毛な会話を切り上げたい。一人で勝手に楽しんでる男なんか無視したい。


 でもまだダメ。

 高校にいる間は、常に『理想』を見せ続けなくてはいけない。私たちの将来のためにも、しっかり偽物の笑顔は崩さない。

 だから、不快で辛くて苦くて吐き気がする語らいを続けよう。


「それで──」

「あっ、すいません先輩。私はここなので失礼します」

「えっ……」


 ようやく電車は目的地に到着した。

 長かった不快な時間がようやく終わろうとしていた。

 筈なのに──。


「それなら僕が家まで送って行くよ。どうせ僕もここで降りなきゃいけなかったんだよ」


 どうして、私の邪魔をするの?

 どうして、今日と言う思い出を汚すの?


「いえ、大丈夫です。先輩の親御さんも心配しているでしょうから、どうぞお構いなく」

「いや僕は全然大丈夫だよ。それにもう外も暗くなってきたし、女の子一人じゃあ危ないよ」


 ああ、本当に──ウザい。

 私は一緒に帰れないのに、家まで送ってもらえないのに、どうしてその役目をお前なんかが奪おうとする?


「本当に結構ですので! それじゃあ!」

「あっ、ちょっと!」


 やや強引に話を切り上げて、早足で電車を降りて逃げた。そうでもしないと、アレはストーカーのように付きまとうから。


 不快な気分になるのはさっきのだけでいい。

 これ以上、私たちの時間をこわさせない。


 そのまま帰り道を歩きながら、私は盛大に溜息を吐いた。一応知り合いがいないかくらいは確認してからだ。

 別にこれくらいなら見られても問題ない気はするけど、念には念を入れておく方がいい。

 外にいる間は、誰にも隙を見せる訳にはいかないのが、本当に疲れる。


「あー最悪。もう、何なんだう。今日だけでも絡まれるなんて……」


 今日はあの先輩だけではなかった。

 午前中も柄の悪い男が、その汚い手で私の腕を掴んだのだ。あの時だけでもう気分は最悪だったのに、帰りの電車でもあんな……。


「ううん。もう過ぎた事だから、これ以上は気にしちゃダメだよね? それよりはもっと楽しいこと考えなきゃ」


 何より暗い顔で帰宅なんてしたら、お兄ちゃんに心配を掛けてしまうかもしれない。

 今日のお兄ちゃんはデートをして、きっと凄く幸せな気持ちでいっぱいの筈だから。それを私の暗い顔で壊したくはない。

 お兄ちゃんの気分を害すのは、『妹』としては許されないことだから。


「お兄ちゃん。もう帰ったのかな? 私ももうすぐ帰るからね」


 逸る気持ちを少しだけ抑えて、少し早めに歩いて家に向かう。

 本当なら一緒に帰りたかった。

 本当なら──『莉音わたし』が隣に立ちたかった。


「──まだ、ダメだよ莉音。まだ、


 間違えるな『莉音わたし』。

 あれは、あの時の感情は『麗菜あいつ』のものであって『莉音わたし』じゃない!!


「そう……だよ。私は『沢田莉音』だよ。沢田陽太の『妹』なん、だから……っ」


 自分にそう言い聞かせながら、私はさらに早足で家の前まで歩く。

 そこで一度深呼吸をする。


「私は『莉音』。お兄ちゃんの『妹』」


 もう一度だけ自分に言い聞かせ、玄関の扉を開け──。


「ただいまー!」


 元気な声で帰宅を告げた。

 奥からは両親それぞれ、おかえりという声が聞こえてくるが、肝心のお兄ちゃんの声は聞こえない。


「あれ? お兄ちゃんは?」

「さっき帰って来て、すぐに部屋に戻ったわよ」

「ふーん。そうなんだ」


 良かった、やっぱり部屋にいるんだ。

 お兄ちゃんのことを聞いたあと、私は荷物を持って自室に戻った。


「あっ、やっぱりお兄ちゃんからメッセージ来てたんだ♪」


 鞄の中に入れてあったスマホを確認すると、『陽太君』と表示されたらメッセージを開いた。


『今日は楽しかったよ麗菜。


 そっちは寮の門限に間に合ったか?

 疲れてると思うからゆっくり休んで、風邪とか引かないようにな。


 イルカショーの時はハンカチで拭くくらいだったから、ちょっと心配だったんだ。


 また今度デートしような。』


 お兄ちゃんは『麗菜』のことを気に掛けたメッセージを送ってきた。

 イルカショーでは雨具を身に付けてたんだから、そんな心配いらないのに……。


「ん、やっぱりお兄ちゃん……優しいなぁ」


 うっとりと弛んだ表情でニヤついてしまう。きっと凄くだらしない顔になってる。

 大袈裟だと思うのに、こうして心配されると嬉しくなる。

 これだけで今晩のオカズに出来そう。


 あ、無意識で下腹部に手が──。

 危ない危ない、まだ夕方だからそれは夜にしなくちゃ……。


「あ、それよりも──」


『麗菜』になって返信する文面を考える。

 考えるのだけど──。


「うーん……流石に少し疲れたなぁ。もう少し後でもいっか」


 それよりも早くお兄ちゃんに会いたい。

 スマホを鞄に戻してから、鞄をクローゼットの中に押し込む。

 間違ってスマホやウィッグを見られたら、『麗菜』の正体に気付かれてしまう。

 そうなっては私の長年の『計画』が水の泡になってしまう。それだけは絶対に避けなきゃいけない。


「あとは……もう一度化粧や匂いを確認しなくちゃね。お兄ちゃんに勘付かれたら困るもんね」


 デートをした日は、過剰なくらいそれを気にしてしまう。

 用心に越したことはないから、それは別に良いけれど、その分お兄ちゃんと過ごす時間が減るのは耐えられない。


 私は急いで『麗菜』の痕跡を完全に消して、お兄ちゃんの部屋に突撃した──。

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