第4話 佳奈美の見たもの…③
真奈美が通っていた私立円山学園は、中高一貫校だった。だから、真奈美はそのまま高等部に進学することはできたが、修学旅行で起きた教頭事件に嫌気がさしたため、真奈美はまったく別の女子高に入学した。
真奈美は中学生の時に親友のみなみを喪ったことで、心身ともに疲弊していた。予知夢を見てしまう自分を責めた。暗闇のその先にある暗闇の中で自分は生きている、そんな苦しみが常に自分を支配していた。自分を取り巻くものがどんどん曖昧になっている。
予知夢が良夢だけならば、むしろ歓迎するのだが、悪夢が現実となった時の心の負担はあまりに大きいのである。
毎日睡眠をとらなければ生きて行けない。だが、いつまた他人の人生を背負い込むような予知夢を見てしまうかもしれないという恐怖が真奈美にのしかかっていた。このままでは自分も長生きできないのではないかとさえ思っていた。ごく普通のありきたりで退屈で煩雑な色褪せた生活がしてみたい。心からそう思っていた。
だが、高校生になると、憑き物がとれたかのように予知夢を見ることがなくなった。そのことで、少し不安が薄れていた。自分にもごく普通の学校生活が送れるのではないかという喜びがあった。
そんな中で真奈美は何か自分が夢中になれるものがほしかった。だが、真奈美は多くの級友たちのように夢中になれるアイドルとか俳優はいなかった。級友たちがそうした話で盛り上がっていることが不思議ですらあった。
でも、そんな真奈美にも大好きな歌手ができた。もとはと言えば、姉が半田薫子という名のシンガーソングライターのファーストアルバムをくれたからだ。当時の真奈美はみなみのことをずっと引きずり精神的に少し病んでいて、自分の未来にも不安を感じていた。姉に悩みを打ち明けたことはなかったが、いつも真奈美の側にいた姉は何かを感じとっていたのかもしれない。姉は先天的に優しい人だから、真奈美の心が少しでも安らげばと、そのアルバムをくれたのだろう。
「真奈美、このCD聴いてみなよ。あげるから」
それだけ言って、CDを置いて部屋を出て行った姉の姿を、カッコいいと思って見送った。CDに目を移すと、『明日へ』というタイトルのついた半田薫子のファーストアルバムだった。真奈美は半田薫子というシンガーソングライターについての知識はまったくなかったのでネットで調べてみた。数年前にメジャーデビューはしているものの、まだ知名度は高くない。しかし、その歌唱力の高さから着実にファンは増えているらしい。
自分の価値観とか嗜好を押し付けることなどない姉は、ただ『聴いてみなよ』とだけ言った。なので、聴いてみた。良かった。噂の通りの高い歌唱力と、透明感のある声、その声質が創り出す半田薫子独特の世界観は真奈美の心に響いた。特に二曲目に収録されている『道標』は素敵だった。もちろん、曲がいいのだが、真奈美はその歌詞にも打たれた。
「お姉ちゃん、半田薫子っていいね」
「真奈美ちゃんもそう思った?」
「すごくいい」
「そう、良かった。真奈美の心と繋がるものができて、それだけで嬉しい」
今にも泣き出しそうな顔をして言う姉を見て、思わず真奈美もつられそうになる。だから敢えて軽い感じで返しておく。
「何よ、大げさなんだから。ちょっと趣味があったくらいでさ」
それでも、目尻にうっすら涙をためている姉の顔を見て、真奈美は目を背けた。
真奈美と姉の茜は異母姉妹だ。姉は父の先妻の子で、真奈美は今の母の子である。姉の実母も真奈美の実父もともに病死であった。母が父の後妻として迎え入れられた時、真奈美は小学6年生、姉は中学三年生だった。
初めて姉に会った時、真奈美には戸惑いがあったが、それは姉も同じようだった。でも、真奈美はその時すぐに『お姉ちゃん』と呼んだ。それは母から強く言われていたからだったが、そのことに別に抵抗はなかったし、単純にその人が好きだったから。でも、心を許していたわけではない。そんな真奈美に、年上で超がつく生真面目な姉は真奈美のことを妹として受け入れようといつも努力していたように思う。それでも、真奈美の態度は変わらなかったため、姉が傷ついていることもわかっていた。真奈美自身もそんな自分の気持ちを持て余していた。真奈美には当時から自分だけの世界があったのでどうしようもなかったのだ。
だが、同じ屋根の下で暮らすようになって、徐々にではあったけど距離は縮まっていた。姉の言うように、今回同じ歌手に心を動かされて、少しだけ姉の心に近づいたような気がする。だから、二人にとって半田薫子という歌手は、半田薫子の歌う歌は大切なものだった。以来、真奈美は半田薫子のCDが出る度に買ったし、姉と一緒に半田薫子のコンサートにも出かけた。これから先、長い人生を歩んでいく時々に半田薫子の歌は自分たち二人を支えてくれるのだろう。真奈美は歌の力の凄さを感じた。そんな歌手に出会えたこと、そんな歌手を自分に紹介してくれた姉に感謝していた。
だが、運命は酷薄だった。高校二年になった真奈美が再び見ることとなった予知夢はあまりに辛いものだった。
ある日のこと。眠りについて間もなく、真奈美の瞼の裏で映像が浮かび上がってきた。最初はぼんやりとした光の集まりだったが、次第に明確な像を結び始めた。
空一面を何かを予感させるような不吉な黒い雲が覆っている。強い風が大きな塊となって都会のビルの間を駆け巡っている。遠くのほうでは激しい稲光が地上に吸い込まれているのが見える。そんな中を光を点滅させながら飛行機が一機、何かに駆られたように空の中を突き進んでいたが、突然黒い渦巻きが片方の羽根をもぎ取った。バランスを失った飛行機は機体を左右に揺らしながらみるみる高度を下げ、それでも必死に安全な着陸場所を求めて飛んでいたが、やがて力尽きたように緑深い山の斜面に激突した。その瞬間、機体はぐにゃぐにゃになり、同時に激しい炎に包まれた。
羽田発午後3時30分の高松行きの飛行機が乱気流に巻き込まれて墜落した瞬間だった。夢の中で真奈美は自分がなぜこの夢を見ているのかがまだわからなかった。
時間が経つにつれ、次第に状況が明らかになっていく。テレビ画面では、上空を飛ぶヘリコプターから墜落現場を映す映像がが流れている。状況からして、すべての乗員、乗客の生存の可能性が低いとアナウンサーが報じている。それからさらにしばらくして、名簿に記載された乗客の名前が報じられ始める。胸騒ぎを覚える。真奈美が固唾を飲んで画面を見ていると、半田薫子という名前が画面に表示された。夢の中で真奈美は絶叫していた。
目が覚めた真奈美の目には涙の塊が残っていた。嘘であってほしい。何かの間違いであってほしい。でも、自分の予知夢が変わったことは一度もない。だから、どうにもならないことはわかっていた。しかし、みなみの時と同じ思いはしたくなかった。本当は姉に相談したかったが、予知夢のことを信じてもらえるとも思えず、一人で対応することにする。
夢の中で半田薫子が高松行きの飛行機に乗るのは午後3時30分の便とわかっていた。事務所のホームページで半田薫子のコンサートスケジュールを確認すると、四日後の午後7時から高松でコンサートが開かれることがわかった。真奈美はバイトで貯めたお金を使い同便の切符を買った。そして当日は出発時刻の2時間前には空港に行き、搭乗口付近の待合室で半田薫子が現れるのを待った。
出発時刻の30分前になった頃だった。薫子がマネージャーと思しき人物と自身のバンドメンバーを引き連れて現れた。真奈美は不審者扱いされるのを覚悟で薫子に近づいて行く。その様子にいち早く気づいたのはやはりマネージャーだった。真奈美の切羽詰まった顔に危機感を抱いたのだろうか、薫子の前に出る。
「半田さん、私ファンの石原真奈美と言います」
「そうですか。それはありがとうございます。で、握手か何かですか?」
マネージャーは一応笑顔を見せてはいるが、依然と警戒心を解いてない。
「いえ。半田さんにどうしても伝えたい大事なことがあって参りました」
「じゃあ、私がお聞きしますよ」
あくまでマネージャーは自分のところでとどめようとしている。
「すみません、直接お話させていただけませんか」
「いやそれはできません」
二人の様子を見ていた薫子がマネージャーの横に現れた。
「中村君、私がお聞きするわ」
マネージャーが中村という名前だとわかる。
「そうですか…」
中村は不安そうな顔をしている。
「この人は大丈夫よ。じゃあ、ちょっと場所をかえましょう」
そう言って薫子は真奈美を人のいない場所へと誘った。
「ここで伺います。どんなことでしょう」
「突然押しかけてすみません。半田さん、お願いですから、この飛行機に乗らないでくれませんか」
「それはなぜ?」
「この便は不吉な予感がするからです」
予知夢と言えば余計信じてもらえないと思い、予知夢という言葉は避けた。
「それはあなたの個人的な感覚?」
「そうですけど、これまでも私が感じたことはすべて現実に起きているんです。私、半田さんの大ファンで、半田さんを喪いたくないんです」
薫子は真奈美の顔をじっと見つめた。真奈美の心の奥を覗き込んでいるように見えた。しばらくして、その表情が一瞬緩んだ。
「ご忠告ありがとう。でも、万が一あなたの言ったことが正しかったとしても、私はこの便に乗ります」
「どうしてですか?」
「この便に乗らないとコンサートが開催できないからよ」
「次の便ではダメですか?」
「様々な準備もあるから間に合わないの。私は高松で待ってくださっているたくさんのファンの方々との約束を裏切ることはできません。だから、私はこの便に乗るわ」
突然現れた不気味な一ファンの話を虚言として排除することもできたであろうが、薫子は真奈美の言葉を真正面から真摯に受け止めてくれた。そのことは嬉しかった。薫子は『万が一もあり得る』と感じてくれたに違いない。最悪、次便にしてコンサートの開始を遅らせることもできたに違いない。しかし、薫子はファンとの約束を守り切ろうとした。半田薫子という人の人間性に真奈美は心を打たれた。自然に涙が零れ落ちた。
「泣かないで。あっ、ちょっと待ってね」
そう言うと離れた場所に立っていたマネージャーのところへ駆け寄り、何かを話した後、荷物の中からCDを一枚出してサインをしている。そしてそれを持って再び真奈美のところへ戻ってきた。
「これ新曲のCD。あなたにプレゼントするわ。だから泣かないで。私は大丈夫だから。これからも応援してね」
そう言って真奈美の両手を強く握りしめてくれた。ちょうどその時、搭乗案内のアナウンスがあった。
「じゃあ、真奈美ちゃんも元気でね。さようなら」
薫子はちゃんと名前を聞いていたのだ。呆然と立ったまま薫子を見送りながら、そっと『さようなら』と言った。
やはり止められなかった。でも、みなみの時と違い、自らの身体を張って自分ができ得る最善のことをやれた。そういう意味では後悔はなかった。あとは何かの間違いで予知夢が現実ならないことを祈るだけであった。
しかし、その祈りもむなしく夕方のニュースがまたも予知夢が現実になったことを示した。生々しい悲しみに襲われる。どんな言葉をかき集めても表せない哀しみ。大学に行っていた姉から悲鳴のような電話が入った。その日の夜、姉と私は抱き合って泣いた。私たちには泣くことしかできなかった。それからしばらくの間の姉の悲嘆ぶりは傍で見ていても辛いものだった。
私は薫子からもらったあのCDのことを未だに姉に話していない。
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