第8話 亜香里の春
亜香里は朝の情報テレビ番組の最後に放送される占いを、ついつい見てしまう。今朝は自分の星座の蟹座が一位だった。今までの努力が報われるとか、新しい出会いがあると言っていた。占い強く信じているわけではないけれど、それでもいい運勢であると言われると悪い気はしない。田中とのことはもうすっかり頭から消えていて、今は空っぽの冷蔵庫のように自由だった。
そんなわけで、亜香里は水気を含んで少し重たくなった春の空気の中を爽快な気分を抱いたまま出勤した。だが、昼休みに入る直前に会議から戻って来た金山部長に呼ばれ、占いが外れていたことに気づかされる。
「あのね、この書類のデータ、先月のものだったじゃないか」
「えっ、そうでしたか。すみませーん」
「すみませーんじゃないよ、まったく」
すでに昼食モードになっている亜香里にとっては、どうでもいいことなのだ。
「じゃあ、昼食後にでも差し替えておきます」
「もう遅い。私のほうからみんなに説明しておいたから、とりあえずはもういい。今後気をつけてくれ」
「はーい」
どうせこの返事の仕方も気に入らないんでしょうけど、その資料は昨日部長に渡したもの。だから、その時気づかなかったあなたのせいでもあるの忘れないでよねと、心の中で精一杯のお返しをしておく。
午後には亜香里の担当のお客様の会社に書類を届けに行くことになっていた。準備をしてから課長に声をかける。
「では、行ってきます」
「滝沢部長によろしくね」
先方の責任者が部長の滝沢元彦だ。滝沢は気難しいところのある男だけど、なぜか亜香里を気に入ってくれている。今回行くのは、当社の新製品の案内書を届けるためだ。
「はい、わかりました」
電車に乗って二つ目の駅に着いた時、さらに先の駅で人身事故が発生したと車内アナウンスがあった。しょうがないので、電車から降りホームから先方に遅れる旨電話する。すると、夕方に変更してくれと言われる。まったくついてない。それでも、先方の要望通り、夕方に着くことができた。
「ようやく来たな」
滝沢部長は、亜香里を見るなり言った。
「遅れてしまい、申し訳ありません」
「電車の事故じゃしょうがないよな。それはいいんだけど、今日は君の会社に文句がある」
「えっ、はい」
そんなの聞いていないよと言いたいところだけど、そうもいかない。
「部長、その前に新製品の案内書を」
「ああ、それはそこにおいてくれ」
バッグから書類を出し、机の上に置く。しかし、滝沢はそれを取り上げもしない。
「それで、文句の件なんだけど。本当のところ、君に言ってもしょうがないんだけど、とりあえず聞きなさい。それを帰ったらお宅の部長に伝えること、いいね」
「わかりました」
亜香里の立場としては、そう言うしかない。その後、自社への『文句』をさんざん聞かされうんざりする。今朝の占いはこれまでの間まったく外れているではないか。そのことに怒りさえ覚える。ようやく『文句』から解放され、会社へ戻れることとなった。
会社のある駅で降り、歩道を歩いていると、後ろから速足で歩いてくる靴音が聞こえる。亜香里がその人を先に通すつもりで横に移ると、後ろから声がかかる。
「すみませ~ん」
亜香里が振り向くと、なんとなく見覚えのある顔の男が立っていた。
「大山亜香里さんじゃないですか?」
「そうですけど…。その声はもしかして、優斗?」
確かに顔にも見覚えがあったけど、その低音でよく響く声で誰だかはっきりわかった。
小中と同じ学校で同級生だったこともある溝畑優斗に違いなかった。
「そう、そう。懐かしいなあ。道路の反対側を歩いていたら、似ている人がいると思って走ってきた」
今朝の占いでは、新しい出会いがあると言っていた。優斗はかつての同窓生だから、新しい出会いとは違うけど、当時気になっていた子ではあったから、これが一位の意味だったのかなと思い直す。
「ありがとう。優斗も元気そうね」
「おかげさまで。ところで、今少し時間ある?」
「うん、少しならね」
本当は帰社しなければいけない時間だったが、今日はここまでついてないことばかりだったから、少しくらい楽しい時間を過ごしても文句はないだろう。ということにして、優斗と付き合うことにした。
近くの喫茶店に入る。
「でも、私だって良くわかったわね。私、結構昔と変わってると思うけど」
「美しい人はより美しくってね」
「何、それ」
「大人の美人になったよ。だけど、歩き方でわかったね。特徴あるんだよ、亜香里の歩き方」
自分ではわからないけれど、独特の歩き方をしているらしい。他の人にも時々そう言われる。
「そこかあ」
笑うしかない。
「でも本当に綺麗になったよ」
「ありがとう」
優斗と再会して間もないけれど、亜香里は自分はこの男と結婚することになると直感した。でも、その前に確かめなければならないことがある。一度失敗していることだし。
「ねえ、優斗って独身?」
「突然だなあ。独身だよ。少し前に彼女と別れたし」
「ほんと? じゃあ証拠見せてよ」
「証拠? そんなこと言われたの初めてだ」
「だって、嘘つく人いるじゃん」
「何があったんだよ」
「何もないよ。だけど…」
「わかった、わかった。じゃあ、うちに遊びに来なよ。うちの両親は亜香里のこと好きだし」
「えっ、まだ実家に住んでるの?」
さてはマザコンか?
「ずっと一人で住んでたんだけど、結婚資金を貯めようと思って実家に戻ったんだよ。それで亜香里のほうはどうなの?」
「色々あったけど、今彼氏はなし」
思い出したくないことを思い出し、胸の奥が鈍く疼いた。
「ふ~ん」
「ふ~んって、なんか納得してない感じ?」
「そんなことはないけど、色々って言うのがね」
そんなことを訊いてくるのは亜香里に関心があるからだ。しかし、妻子持ちにひっかかったなんて口が裂けても言えない。
「色々は色々よ。優斗だって色々あったでしょう」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、この際、私たち付き合っちゃわない?」
自分でも大胆なことを言ってると思うけど、実はこのタイミングを逃したら二度と言えない気がして、思わず言ってしまった。いつも始まりはうきうきした気分に包まれる。
「何それ」
優斗はちょっとびっくりしたようだったけど、まんざらでもないような顔をしている。
「嫌ならやめてもいいけど」
「誰も嫌なんて言ってないし…。いや、いいかも。俺も賛成」
こんな簡単な始まりでいいのか。また失敗しないかという思いも多少はあったけど、昔から知っている優斗が相手だったら、そんなことはないだろうという思いもあった。二人は再会すべき運命にあったのではないか。そんな気もしている。
そんなわけで、初めてのデートが彼の家へ遊びに行くというなんともユニークなものとなった。
だが、優斗の家族は優斗が言っていた通り、亜香里を歓待してくれた。
「亜香里さん、うちの家族はみんな昔から亜香里さんのファンなんですよ」
母親にそんなことを言われて嬉しくないわけがない。
「そんなあ。でもすごく嬉しいです」
「優斗から聞いたんですけど、亜香里さんは今おひとりなんですってね」
「はい、そうです」
「これは私たちからのお願いでもあるんですけど、うちの優斗と結婚を前提にお付き合いしてくれませんか? ねえあなた」
と横にいる父親に向かって言う。
「そうしていただければ、私も嬉しい」
まさかの両親からの告白に驚く。父親の隣に座っている優斗は先ほどからニヤニヤしている。
「でも心配しないで。決してうちは子供にべったりじゃないから、ねえ」
と今度は優斗に言う母親。
「そうだよね。むしろ冷たいよね。結婚資金だって親は一切出さないって言われてるし」
「そんなの当たり前だろう」
父親が優斗に諭すように言う。
「はい、わかっています。あっ、それからこの家にはいずれ兄貴の家族が戻ってきて後を継ぐことになっているから、もし僕と亜香里ちゃんが結婚したとしても、僕たち二人だけで別に暮らすことになるから安心して」
そこまで考えてくれているのか。何と自分は恵まれているのだろう。
空が淡い紫色に染まっている。体温を感じる距離にいる優斗。
「亜香里、どうだった?」
駅まで送るという優斗と一緒に歩いている。
「驚いたよ。なんだか明日結婚するみたいだったよね」
「僕だけじゃなく、両親も亜香里を歓待していることをわかってほしかったんだ」
「それは十分わかったよ。逆に私でいいのって思ったくらい」
「僕は亜香里じゃなくちゃダメだと、再会したあの瞬間に思ったんだ」
目の前で光が溜まり美しい流線が輝いている。
「嬉しい。でも実は私も同じ」
「俺、亜香里のこと好きだよ」
いつの間にか『僕』から『俺』に変わっている。優斗の照れが感じられた。亜香里は言葉の代わりに微笑みを使った。
「だから、ちょっと強引かと思ったけど、うちに来てもらった」
「うん」
「こんな形から始まる付き合いもよくない?」
「ちょっとトキメキに欠けるところがあるかもしれないけどね」
「大丈夫、トキメキは僕がちゃんと作るから安心して」
そう言うと優斗は亜香里の片方の手を引き寄せ、身体を自分のほうに向かせた瞬間にキスをした。だが、次の瞬間には身体を離し、何もなかったかのように前を向いて歩き出した。あまりの早業に、亜香里は最初何が起きたのかさえわからなかった。恐らく周りのほとんどの人も気づかなかったのではないか。だが、自分の唇に触れた優斗の唇の感触は残っていた。
「そんなのズルイよ」
自分の感覚のすべてを吸いあげた優斗の後ろ姿に、小さく囁いた。
半年後に、二人の結婚が正式に決まった。
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