第6話 記憶の中の佳奈美
再び平凡な日常が戻ってくる中で、亜香里は、自分と父だけの静かな暮らしを突然破った、あの出来事を思い出していた。それは、記憶の中でしか会えなくなった佳奈美との痛みを伴う思い出を取り戻すためでもあった。すると、不思議なもので、記憶は濁流のように胸に溢れ出てきた。
小説の中にもあったように、私たち家族は普通の家族ではない。父が再婚した相手が子持ちだったからだ。亜香里が中学三年生になった時、父は事前に何の相談もなく突然再婚を宣言した。母が亡くなって五年後だった。
わが家にやってきた今の母(当時、亜香里は心の中で『あの人』とか『その人』と呼んでいた)が、私の実母が使っていた台所に立っている姿を見た時、亜香里は悔しくて涙が止まらなかった。しかも、父親は彼女を迎えるに当たって実母の形見のほとんどのものを亜香里に無断で処分した。そのことは今でも許していない。
母子がわが家に来てから、父は妹に必要以上の気を遣い、母は私に必要以上の気を遣うという気づまりな空気が常に支配していた。そんな中で、亜香里は、わが家に乗り込んできた母子との戦いをスタートさせていた。亜香里が『家族』を最も嫌っていた時期だったかもしれない。
母はわかりやすい人だった。元来真面目な人なのだろう、亜香里の母親になろうとするあまり、亜香里の言動に過敏に反応してしまう。たとえば、母の言葉に亜香里が口答えしたり、母の言葉を無視したりすると、すぐに落ち込む。そうした母の生真面目さは、亜香里を苛立たせるだけだった。
亜香里は父親から母のことをママと呼ぶように言われていた。しかし、当時の亜香里にとってママは世界でただ一人、自分を産んでくれた実母しかいなかった。だから、誰から何と言われようと実母以外の人にママとは言わないと心に決めていた。
だから、その人に用事がある時は、『あの~』とか『すいませんけど』などと言って振り向かせていた。そうした亜香里の行動がまた父に知られるところとなり、ひどく怒られた。
その時亜香里はこう考え直した。ママと呼ばなければいいのではないか。ママはママのためだけにずっととっておいて、あの人には『お母さん』と言えばいい。記号のようなものと思えばいい。そう考えれば気が楽になった。
それからしばらくして、学校の用事でどうしてもあの人と話す必要が生まれた。亜香里がリビングに入っていくと、あの人はキッチンで夕食の準備をしていた。その背中に、
「お母さん」
と声をかけてみた。振り向いたあの人は、戸惑いと喜びがごちゃまぜになったような顔をした。亜香里としては、コミニュケーションをとるための便宜的手段として使った言葉だったが、やはり効果はてきめんだった。亜香里は以前の亜香里と全然変わっていないのに、亜香里が自ら精神的距離を縮めたような雰囲気になってしまった。言葉の持つ力に驚く。中でも『お母さん』という言葉は魔法の言葉だと知る。
実は亜香里も魔法の言葉の洗礼を受けていた。
それは、初めて会ったその日に妹の佳奈美から言われた『お姉ちゃん』という言葉だった。当然ながら、亜香里はその時佳奈美のことを自分の妹などと思ってもいなかった。だが、佳奈美が放った『お姉ちゃん』という言葉は、一瞬にして亜香里を溶かしてしまった。
すでに、その時、亜香里は佳奈美を好きになっていた。ただ、自分の妹として認めるかは別問題だった。いや、認めたくなかった。簡単には認めるものかという思いがあった。
だから、亜香里は必要以上に距離をとった。亜香里の意地のようなものだった。
それにしても、いくら事前に母親から言われていたとしても、いきなり『お姉ちゃん』と言えてしまう妹は、亜香里にとって不思議で不気味な存在だった。亜香里が母に『お母さん』と言えるまでには半年近くかかったのだから。以来、妹は何の抵抗もなく(本心はわからないのだが)、亜香里のことを『お姉ちゃん』と呼んでいた。
妹の部屋の前に立ってドアを叩く。
「はい」
妹の平板な声がする。
「佳奈美ちゃん、入っていい?」
「ダメー」
これで三度目の拒絶。仕方なく、自分の部屋へ戻る亜香里。『何よ、だいたいあの部屋は私の本当の妹か弟の部屋になるはずだったんだから』と毒づく。
しばらくすると、妹が部屋から出て階段を降りていく音が聞こえる。亜香里は妹の部屋がどんな風になっているのか興味津々だったので、彼女のいぬ間に覗いてみようかと思い立ち、今一度彼女の部屋に近づき開けようとしたがあかなかった。いつの間にか鍵がつけられていたのだ。
翌日の日曜日、朝食が終わり亜香里が自分の部屋で寛いでいると部屋のドアがノックされた。
「誰?」
「私」
妹だった。昨日のこともあるので、こちらからは開けてやらない。
「何?」
ドア越しに答える。
「あのさあ、お姉ちゃん、一緒に買い物に行かない?」
どういう風の吹き回しだろう。これまで家の中では二人で話すことももちろんあったが、二人きりで外出したことなど一度もなかった。
「はあ?」
思わずおかしな声になっていた。
「嫌ならいいんだけどね」
「待って、待って、誰も嫌なんて言ってないじゃん」
そう言いながら亜香里はドアのところへ向かっていた。そして、ドアを開けると、佳奈美の少し不貞腐れた顔が目の前にあった。
「どうしたわけ?」
「吉祥寺に行こうと思ったんだけど、お母さんがお姉ちゃんと一緒なら行ってもいいって言うから」
「そういうことね。いいよ。私も買いたいものあるし」
「じゃあお願いします」
そう言いながら、ペコリと頭を下げた。こういうところは可愛らしいと思う。
二人揃って出かける様子を、両親はいかにも嬉しそうな顔をして見送る。父は亜香里に『佳奈美ちゃんをしっかりサポートするんだぞ』と言い、母は佳奈美に『ちゃんとお姉ちゃんの言うことを聞くのよ』と言っている。まるでアラスカにでも行くかのような大げさな対応をする両親を、当の二人は冷めた目で見ていた。
家を出た二人は駅まで並んで歩いているが、なにせ二人きりで出かけるのは初めてのため、ぎこちない。ここは姉である自分がリードしなくてはと思うが、そう思うと余計に意識してしまいうまくいかない。
「お姉ちゃん、緊張してるよね?」
亜香里の顔を覗き込むようにして佳奈美が言う。いきなり言い当てられてしまい、亜香里はムッとする。
「何で私が緊張しなくちゃならないのよ」
「だって、いつもおしゃべりのお姉ちゃんが無口になってるじゃない」
「どのコースを選んで、どの店に行くかを考えていただけよ」
「お姉ちゃん、吉祥寺詳しいの」
「まあね」
本当はそれほど詳しくはない。二度ほど友達と行ったことがある程度だ。なので、出かける前に話題の店などをネットで調べた。
「ふ~ん、ほんとかな」
どこまでもバカにしてくる佳奈美。
吉祥寺に着き、北口に出る。まずは、『天音』の羽根つきたい焼きを買って食べる。この店は以前友達と来て知っていた。相変わらず美味しい。その後、最近人気の高まっているという中通り商店街をぶらぶら歩く。店を見ているだけで楽しい。二人とも雑貨が好きなので、いくつか雑貨屋を回りそれぞれ小物を買った後、おしゃれな喫茶店に入る。佳奈美はパフェを頼み、亜香里はアイスティーを頼む。向かい合って座ると、佳奈美の透明感のある黒い瞳に出会う。自分の考えていることが見透かされているような強い力を感じて、思わず目を逸らす。
「お姉ちゃんさあ、出かける前にお母さんがお姉ちゃんと一緒なら行っていいって私言ったでしょ。だけど、あれ嘘だから」
「どういうこと?」
「本当はお母さんと私とで出かけることになっていたの。それを、私がお姉ちゃんと行きたいってお母さんにお願いしたの」
「なんで?」
「だって、お姉ちゃん、私と二人で話したかったんでしょ?」
すっかり自分の心が読まれている。
「鋭いね、妹ちゃん」
「妹ちゃん?」
「いつもお姉ちゃんって呼ばれてるから、妹ちゃんって呼んでみたんだけど、どう? 嬉しい?」
「ぜんぜん」
「私はお姉ちゃんって呼ばれて嬉しいけどね」
「そうなんだ。それは良かった。でも、『妹ちゃん』は魔法の言葉にはなり得ないよ」
やっぱりこの子は『お姉ちゃん』という言葉が魔法の言葉だと知って使っている。
「そんなのわかってるよ」
「それでも一度試そうと思ったんだ」
「まあ、そういうところね。で、前々から訊きたかったんだけど、佳奈美ちゃんって、なんで自分の部屋に人を入れないの。鍵までかけちゃってさあ」
妹は亜香里だけでなく母親も自分の部屋に入れない。もちろん、父親は論外だ。
「秘密基地だから」
「秘密基地?」
「そう。私が私であるための装置がいっぱいあるから他人は入れられないの」
「宇宙人みたいだね」
「宇宙人? 私が? でも案外当たってるかもね」
「何それ」
「ねえ、そんなことよりお姉ちゃんって、私のことどう思ってるの?」
「どうって…」
どう答えるべきなのだろうか。本当のところ複雑な感情がごちやまぜになっていてうまく説明できないし…。
「いきなり母子で押しかけてきて、妹って言われてもねえ」
「そんな風には思ってないよ」
「嘘。思うのが普通だよ。しかも、その子がちょっと変わっていて、扱いにくいしね」
「確かに変わってる子だとは思ったかもね。何考えてるかわかんないという感じかな。でもそこが佳奈美ちゃんの魅力にもなってるんじゃないかな」
「そう見えるんだね」
「それと、その可愛い顔からは考えられない自己主張の強さ。そこは他人と衝突する原因にならないか心配」
「はっはっはっ。そうかもね」
「でも、きっと本人の認識の30%くらいしか当たってないと思うよ。そんなもんでしょ」
「さすがお姉ちゃん。その通りだと思うよ」
「じゃあ今度は私が訊くけど、佳奈美ちゃんは私のことをどう思ったのよ」
「私さあ、一人っ子だったから、兄弟とか姉妹というのに憧れてたんだ」
「それは私も同じ」
「だから、お姉ちゃんができるって聞いた時、嬉しかったんだ」
「そう。で、実際に会ってみてどうだったの?」
「ああ、綺麗な人だなって」
「それだけ?」
「あと、この人は周りを幸せにする人だってわかった。何て言ったらいいのかなあ。いつもお姉ちゃんの周りだけ明るくほころんで見えるんだよね」
佳奈美らしい独特の表現だけど、亜香里の実母がそういう人だった。自分もそうなれれば嬉しいとは思っているけれど…。
「それと、お姉ちゃんって、言葉を言葉の意味のままに使う人だよね」
「ひょっとして私のことバカにしてる?」
「そんなことないよ。いい意味でだよ。だけど、真面目でまっすぐな性格をしてるから、人に騙されやすいと思うよ」
「ふ~ん」
まっすぐな性格とは自分では思っていない。結構ひねくれている面があると思っているんだけど…。
「そういうところも含めて、お母さんと似てるよね」
「お母さん?」
私が佳奈美の母親と似ていると、この子は言っているが、そんなはずはない。
「お母さんは、お姉ちゃんに一生懸命だし、お姉ちゃんは私に一生懸命だし」
「私が佳奈美ちゃんに一生懸命?」
「二人ともプライドが高いんだよね。絶対に自分のほうを振り向かせて見せるみたいな」
「そんなことない」
そう否定してみたが、実はその通りだった。だとすると、佳奈美の言うとおり、自分と母とは案外似ているのかもしれない。外見は全然違うけど。
「私は、相手が振り向くかどうかなんてどうでもいいの。ただ単純にお姉ちゃんのことが好き。お父さんはちょっと苦手だけどね」
「そうなんだ。佳奈美ちゃんって面白いね」
ふと佳奈美の指先を見ると、痛そうなほど深爪になっていた。
「私って、時間と仲良くできない質なんだ」
そういう佳奈美は微笑んでいるのになぜかとても淋しげに見えた。
「ん? どういう意味」
「さあ?」
亜香里は自分が弄ばれているようなあるいは試されているような気分に襲われる。
「そう」
その時はそれで終わった。あの時、佳奈美が最後に言った『時間と仲良くできない質』という言葉が今になって意味を持っていたことに気づく。あの日のことが陽炎のように空へ昇ってゆく。
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