第143話 遡る(1)

もう3日もメールがない・・。


行ったばかりのころは


毎日のようにあったのに。



萌香は自宅のパソコンを閉じた。



真尋さんの


常識を超えた行動を


グチるようなメールばかりだったけど。


それでも


嬉しかったのに。




小さなため息をついた。


きっと


もうあの人のピアノに夢中になって


そんなことも忘れてしまっているんだろう。


そう思うと、ちょっと恨めしいような


微笑ましいような。





「あいつら、どないしてんやろ。」


志藤はパソコンに目をやりながらボソっと言った。


「は?」


横に居た萌香は気の抜けた返事をしてしまった。


「この前のオックスフォードの公演のあと、ちょこっと報告的なメール来ただけで。 3日ほど音沙汰なし・・」



自分に言っているのか、それともひとり言なのか。


萌香は黙っていた。



「真尋と斯波なんか、もう絶対に水と油なのに。 二人で1ヶ月もおんなじ部屋で過ごすなんて無理やなあって思ったけど。 斯波がどーしても行きたいとか言うし。 一緒の部屋でもいいから、なんてあの時は言ってたけど。ぜえったい・・後悔してんな、あれ。」


その言葉に思わず吹き出すように笑ってしまった。



「でも。 きっと・・その演奏が素晴らしかったんでしょう。 ウンともスンとも言ってこないところを見ると。」


萌香は言った。



「え? 栗栖んとこにも音沙汰なしなの? しゃあないなあ、」


志藤は笑った。





真尋は


『皇帝』の練習に入っていった。



一度仕上げたものなので、2台あるピアノのうち1台で斯波がオケ部分を担当していきなり併せてみることにした。


弾き始めてすぐに



すっげえ・・



斯波はいつになく真剣なまなざしの真尋に気づき、ちょっと圧倒された。


向かい合わせになったピアノから彼の顔をチラチラと見ながら弾いていたが、どんどん引き込まれてしまいそうで、慌てて楽譜を見て自分の旋律を意識して弾き始める。



第1楽章を終えて、一気に第2楽章まで突入した。



おれの体力が持つかよ・・


斯波は不安になってくる。



ところが。


真尋は突然、途中で弾くのを辞めた。


「・・・?」


不思議に思って顔を上げると、彼は慌ててトイレに駆け込んだ。



しばらく出てこないので、



「おい、だいじょぶか?」


トイレをノックして斯波は様子をうかがう。



水の流れる音がして、真っ青な顔をして真尋が出てきた。


「具合、悪いのか?」


「・・いや・・」


真尋はミネラルウオーターを一気に飲んで、ソファにぐったりと横たわってしまった。


「・・すんげえ気持ち悪くなって、」


「気持ち悪い??」


「なんっかもう。 どんどんあの時に戻っちゃってるみたいになって、」


真尋は両手で顔を覆った。




冗談っぽく


話してたけど


やっぱり


かなり当時は悲愴な状況だったと思われた。



こいつなりに


色々悩んだりしたんだろうな。


シェーンベルグ氏の命と引き換えにもらったチャンスみたいなもんだったし。



厳しいレッスン以外にも


無名の日本人ピアニストってだけで


オケからの風当たりも強かった、と聞く。




どれだけのプレッシャーだったのか、と思うと


胸が痛かった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る