第7話 書きかけの手紙の影

 一度は佳奈美の思いを自分の胸の中にしまいこんだ亜香里だったが、次第にそれが苦しくなっていた。特に、自分宛てに何かを書き残そうとしたあの便箋のことが気になってしょうがなかった。あの小説と絵からして、佳奈美の予知夢を呼び起こす能力、もっと言えば予知能力が本物であることを知ってしまったからこそ、佳奈美が自分にどんなメッセージを残そうとしたのかということが亜香里の頭から離れない。胸の奥に冷たい水滴が落ちている感覚と言っても良い。

 『お姉ちゃんへ』とまで書いたけれど、その後を書くことに逡巡があった。悩んでいる中で、あの事件が起きてしまったのではないか。あくまで亜香里の想像の域を超えないのであるが、それが確かなことのように思えた。逡巡するほどの出来事がいいことであるはずもなく、そら恐ろしい。だが、何も書かれていない以上、何の対処もしようがない。そのこと自体が、亜香里のその後の人生において、常に漠然とした不安と影を落とすこととなった。

 暗い影はすぐに現実のものとなった。亜香里が大学を卒業する前年に、アメリカ経済の歴史的不況が起こり、その影響を受けた日本も急激な不景気に陥り、就職氷河期となってしまったのである。大学へ入った時から出版社かテレビ局への就職を希望していて、そのための勉強もしていた亜香里だったが、そうした業界の企業のほとんどが新卒採用を控えてしまったため、亜香里の夢は夢のまま終わってしまった。結局、亜香里はあまり希望していなかった中堅商社へ就職することとなった。

 この時、亜香里は佳奈美の書き残そうとした手紙のことを思い出していた。佳奈美はこのことも知っていたのではないかと。

その後も嫌なことが起こる度に、亜香里はその手紙のことを思い出していた。だが、次に大きな影に亜香里が覆われたのは三年後だった。

 仕事が終わり、化粧室でメイク直しをしていると、同僚で仲の良い片瀬由美が隣に来て言った。

「ねえ、亜香里。今日この後予定ある?」

「ううん、今日は帰るだけ」

「そう。実はこれから合コンがあるんだけど、女の子が一人欠席になっちゃってさあ」

 由美の魂胆が分かったので、気勢を制しておく。

「私は行かないよ」

「そんなこと言わないでよ」

「だって面倒くさいんだもん」

「そこを何とか」

 拝むような仕草を見せる由美を見ていると断れなくなる。

「わかった。でも、ちゃんと埋め合わせ考えてよ」

「うん、ちゃんと考えておくから」

 というわけで、気乗りはしなかったが、急遽参加することになった。

 会場は恵比寿にあるイタリアンの店だった。予約してある個室に入ると、すでに参加メンバーが揃っていた。男子のメンツを見た時、そんなに悪くないと思った。

 嫌々参加した合コンだったが、亜香里はその中の一人の男に釘付けになった。亜香里のど真ん中のタイプだったからだ。俄然やる気になった亜香里は、その男、田中洋治だけをターゲットにすることにした。そして、彼がトイレに立ったタイミングで近づき、連絡先を交換することに成功した。

「いやー、亜香里ちゃんて行動力あるんで驚いたよ」

 合コンの翌日には電話を入れ、早々のデートにこぎ着けた。

「だって、他の子も狙ってたと思うし、先手を打たないとね」

 今日田中とのデートだと由美に伝えた時の会話が頭に浮かぶ。

『彼はやめたほうがいいと思うけどな』と由美が言う。

『何でよ』

『根拠なんてないけどさあ、あの人なんか裏がありそうな気がするんだよね』

『根拠ないならそんなこと言わないでよね』

 亜香里は由美が嫉妬して言ったものだと思った。なぜなら、合コンの最中の由美の目は、ずっと田中を追っていたからだ。

「嬉しいけど、なんか照れるな」

 澄んだ目の奥にゆるぎない自信が垣間見える。

「田中さんって、30歳でしたよね」

「そうだよ」

 流れるような優美な動作でタバコを吸う。

「やっぱり大人の魅力がありますよね」

 田中の放つ大人の匂いは艶めかしく胸を満たす。これまで同世代の男性との恋愛しかしてこなかった亜香里には、田中が精神的に大きく思えた。

「そうかな。いたって普通なんだけど…」

「それに、ちょうど良くないですか?」

「何が?」

「歳の差がですよ。結婚するのにちょうど良い歳の差。離れすぎず、近すぎず」

「そんなことまで考えてるの」

 ちょっとたじろいでいるのがわかる。

「年頃の女はみんなそこまで考えてますって」

「そうなのかなあ」

 この時、田中の顔が陰ったことに当時の亜香里は気づかなかった。

「でも、実際に付き合ってみないとわからないわけで。田中さん、私のこと彼女にしてくれません?」

 子供じみた唐突さで言った。

「積極的だね。でも、そういう女性嫌いじゃないよ」

「ということはOK?」

「まだ会ったばかりだし、いきなり彼女というのは無理があるから、とりあえずは友達からスタートということでどう?」

「いいです」

 こうして二人は付き合い始めた。田中はいつ会っても紳士的で優しかったし、女心をよくわかっている男だった。亜香里が疲れていると思えば、二人だけでゆっくり寛げる和風料亭の個室をとってくれたり、デート中にしばしば小さなサプライズを盛り込むなどトキメキを作ることも忘れなかった。

「その後田中さんとはうまくいってるの?」

 ランチ後のコーヒーを飲みながら由美が訊いてくる。

「絶好調」

「ふ~ん」

 納得していない様子の由美を見ると、ノロケたくなってくる。

「とにかく優しいのよね。この間なんて、イルミネーションが一番綺麗に見える高台のレストランを予約してくれたし」

「そう…」

 由美は亜香里の話に乗ってこない。

「そっちはどうなのよ?」

 由美は同じ合コンに参加していた地味な男と付き合っている。由美は派手な顔をしているため、遊び人に見られがちだが、内面は真面目で堅実な人間だ。

「まあまあかな」

「まあまあ?」

「私たちはお互いの部屋を行き来して、いろんな話をしているって感じだから」

「そうなんだ…」

 そこまで進んでいるんだという驚きと同時に二人の関係性が羨ましかった。亜香里と田中の一見豪華で楽しいデートが、ひどく薄っぺらいものに思えてしまった。亜香里は未だに田中がどこに住んでいるかさえ知らない。自分の中の何かが溶けて、違う何かが息づいたように感じる。

 次のデートの時、亜香里は田中に住まいのことを訊いてみた。

「田中さんって、どこに住んでるの?」

「ん? 住まい?」

 怜悧な男の顔に斑に影が落ちている。

「そう」

「荻窪のマンションだけど。それが何か?」

「何かってわけじゃないけど、今まで一度もそういう話をしたことがなかったし…。こういう話嫌い?」

「別に嫌いとかじゃないけど、あまり楽しくはないかな」

「そう。いつも楽しいデートを演出してくれて嬉しいんだけど、そろそろ現実的な話もしたいなと思って」

 亜香里の中では少し前から田中との結婚を意識していた。田中は一流企業に勤めていて収入も安定しているし、見た目も悪くない。しかも大人で優しいとくれば理想的な結婚相手だ。

「現実的な話って何さ」

 眉間にしわをよせ、今まで見せたことのない針のような視線を亜香里に向け、他人事のように冷めた声で言った。一人の男を知り、そして彼はある時知らない男になった。薄い皮をはぐように気持ちが消えて行く。

「そんなこと、私からは言えないよ」

 そう言うことで理解できるはすだから。しかし、田中は無言になってしまった。この時、由美が以前『あの人なんか裏がありそうな気がするんだよね』と言っていたことを思い出した。

 気まずい空気の支配したデートは、いつもより早く終わった。いったん別れた後、亜香里は田中の後をつけることにした。少し距離をとって後ろを歩く亜香里のことを田中はまったく気づく様子がない。その歩き方は、ちょっと前まで亜香里とデートしていたことをすでに忘れてしまったかのようにさえ思えた。自分は田中のことを好きだったのではなく、好きになろうとしていただけなのかもしれない。

 地下鉄からJRに乗り換えた田中は荻窪ではなく、中野駅で降りた。アーケード商店街を抜け早稲田通り沿いに立つ大きなマンションへと吸い込まれていった。マンションはオートロックだったため、亜香里はマンション名だけを確認して帰宅した。ネットで調べて見ると、そのマンションにはファミリータイプの部屋しかないことがわかった。この時点で、亜香里は自分が騙された可能性が高いと思った。しかし、心のどこかでまだ間違いであってほしいという気持ちも残っていた。

 次の日曜日に、亜香里は『現実』を自分の目で確かめることにした。辛いけどそうしないと踏ん切りがつかないと思ったからだ。

 田中の住むマンションの道路の反対側にある喫茶店に入り、田中が出てくるのを待ち続けた。事前にメールで田中にその日の予定を訊いたところ、その日はすでに約束があるから駄目だと断られていた。

 何倍目かのコーヒーを一口飲んだ時、マンションの出入り口から小さな女の子を連れた笑顔の夫婦が出てきた。田中だった。田中の妻を初めて見た。自分とは全然違う見た目の女だった。

 やはり自分は騙されていた。涙が出た。それは悲しいからなのか悔しいからなのかわからなかった。考えれば、田中は自分が独身だとは一度も言ってなかった。合コンに参加していた男だったから独身だと亜香里が決めつけていただけのこと。相手が勝手に勘違いしていることをわかっていて敢えて黙っているようなズルイ男に心を寄せてしまった自分が惨めだった。感情を伝える回路が焼き切れたように、心は何も感じることができなくなっていた。

 喫茶店を出てどうやって自分の部屋へ戻ったかすら覚えていない。とりあえず風呂に入り、涙をお湯で流す。もちろん、自分が悪いのだけれど、この時も亜香里は、佳奈美のあの書きかけの手紙のことを思い出していた。佳奈美は私が田中に騙される予知夢を見ていて、それを書き残そうとしたのではないかと。

「佳奈美の七回忌だから帰ってきて」

 母からの電話に、亜香里はまだ癒えていない傷を抱えたまま実家に戻った。

「ただいま」

 母に悟られぬよう、いつもと同じ笑顔を張り付けた。

「おかえり。さあ、あがって」

 嬉しそうな顔をしながら、亜香里の持っていたバッグをとって母が言う。なるべく母に顔を見られないようにしながら二階の自分の部屋へ入る。亜香里は無性に半田薫子の歌が聴きたくなった。今の自分の心を癒してくれるのは薫子の歌声だけだと思う。ラックにあるCDの中から亜香里が一番気に入っている限定ライブのCDを探すが見当たらない。

『どうして?』

 心の中でそう言いながら探し直すが、やはり見つからない。そのCDは、薫子が女性ファンの中から抽選で選ばれた50名だけのために開いた特別ライブを収録したものだった。ライブは当然、亜香里も妹の佳奈美も応募したが、亜香里だけ当選した。それを妹はずっとズルイと言っていたけれど、こればかりはしょうがない。

『どうして?』

 もう一度叫んだ時、部屋のドアがノックされた。

「はい?」

「亜香里」

 母の押し殺したような声がドアの向こう側で聞こえる。亜香里がドアを開けると、母の何か思い詰めたような顔に出くわす。

「何?」

「亜香里、何かあったでしょう」

「お母さん…」

 もう何も言えなかった。母は何も言わずに私を強く抱きしめてくれた。

「お母さん、私…」

「何も言わなくてもいいよ」

 そう言って、もう一度抱きしめてくれた。本当の意味で母とひとつになれたのはこの時だったかもしれない。

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