第5話 佳奈美の見たもの…④

 春の陽射しが教室の床に陽だまりを作っていた。

「なんかダルくない?」

 増田香梨奈が言う。女子高生にとって『ダルい』『疲れた』は挨拶のようなものだった。

「私は眠い」

 真奈美は本音を言った。予知夢を見た翌日は十分な睡眠をとっていても睡眠不足のような状態になる。高校三年生になって初めて見た予知夢は従兄が結婚するという良夢だった。

「最近、真奈美病んでない?」

 望月小百合が言う。

「そう見える?」

 これにはその場にいたみんなが頷く。昼休みの教室。真奈美の周りにいるのは、増田香梨奈、望月小百合、高橋里穂、山村映美の4人だ。みんなこの高校に入ってからできた友達だ。しかし、女が5人も集まると、常に微妙な距離感が生まれてしまう。

 みんなが会話している間も映美はずっとムダ毛の処理をしている。真奈美は女子高に入ることで、女同士の中では羞恥心など発生する予知もないのだと知ることとなったのである。

「それにしても、今日の本田ちゃんのチーク若ぶり過ぎない?」

 いつの間にかムダ毛の処理を終えていた映美が突然言った。本田というのは、国語担当の女性教師のことだ。

「最近、恋に狂ってるからじゃないの」

 香梨奈がしたり顔で言う。

「相手は体育の山田なんでしょう」

 恋話が大好きで、みんなのリーダー的存在の里菜が目を輝かせながら答える。真奈美は最近、里穂のことを鬱陶しいと思っている。知り合って間もない頃は、美人で頭もよく、どことなく自分の姉にも似ていて好感が持てたのだが、その異常なプライドの高さが鼻についている。

「そう言えば、真奈美と城崎はどうなったのよ」

 言わなくてもいいことを香梨奈が言う。とたんに里穂の目つきが変わった。

 城埼裕太は、真奈美たちが通う女子高の近くにある男子校の生徒だが、そのイケメンぶりでその名だけはうちの生徒たちにも知られた存在だった。それを確かめたくて、みんなでその男子校の文化祭に行ったのだが、その案内役をしてくれたのが当の本人の裕太だった。

 裕太に一目ぼれしたのは里穂だった。しばらくの間、里穂と裕太は付き合っていたようだ。しかし、そんな裕太から真奈美は突然『付き合ってほしい』と告白されたのだ。駅への道を歩いている時、裕太が待ち伏せしていた。

「里穂と付き合ってるんでしょ」

 まずはそのことを確認する必要があった。

「いや付き合ってなんていないよ。彼女が一方的に近づいてきて、実は俺迷惑してるんだ」

「そう。あの子難しいところあるから、ちゃんと話した後じゃないとあなたと二人で会うことできないよ」

「わかった」

 それからしばらくして裕太からメールが届き、里穂とはちゃんと話して『別れた』からというので『とりあえず友達としてなら』という条件でOKした。

「まあまあってところ」

 実際そんなところだったので、そう言った。

「何それ。上から目線で偉そう」

 里菜が尖った声で言った。

「別に事実を言っただけじゃない」

 裕太が里穂ではなく真奈美を選んだことがよほど悔しいのだろう。プライドが許さないと思われる。香梨奈や映美にも、『真奈美が選ばれるなんておかしい』と言っていたと聞いている。

「ふ~ん。でもアイツって、女癖が悪いらしいから、どうせ真奈美も遊ばれてるだけじゃないの」

「そんなわけのわからない噂で決めつけないでよね、まったく」

「親切に忠告してやってるのに、ばっかじゃないの」

「まあまあまあ、お互いそんなカリカリしないで」

 映美が仲裁に入ったことで一応その場は収まったが、真奈美は里穂の理不尽な突っかかりに憤慨していた。

 裕太の噂は真奈美も知っていた。しかし、実際に付き合ってみると、裕太は案外素直でいいヤツだった。イケメンだし、優しいところがあるから女の子がほっとかないが、裕太自身は女の子に関してはうぶだった。裕太から告白されて始まった友達としての付き合いであったが、最近では真奈美の気持ちも徐々に裕太に傾いていた。

 その日を境に、5人でできていたグループのバランスが崩れ始め、里穂を中心に香梨奈と小百合がくっつき、結果的に真奈美と映美がグループから離れることになった。真奈美も映美もそういうことに執着するタイプではなかったので、どうでも良かったが里穂たちの敵愾心は強かった。何かにつけて因縁をつけてくる。里穂が学級委員をしていて、一方の真奈美が風紀係りをしていたことがそれに拍車をかけた。

「石原さん、あなた風紀係でしょ。最近、このクラスが乱れてるの、あなたの責任よね」

 あの日以来里穂は真奈美のことを苗字で呼ぶ。

「お言葉ですが、どこも乱れてないですけど」

「あなたが乱れてるのよ」

「言いがかりは止めてください。なんなら先生にでも言ってくれていいですよ」

「ふん」

 こんな日が続き、いい加減うんざりしていたある日のこと、授業が終わり真奈美が一人で校門を出ると香梨奈が待ち構えていた。瞬間、真奈美はぎょっとしたが、香梨奈はなぜか笑顔を顔に張り付けていた。そんな香梨奈を無視して、横をすり抜けようとした真奈美に、香梨奈が呼びかけた。

「石原さん」

「何?」

 自分でも声に棘があると思った。

「そんな怖い顔しなくてもいいじゃない」

「ごめん。生まれつきなの」

「そんなことないくらいわかっているよ」

「そうですか。で、何なの?」

「ちょっと相談したいことがあるんだ」

「私に?」

「そう」

「あなたには、あなたの信奉している高橋さんがついているじゃないですか」

 香梨奈は金魚のふんみたいにいつも里穂とつるんでいる。

「その高橋さんのことについての相談だから…」

「里穂について?」

 ちょっと興味が湧いてしまった。

「私、悩んでいるんだ」

「ふ~ん。少しの時間ならいいわよ」

 香梨奈の悩みとやらを聞いてもいいと思ったのだ。

「学校近くだと目立つから、中山駅の駅前にあるシャレードでどう?」

 中山駅は学校のある駅から三つ先の駅だ。シャレードは真奈美も知っている喫茶店だった。真奈美としても、香梨奈と一緒にいるのを誰かに見られたくなかったので、OKした。 

 一時間後に、二人は喫茶店で向かい合って座っていた。

「真奈美と二人だけで話すのって、初めてだよね」

 喫茶店に入ったとたん香梨奈は名前で呼んできた。そう言われれば、香梨奈と二人きりで話す機会などなかった。だが、目の前に座る香梨奈の、嬉しそうでいて、どこか真奈美の機嫌を伺うような表情が不気味でもあった。

「そうかもしれないけど。で、相談って何?」

 香梨奈と長く話すのは耐えられそうになかったので、先を促す。

「そうだよね。真奈美は私と里穂のこと、どう思ってるの?」

「どうって、仲がいいなとしか思ってないけど」

「そう…」

「そうって、違うの?」

「正確ではないわね。実は私たち百合カップルなの」

「えっ」

 真奈美はそれ以上言葉が続かなかった。本当は大きな声で『百合カップル?』と声に出したかったが、そんなことをしたら店中のお客さんの目が一斉にこちらを向いてしまう。

「本当に知らなかったんだ。びっくりした?」

「そりゃあ驚いたわよ。ただ仲がいいだけだとしか思ってなかったから」

「里穂って、ああいう性格だから他人に気づかれないよう細心の注意を払ってるからね」

「彼女ならそうするでしょうね。でもそんなこと私に話ちゃって大丈夫なの?」

「真奈美は口が堅いから心配していない」

「もちろん、他言は一切しないけど」

「それに話さなければ相談できないしね」

「まあそうだけど、相談というのはどんなことなの?」

「ちょっと長くなるけど聞いてよね」

「いいよ」

「最初、私、里穂は憧れの存在だったの。頭いいし、美人だし、スタイルいいし。でも、遠くから眺めているという感じだったんだ」

「うん」

「だけど、里穂のほうから近づいてきたの」

 香梨奈は里穂とは違い、可愛い顔をした癒し系の子だ。恐らく、里穂のタイプだったのだろう。

「そう」

「嬉しかった。一緒にいられるようになって、さらに里穂の魅力がわかったから、とにかく嫌われたくなかった」

「わかるけど、だから?」

「だから、深い関係になってしまったの」

「後悔してるわけ」

「最初私も好きだったからそれはむしろ喜びだった。でも、だんだん里穂の束縛がひどくなってきて…」

 同性カップルの場合、異性カップルより激しい嫉妬や束縛があると聞いてはいる。

「そうなんだ」

「クラスの女の子とちょっと親しそうに話していても怒るし、バイトの男の子と一緒に帰っただけで怒るし、私服についてもいちいち口出ししてくるしで、疲れちゃってるのよ」

「わからないでもないけどね」

「そうでしょ。里穂って、女王様だし、必要以上にプライド高いし、わがままだし、自分の言っていることはすべて正しいと思ってるし…」

「う~ん、確かにそういう部分もあるかもね」

 あまりはっきり肯定するのは躊躇われたので、曖昧な表現に留めた。

「やっぱり真奈美もそう思う?」

 念を押されたみたいで、少し警戒心が芽生える。

「まあね。でもみんな欠点の一つや二つぐらいあるんじゃない。それで香梨奈はどうしたいと思ってるの?」

「別れたい。もう里穂のこと嫌いになり始めているし」

「ふ~ん」

「本当のこと言って、今は真奈美のほうが好きになってるの」

 あまりの突然の告白に、真奈美は心臓が止まるくらい驚いた。でも、香梨奈は真奈美のそんな様子を楽しんでいるように見える。

「止めてよね。私にはそういう感情ないから」

 真奈美は同性愛者を否定するつもりはないし、認めてもいる。ただ、自分にはそういう感情は起きない。

「初めはみんなそう言うのよね」

 こんな言葉を使って自分をその世界に導こうとしているのだろうか。

「そういうことじゃなくて、本当にその気はないから。だいたい、そんなことを言うために私の前に現れたの?」

「ごめん、ごめん。ちょっと飛躍しちゃった。相談したかったのは、里穂とうまく別れるためにはどうしたらいいかと思って」

「難しいと思うけど。ひとつ考えられるのは、里穂に新しい恋人候補を見つけて近づけることくらいかな」

「なるほどね。誰かいるかな?」

「ごめん。それは私にはわからない」

「そうだよね。それは自分で探すわ。でも今日はありがとう」

「いえ、別に。ただ明日からはお互い今までと同様に口をきかないようにしましょうね。また新たなもめ事を増やすことになるので」

「そうね」

 香梨奈と別れて自宅に戻った真奈美だったが、今日の香梨奈との会話を思い出してなんとなく違和感を覚えた。でも、たいしたことでもなかったのですぐに忘れてしまった。

 その違和感の正体がわかったのは、それからわずか5日後だった。

 担任との定期面談が終わり、誰もいない教室を真奈美が出ようとしたところに、突然ドアが開き里穂が入ってきた。

「驚いた。何?」

 振り返ると、里穂の妙に大人びた顔に出会う。

「ちょっといい?」

 そう言いながら、返事も待たずに真奈美の正面の椅子に座る里穂。先日、香梨奈からおかしな話を聞かされたかと思ったら、今度は里穂だ。

「私、もう帰るんだけど」

「話があるのよ」

「話?」

「そう、話」

「悪いけど、あなたと話さなければならないことなんて、私のほうにはないんだけど?」

「私のほうにはあるのよ」

「へえー、何?」

「とぼけないでよね」

 ヒステリックな里穂の声が教室内に響く。

「何をイライラしてるのかわかんないけど。そんな大声出さないでよね。だいいち、とぼけてなんかないし…」

「じゃあ、言うけど、あんた香梨奈にちょっかい出したよね」

 どうしてそんな話になっているのだ。口の中に嫌な苦い味が広がる。

「まったくの誤解だね」

「誤解なわけないでしょ。香梨奈自身が私のところに泣きついてきたんだから」

 この時、真奈美はやられたと思った。香梨奈一人が考えてとった行動だったのか、里穂が香梨奈と組んで仕掛けたものなかはわからないが、いずれにしても罠にはめらたのだと気づいた。

「ふ~ん」

「ふ~んって、どういうつもり。香梨奈は真奈美に迫られて気持ち悪かったし、怖かったって言ってるの」

 胸の内側を目の粗いやすりで撫でられたような痛みが走る。

「それは驚いた」

 気持ち悪かったのはこっちのほうだったから。

「それに、あんた、さんざん私の悪口言ったらしいじゃない。女王様だし、必要以上にプライド高いし、わがままだし、自分の言っていることはすべて正しいと思ってるとか」

 すべて香梨奈自身が言っていたことだ。

「そういうことになってるとは思わなかったよ。私からすれば、どこからどこまで仕組まれたことなのかわからないけど、いずれにしてもすべて濡れ衣でしかない」

「何をいまさら。ふざけないでよね。あんたって、城田のことにしろ、香梨奈のことにしろ、私に嫉妬をして私のものを取ろうとしてばかりの泥棒猫じゃないの」

 身体中の毛穴がいっせいに開くような怒りを覚える。

「そういうことにすればいいんじゃない」

 真奈美はこの不毛な会話を少しでも早く終わりにしたかった。

「何、その開き直った言い方」

 真奈美は里穂の言葉を無視して、大人が子供に笑いかけるみたいにして言った。

「あっ、最後に私からひとつだけいいこと教えてあげるね」

「何よ?」

 怪訝な顔で真奈美を見る里穂。

「あなたが所属している吹奏楽部。全国大会に出場して金賞とるよ。ただし、あなたはその大会から外されて出られないけどね」

 里穂の眼が緩く収束した。ショックからか冷えた蝋のように固まっている。

 数日前に見た予知夢のことを話した。わが校の吹奏楽部は有名で、これまでにも全国大会でしばしば金賞を受賞していたが、ここ数年受賞を逃していた。でも、有名校のためレベルの高い生徒が集まっていて、生徒間での厳しい競争もあるという。吹奏楽部の人間にとって、全国大会のメンバーに選ばれるかどうかは一番の関心事なのだ。里穂もそれを目指して一生懸命に取り組んでいることは真奈美も知っていた。だが、真奈美の見た予知夢では里穂は技術面で今一歩不足していて、その選から漏れるのである。これまで真奈美が見た予知夢と現実が一致しなかったことは一度たりともない。だから、今回もそうなる。

 ここまで言うつもりはなかった。だが、里穂の傲慢な顔を見ているうちに、ついと口に出た。一瞬後悔したが、後の祭りだった。里穂は無言で椅子を蹴飛ばして、教室を出て行った。

 真奈美の予知夢の通り、吹奏楽部は全国大会で金賞を受賞したが、里穂はそのメンバーに選ばれなかった。大会が終わり、学校での祝賀行事が終わった翌週の月曜日の昼休み。真奈美はいつも通り、映美と映美の友人たち数人と教室で雑談をしていた。すると、突然ドアが開き、里穂が入ってきた。みんなの目が一斉に里穂に注がれる。壁に空いた穴のような目をした里穂の手にはキラリと光るナイフが見えた。時間が止まったような静寂の後、時は荒々しく動いた。

「きゃあー」

 みんなが大声をあげ、散り散りに逃げていく。里穂は一瞬の躊躇いもなくナイフを持ったまま真奈美に突進してきた。目の奥で景色がぐらりと揺れた。

 

 小説を読み終えた亜香里は衝撃で何もかもの輪郭が少しぼやけて見えた。小説の中では石原真奈美として書かれているが、それが亜香里の妹の大山佳奈美のことであることは容易に想像がつく。この小説と、この絵が示しているのは、佳奈美の『絶望』だった。

 佳奈美の絵に描かれていたのは、小説の最後に書かれていた、今まさに同級生に殺される瞬間が描かれていたのだ。 

 佳奈美は小説で、はからずも持ってしまった予知夢を引き寄せる能力に翻弄され、苦しめられた自分の生き様を、小説家志望だった佳奈美らしく多少の脚色を持って書き上げたのではないか。ただし、この小説の中には、多くの事実が含まれている。佳奈美の担任教師が校舎の屋上から飛び降り自殺を図ったのも事実だし、佳奈美の友人が横浜で暴走車の巻き添えにあって死亡したのも、かなみと亜香里が大好きだったシンガソングライターの半田薫子が飛行時事故で死亡したのも事実だ。これらのすべての事実も、佳奈美は予知夢として事前に知っていたことになる。佳奈美にとって予知夢は、自分を深い沼の底へと導く以外の何物でもなかったのではないだろうか。

 一方、この絵を描き残した理由は、自分の最後の瞬間を中学一年生の時に、すでに予知していた事実を姉である私に知ってほしかったためなのか。絵の中で、佳奈美はすでに女子高の制服を着ていて、しかも、中学一年の時に描かれたものなのに、その顔は亜香里が知っている女子高生になった時点での佳奈美の顔として描かれている。そして、佳奈美の後ろで刃物を佳奈美に向けて立っている同級生の女の顔は、犯人の顔そのものだ。まるで、予知夢に導かれるように自らの命を喪った。そう思うと、亜香里の心は塞がれる。

 自分の最悪の未来を、中学一年の時点で見てしまった佳奈美にとって、その後の人生はどんな重みがあったのだろう。それは恐らく、迷子になった子供のように心細いものだったに違いない。佳奈美から生きることへの不感性さを亜香里が感じていたのは、このせいだったのかもしれない。かつて佳奈美は、『そもそも人間なんて必要のない生き物なのよ』と言っていたのを思い出す。生きていくということに、足元が沈み込んでいくような疑問を持ったに違いない。そう思うと、所詮自分には佳奈美の悲しみの穴を埋めることなどできなかったのだと実感した。

 この絵と小説は誰にも見せられないと思う。本来なら両親には見せるべきものなのかもしれないが、今見せたらようやく落ち着いた心をかき乱すだけだ。だから、とりあえずは、自分の胸の中にしまっておこう。そう考え、亜香里は小説と絵と、自分宛ての手紙を自分の部屋の奥にしまいこんだ。

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